1 自由のための戦い

3 七月革命とその影響

 フランスでは、ナポレオンの退位直後に、ルイ18世が帰国して即位し、ブルボン朝が復活した。

 ルイ18世(1755〜1824、位1814〜24)は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791.6)と同時に国外へ逃亡し、反革命運動を行った。ナポレオンの没落後に帰国して王位についたが(1814.5)、ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーに亡命し、1815年7月に復位した。

 ルイ18世は、即位後間もなく新憲法(憲章)を発布し(1814.6)、立憲君主制をしいたが、選挙権が財産資格によって極端に制限されていたので亡命貴族(エミグレ)が議会の多数を占めた。革命への怨みをはらそうとする執念にとりつかれた彼らは過激王党派(ウルトラ)を組織し、「国王より王党的」であった。

 ルイ18世は、1816年9月に過激王党派が多数を占める議会を解散した。10月に行われた選挙では立憲君主主義者が過半数を占めた。これに対して過激王党派は、その中心人物であったアルトワ伯(後のシャルル10世)の次男が暗殺されるという事件(1820.2)をきっかけに、再び巻き返して反動政策を推し進めた。

 ルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世(1757〜1836、位1824〜30)として即位した。ブルボン朝の最後の王となったシャルル10世は、ルイ16世・ルイ18世の弟で、フランス革命中は亡命して反革命運動を行った。ナポレオンの没落後帰国し(1814)、アルトワ伯と称して過激王党派を指導した。

 シャルル10世は、即位すると亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出した。

 シャルル10世は、1827年11月に議会を解散して総選挙を行ったが、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめた。追いつめられたシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャック(1780〜1847)を首相に任命すると(1829.8)、国王と議会の対立が深まった。

 1830年5月、シャルル10世は再び議会を解散したが、7月の選挙では自由主義派(反政府派)がさらに増加した。そのためポリニャックは、国内の危機を回避するために、国民の目を国外に向けようとしてアルジェリア出兵(1830.7)を行なうとともに、七月勅令の発布を進めた。

 1830年7月25日に発布された七月勅令では、7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること、次回の選挙を9月に行うこと、地主以外の有権者の選挙権を奪うこと、言論・出版の統制を強化することが布告された。

 これに対して、7月27日、パリの学生・小市民・労働者ら約6万人は共和主義者を中心にバリケードを作り始め、28日には市街戦が激化し、29日には民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領した。これが七月革命である。市街戦が行われた7月27日から29日は「栄光の三日間」と呼ばれている。この「栄光の三日間」の市街戦の様子は、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているありさまを描いたドラクロワ(1798〜1863)の有名な「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)に描かれている。

 シャルル10世は、8月2日に退位を宣言してイギリスに亡命し、8月9日にはオルレアン家の自由主義者ルイ=フィリップが「フランス人民の王」として即位した。そして14日には新憲法が制定され、七月王政(1830〜48)が始まった。

 ウィーン体制はラテン=アメリカ諸国の独立・ギリシアの独立によって破綻しつつあったが、七月革命は今までのように新大陸やイスラム教国での出来事でなくフランスでの出来事であり、また七月革命の成功によってフランスが神聖同盟から離脱したことは、ウィーン体制を守ろうとする勢力にとっては大きな衝撃であった。そのため七月革命はウィーン体制下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与えた。

 七月革命の影響は、まずオランダ領ベルギーに現れた。ベルギーはウィーン会議ではオランダに併合されたが、もともとオランダとベルギーの間には民族・言語・宗教などの面で大きな相違点があった。

 オランダ人がドイツ系でカルヴァン派を信仰していたのに対し、ベルギー人はフランス系でカトリックを信仰していた。オランダがベルギーの宗教・言語・教育に干渉し、ベルギーの工業の発展を抑えたので、ベルギー人の不満が強まっていた。さらにオランダ語を公用語とし、オランダ語が話せない者は官吏に任用しないという布告が出されると反オランダ運動が高まり、七月革命の報が伝えられると、1830年8月26日にブリュッセルで独立蜂起が始まった。

 ベルギーは、鎮圧に向かったオランダ軍との「九月の四日間」の戦闘で勝利を得、10月に独立を宣言した。イギリス外相パーマストンの仲介によってロンドン会議が開かれ、1830年12月に独立が承認され、翌1831年にはレオポルド1世(位1831〜65)が即位して立憲王国となった。

 ベルギーの独立運動は成功したが、ポーランド・ドイツ・イタリアで起こった革命運動はいずれも不成功に終わった。

 ウィーン会議後ロシアの支配下におかれていたポーランドでは、ニコライ1世の反動政治に対して独立運動が秘密裡に進められていた。そこへ七月革命やベルギーの独立の報が伝えられると、1830年11月にワルシャワの士官学校の生徒が蜂起したのをきっかけとしてワルシャワ革命が起こった。

 ポーランド人は一時はロシア総督を追って革命政府を樹立し、革命政府は1831年1月に独立を宣言した。しかし、ロシアは大軍をポーランドに派遣し、ポーランド人の抵抗を抑えて9月にはワルシャワを占領した。ニコライ1世は革命勢力を徹底的に弾圧し、ポーランドをロシアの属州とし、以後ロシア化政策を推し進めた。

 ウィーンでワルシャワ蜂起の報を聞いたポーランドのロマン派の作曲家ショパン(1810〜49)は、パリに向かう途中のシュツットガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その時の衝撃をピアノ練習曲「革命」で表現している。

 ドイツでは、1830年にザクセン・ヘッセン・ハノーヴァーなどで革命暴動が起きて憲法が制定されたが、メッテルニヒはドイツ連邦議会を利用して革命運動を弾圧した。

 イタリアでも、1831年に七月革命の報が伝わると、カルボナリがボローニャ・モディナ・パルマなどの中部イタリアで蜂起したが、オーストリア軍によって鎮圧され、カルボナリは壊滅した。

 マッツィーニ(1805〜72)は、カルボナリに参加して逮捕され、その後マルセイユに亡命していたが、1831年にこの地でカルボナリの残党を吸収して「青年イタリア」を組織し、共和主義によるイタリアの統一をめざした。彼はサルデーニャ国王カルロ=アルベルト(位1831〜49)に統一を呼びかけたが拒否されて失敗に終わった。




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