1 自由のための戦い

2 ウィーン体制とその動揺(その2)

 1810年代から20年代に起こった自由主義運動はいずれも鎮圧されたが、時代の流れに逆らって自由主義・国民主義運動を抑圧しようとするウィーン体制は次第に崩れ始めた。

 その動きは、まず新大陸のラテン=アメリカの独立運動として始まった。ラテン=アメリカは、19世紀初めまでは主にスペインの植民地(ブラジルのみはポルトガルの植民地)であったが、スペイン・ポルトガルの植民地はアメリカ独立革命やフランス革命の影響を受け、また本国がナポレオンの支配下に置かれたのに乗じて独立運動を起こした。

 ラテン=アメリカで、まず独立したのはハイチであった。ハイチは1697年にスペイン領からフランス領になった。フランス革命に際して、黒人奴隷が反乱を起こし(1791)、独立運動が始まった。その後、ナポレオンの軍を撃退して1804年に独立し、世界最初の黒人共和国となった。ハイチの独立に続いて、1810年代になると反乱は各地に広まった。

 ラテン=アメリカの独立運動の中心となったのは、植民地生まれの白人であるクリオーリョであった。彼らは、本国から来た役人・軍人などから差別されていたので、本国の政策に対して強い不満を持っていた。また白人とインディオの混血であるメスティーソや、白人と黒人の混血であるムラートはクリオーリョよりもっと厳しい差別を受けていたので、彼らも独立と解放を望んでいた。

 シモン=ボリバル(1783〜1830)は、ベネズエラのスペイン人大地主の家に生まれたクリオーリョであった。スペインで教育を受けた後、帰国して大農場を経営していたが、1810年に独立運動に参加した。カラカス解放に成功し(1814)、「解放者」の称号を得たが、本国軍の反撃にあって一時亡命した。1819年には、大コロンビア共和国(現在のコロンビア・ベネズエラ・パナマを合わせた国、後にエクアドルも加わった)の樹立に成功し、その大統領となった。その後、ボリビア共和国(ボリビアの国名はボリバルの名に因んでいる)の独立にも成功した(1825)。しかし、大コロンビア共和国の解体(1830)に失望して引退し、まもなく病没した。

 アルゼンチン・チリ・ペルーの独立運動の指導者であるサン=マルティン(1778〜1850)やメキシコの独立運動の指導者であるイダルゴ(1753〜1811)もクリオーリョであった。

 こうして1810年代には、パラグアイ(1811)・アルゼンチン(1816)・チリ(1818)・コロンビア(1819)・ベネズエラ(1819、最初は大コロンビアと合邦、1830年に分離独立)などが独立して共和国となった。1820年代には、メキシコ(1821)・ペルー(1821)・中央アメリカ連邦共和国(1821、コスタリカ・グアテマラ・ホンジュラス・ニカラグア・エルサルバドルが合邦して形成)・ブラジル(1822、ポルトガルの王子を頂いて帝国として独立)・ボリビア(1825)・ウルグアイ(1828)なども独立した。

 ウィーン会議の正統主義に従えば、ラテン=アメリカはスペイン・ポルトガルの植民地であるべきで、ラテン=アメリカ諸国の独立はウィーン体制の破綻に繋がることになる。そこでメッテルニヒは、ラテン=アメリカの独立運動を革命とみなし、ウィーン体制を乱すものと考え、神聖同盟の名の下にラテン=アメリカの独立運動に武力干渉を行おうとした。

 イギリス外相のカニング(1770〜1827、任1807〜09、22〜27)は、ラテン=アメリカ市場へのイギリス商品の進出のため、神聖同盟の干渉に反対し、ラテン=アメリカ諸国の独立を承認・援助した。

 またアメリカ合衆国の第5代大統領モンロー(任1817〜25)も、1823年12月に、有名な「モンロー宣言(教書)」を発表し、「それゆえに、われわれは率直に、また合衆国とこれら諸国との間に存する友好関係に恩義を感じつつ、これら諸国の政治体制を西半球のどの部分にも拡張しようとする企てはわれわれの平和と安全を害するものと考えることをここに宣言する。ヨーロッパ諸国の現在の植民地あるいは従属国についてわれわれはかつて干渉したことはないし、将来も干渉しないであろう。しかし、すでに独立を宣言し、それを維持し、またその独立についてわれわれが熟考し、正しい基準にもとづいて承認した諸政府については、われわれはヨーロッパ諸国がその独立政府を抑圧し、あるいは他の方法でその運命を支配するような目的をもってするどのような干渉も、合衆国に対する非友好的態度の表れとみなさないわけにはゆかない。・・・ 」と神聖同盟によるラテン=アメリカ諸国の独立運動への干渉に反対し、ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を唱えたので、メッテルニヒの企ては失敗に終わった。

