1 自由のための戦い

5 社会主義思想の成立

 産業革命によって大量の労働者が生み出された。彼らは資本家の利潤追求の犠牲となり、低賃金で長時間働かされ、貧困に苦しみ、悲惨な生活を送っていた。そこで彼らは生活改善のために団結して労働運動を起こすようになったが、イギリスでは、1799年・1800年に団結禁止法が制定され、違反者は投獄などに処せられた。

 労働者や手工業者らは初め、その生活が苦しい原因は新しく発明された機械にあると考え、機会打ちこわし運動を起こした。1811〜17年に、イギリス中・北部の織物工業地帯で起こった機会打ちこわし運動は、伝説的な人物ラッドにちなんでラダイト運動と呼ばれたが、政府によって厳しい弾圧を受けた。

 1824年に団体禁止法が撤廃されると、多くの労働組合が結成され、労働運動の主体となった。当時のイギリスで労働運動に大きな影響を及ぼしたのがロバート=オーウェンである。

 ロバート=オーウェン(1711〜1858)は、徒弟奉公から身を起こして紡績工場の支配人となり、ついでスコットランドのニュー=ラナーク紡績工場で経営者となり、この工場で利潤の追求よりは労働者の生活改善・幼少年の教育・福祉の向上に努めた。 さらに私財を投じてアメリカのインディアナ州に「ニュー=ハーモニー」村を建設して共産主義的な協同社会の建設を試みたが(1825〜29)失敗し、全財産を失って帰国した。

 帰国後は全国労働組合大連合の結成(1834)に努力したが、政府の弾圧と内部分裂によって数ヶ月で崩壊すると、チャーティスト運動などからも離れ、貧窮のうちに没した。この間、社会環境の改善による人間性の改善を提唱し、工場法の制定にも尽力した。

 工場法は、年少労働者の労働条件を規制した法律で、1802年の幼年徒弟の労働時間を12時間に制限した法律が最初の工場法といわれている。1819年の工場法は、オーウェンの尽力で制定され、9歳以下の雇用禁止・9〜16歳の12時間労働が規定された。この工場法で9歳以下の雇用が禁止されたということは、それまで9歳以下の多くの子供が雇用されていたことを示している。

 そして、1833年の工場法で、9〜13歳の9時間労働・18歳以下の12時間労働や工場監督官制(工場法が守られているかどうかを監督する制度)が規定された。さらに、1847年には婦人・児童の10時間労働が定められ、労働者の労働条件は次第に改善されていった。

 オーウェンと同じ頃、フランスではサン=シモンやフーリエらも労働者を保護する新しい社会秩序の建設を説いていた。

 サン=シモン(1760〜1825)は、パリの貴族に生まれ、16歳で軍隊に入り、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加した。フランス革命によって全財産を没収されたが革命を支持し、革命後は人々が自由に能力を発揮できる平等な社会の実現を説いたが、彼自身晩年は貧窮に苦しんだ。

 フーリエ(1772〜1837)は、富裕な毛織物商人の子に生まれ、少年時代から商業に携わりヨーロッパ各地をめぐった。彼は、その体験に基づいて資本主義を批判し、「ファランジュ」と呼ばれる協同組合的な理想社会の実現をはかったが失敗し、彼も貧窮のうちに没した。

 ロバート=オーウェン・サン=シモン・フーリエらは、人道主義的な立場から理想社会の実現をめざしたが、その理論は現実社会の分析が不十分で、理想社会実現の方法が空想的であったので、マルクスやエンゲルスは「空想的社会主義」と呼んで批判し、自分たちの思想体系を「科学的社会主義」と称した。

 フランスではサン=シモン・フーリエらに続いて多くの社会主義思想家が現れた。
 ルイ=ブラン(1811〜82)は、生産の国家統制を主張し、二月革命後の臨時政府に参加し、国立作業場(国立工場)の設置に尽力した。

 プルードン(1809〜65)は、その著『財産とは何か(所有とは何か)』(1840)で「財産、それは窃盗だ」と述べ、私有財産制を批判して有名となった。彼は私有財産制と国家の廃止を主張したが、社会問題の解決を相互扶助に求めた。また彼の思想は無政府主義に大きな影響を与えた。

