1 自由のための戦い

4 イギリスの諸改革

 産業革命をいち早く成し遂げたイギリスではブルジョワジー(産業資本家)の地位が高まり、1820年代には自由主義的傾向が強まり、1830年代には七月革命の影響のもとで自由主義改革が次々と行われた。

 クロムウェルの征服以来、宗教・政治・土地所有などの面で差別に苦しんできたアイルランドでは、カトリック信仰の自由と政治的自治を求めて17〜18世紀にしばしば反乱が起きたがすべて鎮圧された。こうした状況のなかで、イギリス議会はアイルランド人の要求を無視して、1800年に合同法を可決し、翌1801年にアイルランドを正式に併合した。

 アイルランドの地主の家に生まれたオコンネル(1775〜1847)は、1823年にカトリック教徒の選挙権獲得をめざしてカトリック協会を設立し、アイルランドの解放運動を指導した。1828年に下院議員に選出されたが、非国教徒が公職に就くことを禁止した審査律にふれて議席を拒否された。

 オコンネルの議席が拒否されたことにアイルランド人は強く反発した。さらに反乱に発展することを恐れたウェリントン首相は国王に譲歩を勧め、1828年5月に審査律が廃止された。審査律の廃止によってカトリックを除く非国教徒の公職就任が可能となった。

 オコンネルらは、さらに併合の際の公約であったカトリック教徒の選挙権獲得をめざす運動を展開し、翌1829年についにカトリック教徒解放法案が成立し、カトリック教徒の公職就任が可能となった。これによってイギリスでは宗教による差別が撤廃された。

 当時のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正問題であった。イギリスは議会政治の先進国であったが、18世紀の議会政治にはさまざまな問題があった。参政権は相当の土地を所有する地主に限られ、投票の秘密はなく、投票権の売買も行われていた。

 また産業革命の結果、人口の都市集中がおこり、激しい人口の移動がおこっていた。しかし、選挙区は昔のままで、人口が激減したにもかかわらず従来通りの議員選出の特権を持ち、有力地主・貴族の意のままになった選挙区、すなわち腐敗選挙区が多くある一方で新興の大工業都市にはほとんど議員定数の割り当てがなかった。例えば、人口200人以下の選挙区が111あり、人口ゼロの選挙区も34あった。こうした不合理な選挙制度の改正を求めたのは産業資本家や労働者達であった。

 ホイッグ党は、1819年から4回選挙法改正法案を提出したが、いずれもトーリー政権の反対にあって否決されていた。七月革命が起こると、その影響を受けて、1830年12月の選挙ではホイッグ党が進出し、グレー内閣(任1830〜34)が成立した。1831年にグレー内閣は選挙法改正法案を提出したが、下院を通過しても上院では否決された。

 こうした状況の中でグレー内閣の退陣・ウェリントンの再組閣の報が伝わると、イギリスは革命前夜の状態に陥り、再任されたグレー内閣のもとで、1832年6月にやっと選挙法改正法案が成立した(第1回選挙法改正)。

 これによって、56の腐敗選挙区が廃止され、143議席が再配分され、新興都市にも議席が与えられた。また都市の産業資本家など市民階級に選挙権が与えられ、有権者数は50万人から81万人に増加した。

 しかし、この改正では労働者には選挙権が与えられなかったので、労働者は普通選挙を要求する運動を起こした。この運動はチャーティスト運動と呼ばれ、労働者による最初の政治運動となった。

 彼らは6カ条からなる「人民憲章(People's Charter)」(1837年にまとめられ、翌1838年に全国に配布された)を掲げて運動を起こし、1839・1842・1848年に多数の署名を添えて議会に請願書を提出し、大規模な請願デモを行った。

 人民憲章6カ条は、男子普通選挙・無記名投票(それまでは口頭だった)・議会の毎年召集・議員の財産資格制限廃止・議員への歳費支払い・平等選挙区制であった。

 しかし、彼らの請願は拒否され、1848年の大デモ行進を最後に衰え、労働者はチャーティスト運動によっては選挙権を獲得することが出来なかった。

 参政権を獲得した産業資本家は、次に経済面での自由主義的改革を求め、自由貿易主義の実現を要求した。すでに1813年に東インド会社の対インド貿易独占権は茶を除いて廃止されていたが、1834年には東インド会社の対中国貿易独占権も廃止された(廃止の決定は1833年)。

 経済面での自由主義的改革のうち最も重要な改革は穀物法の廃止であった。
 穀物法は、1815年に制定された地主の利益を擁護するための法律であった。ナポレオン戦争が終結し、大陸封鎖令が解かれると、イギリスには工業製品の見返り品として、東ヨーロッパ・北ヨーロッパ・カナダなどから大量の安い穀物が輸入されるようになった。 そのため、ナポレオン戦争後も穀物価格を高く維持するために、国内価格が1クォーター(約242リットル)80シリングに達するまで外国産小麦の輸入を禁止した。その後、穀物価格の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められた。

 当時、消費者である労働者の数が飛躍的に増大すると、労働者は高い食糧を押しつける穀物法に強く反対したが、穀物法反対運動の中心になったのはコブデンやブライトらの産業資本家達であった。

 コブデン(1804〜65)は、農家に生まれ、ロンドンで事務員となり、後にマンチェスターで捺染工場を興して富豪となった。アダム=スミスの自由主義経済学に共鳴し、自由貿易を主張した。またブライト(1811〜89)は、紡績工場を経営する産業資本家であったが、コブデンと知り合って、1839年に反穀物法同盟を結成し、穀物法の廃止運動を展開した。

 ピール保守党内閣(任1834〜35、1841〜46)は、1845年のアイルランド飢饉をきっかけに穀物法の廃止を決意し、穀物法は1846年についに廃止された。

 また1849年には航海法(1651年にクロムウェルが制定)も廃止され、外国船はイギリス船と同等の権利をもってイギリスの海運に従事することが出来るようになり、輸送費が安くなり、イギリスの貿易がさらに盛んとなった。

 穀物法の廃止・航海法の廃止によってイギリスの自由貿易主義体制が確立された。




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