 ラテン=アメリカ諸国の独立によって、ウィーン体制はヨーロッパ外から崩れ始めたが、1820年代にはヨーロッパ大陸でも、メッテルニヒらウィーン体制を維持しようとする勢力に大打撃を与える出来事が起きた。ギリシアの独立である。

 ギリシアは、1000年以上にわたってローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にあったが、ビザンツ帝国の滅亡後(1453)はオスマン=トルコ帝国の一州となり、イスラム教徒の支配下に置かれてきた。しかし、オスマン=トルコが17世紀以後衰退に向かう中で、ギリシア人は商人・官僚として活躍し、経済や外交面で大きな力を持つようになっていた。

 19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン戦争による自由主義・国民主義がギリシアにも及ぶようになり、ギリシア人はオスマン=トルコからの独立を求めて立ち上がった。

 1820年にアルバニアでオスマン=トルコに対する反乱が起きると、翌1821年にヘタイリア=フィリケ(ギリシアの独立をめざす秘密結社、ギリシア語で「友の会」の意味)がルーマニアで反乱を起こした。この反乱は失敗に終わったが、これがギリシア独立戦争(1821〜29)のきっかけとなった。

 1821年3月にペロポネソス半島で始まったギリシア人の独立蜂起はたちまちギリシア全土に広まり、1822年1月には独立宣言が行われた。

 これに対して、オスマン=トルコは報復として、コンスタンティノープルでギリシア人の大虐殺を行うとともに、シオ(キオス)島に軍隊を送り込み、2.2万人の島民を虐殺し、4.7万人の男女を奴隷とした(シオの虐殺、1822.4)。

 フランスのロマン派の代表的な画家ドラクロワ(1798〜1863)は、「シオの虐殺」(1824年に出品)を描いて、ギリシアへの救援を訴えて大きな反響を呼んだ。

 さらにオスマン=トルコは、エジプト太守のムハンマド=アリ(1769〜1849)にギリシアの鎮圧を命じ、トルコ軍はイオニア海岸のミソロンギを包囲し(1825)、翌年陥れた。

 この時、イギリスの代表的なロマン派の詩人バイロン(1788〜1824)は、自分の炭田を売り払って資金を作り、武器・弾薬を積み込んで、1824年1月にミソロンギに入ったが4月に病死した。

 ヨーロッパの人々にとって、ヨーロッパ文明の発祥の地であるギリシアはあこがれの地であり、また異教徒のトルコ人に対して独立のために戦うギリシア人に同情し、バイロンをはじめ多くの人々が義勇兵としてギリシア独立運動に参加した。

 ミソロンギの陥落(1826)後の不利な状況のなかでも、ギリシア人の独立運動は続けられた。その頃、ヨーロッパの国際関係に変化があらわれ、ギリシアにとって有利な状況が現れてきた。

 メッテルニヒは、正統主義の立場からギリシアの独立戦争に対してはオスマン=トルコを支持していたが、1825年にロシアで、メッテルニヒに同調してきたアレクサンドル1世が急死してニコライ1世(位1825〜55)が即位すると、ロシアはギリシア援助を口実にトルコに宣戦してバルカン半島へ南下する可能性が出てきた。

 ロシアの南下を警戒するイギリスは、フランス・ロシアを加えた3国でロンドン会議(1827〜32)を開き(1827.7)、トルコに休戦の調停を申し入れる・トルコが受け入れないときはギリシアを援助して海軍を出動させるというロンドン条約を結んだ。しかし、トルコがメッテルニヒの支援を期待してこれを拒否したために、イギリス・フランス・ロシア連合艦隊が出動し、1827年10月にナヴァリノの海戦でトルコ・エジプト艦隊を撃滅した。この海戦によってギリシアの独立が可能となった。

 翌1828年4月、ロシアはトルコに宣戦してアドリアノープルを占領し、アドリアノープル条約(和約)(1829.9)が結ばれた。この条約で、ロシアはトルコにドナウ川沿岸・黒海沿岸を割譲させ、トルコはギリシアの独立を承認した。

 そして、1830年2月に開かれたロンドン会議で、ギリシアの完全独立が国際的に承認され、1832年にはバイエルン王家からオットー1世(位1832〜62)が国王に迎えられた。

 ギリシアの独立は、ウィーン会議後のヨーロッパにおける最初の領土変更で、ウィーン体制がもはや維持できなくなったことを示している。 




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