 ドイツのマルクスやエンゲルスは、オーウェンらの空想的社会主義を批判し、科学的社会主義を唱え、資本主義の没落と社会主義社会の実現を科学的に論証した。

 マルクス(1818〜83)は、ライン州トリールでユダヤ人弁護士を父として生まれた。ボン・ベルリン大学で法律を学んだが、歴史や哲学にも熱中した。卒業後、『ライン新聞』の編集長となり、貧困や抑圧に苦しむ労働者や農民に接する中で、当時のドイツ社会への批判を強めていった。そのため新聞は発禁処分となり、彼はパリに赴いた(1843)。

 その後、ブリュッセル・ロンドンで共産主義運動を始め、ロンドンでドイツ移民を中心に「共産主義者同盟」が結成されると、その綱領の執筆を依頼され(1847)、エンゲルスと共同で『共産党宣言』(1848.2発表)を起草した。

 1848年に、フランスで二月革命・ドイツで三月革命が起こると、パリを経てケルンに帰り、『新ライン新聞』の主筆として活躍したが、革命の失敗後パリを経てロンドンに亡命し(1849)、終生ここに住んだ。

 ロンドンでは苦しい亡命生活を余儀なくされ、すさまじい貧困に苦しめられたが、この苦境のなかにあったマルクスを物心両面から援助したのがエンゲルスであった。マルクスは大英博物館に通って研究に打ち込むとともに国際的な労働運動の指導に尽力し、第1インターナショナル(1864〜76)の設立にも関わり、その創立宣言を起草した。

 彼の主著『資本論』は、1867年に第1巻が公刊されたが、第2巻・第3巻はマルクスの死後エンゲルスの編纂によって刊行された。そして晩年は貧困と病苦に悩まされながら、ロンドンで没した。

 エンゲルス(1820〜95)は、ライン州の紡績工場主の子に生まれ、父の会社の関係でイギリスに渡り、仕事のかたわら研究・執筆活動を行った。1844年にパリで亡命中のマルクスと再会し、以後終生変わらぬ友情と協力関係を結んだ。特にロンドンに亡命したマルクスを経済的に援助し、また彼の著作の普及に努めた。

 マルクスの思想は、「一つの妖怪がヨーロッパをはい廻っている−共産主義という妖怪が」という有名な文で始まる『共産党宣言』に簡潔に要約されている。

 マルクスは、人間社会や歴史の基礎をなすのは人間の物質的な生産活動であり、その経済的な土台の上に政治・制度・文化が成立すると考え、歴史は生産力と生産関係の矛盾を原動力として発展していくと説いた(唯物史観・史的唯物論)。

 そして「今日までのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である。自由民と奴隷・貴族と平民・領主と農奴・ギルドの親方と職人、要するに抑圧者と被抑圧者は常にたがいに敵対し、ときにはひそかに、ときには公然とたえず闘争を続けてきた。」(共産党宣言の一部、以下同じ)と述べ、古代奴隷制では奴隷所有者と奴隷・中世封建制では領主と農奴・近代資本主義では資本家と労働者という形で階級闘争が行われ、歴史が発展してきたと説いた。

 そして近代資本主義では「大工業の発展ともに、ブルジョワ階級の足もとから、彼らがそのうえで生産を行い、生産物をわがものとした基盤そのものが失われていく。ブルジョアワ階級は何よりも自分自身の墓掘り人をつくりだす。彼らの没落とプロレタリア階級の勝利はともに不可避である。」と述べ、大工業の発展によって資本家と対立する労働者階級が大量に生み出されるから、資本家と労働者の対立は労働者階級の勝利に終わる。従って資本主義体制の没落と社会主義社会の実現は歴史の必然であると主張した。

 しかし、資本家の力は強いから、社会主義社会の実現には労働者の国際的な団結が必要であると説き、「共産主義者は、今までのいっさいの階級秩序の暴力による転覆を通じてのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級は共産主義革命の前に恐れおののくがよい。プロレタリアは鉄鎖以外に失うものは何ももたない。うるのは全世界である。」と述べ、「万国のプロレタリアよ、団結せよ。」という言葉で結んでいる。




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