1 自由のための戦い

6 二月革命とナポレオン3世

 フランスでは、七月革命(1830.7)後、新政府の政体をめぐってブルジョワ派と共和派が対立したが、ブルジョワ派が共和派を抑え、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップを王に迎えて七月王政(1830〜48)が成立した。

 ルイ=フィリップ(1773〜1850、位1830〜48)は、オルレアン公フィリップ(フランス革命で刑死)の長男に生まれ、父の死後オルレアン家(ブルボン家の分家)を継いだ。フランス革命中は国外に亡命し(1793〜1814)、ナポレオンの没落で帰国した。帰国後はブルジョワの自由主義者と交わり、七月革命後にブルジョワの支持で王に迎えられ、「フランス人民の王」として即位した(1830.8)。

 フランスでは、七月革命後、産業革命が本格化し、産業資本家の力が増大する一方で多くの労働者階級が生み出されていた。

 しかし、七月王政(1830〜48)の支持者は、大資本家や銀行家(金融資本家)などの大ブルジョワと大地主などで、七月王政下では大資本家や銀行家に有利な政策が取られたので、中小資本家や労働者・農民などの不満が強まった。

 当時のフランスは極端な制限選挙であったが、選挙の度ごとに有権者数は徐々に増加していた。1830年の約9万人から、1839年には約20万人に増加したが、総人口に対する割合は0.6%にしか過ぎなかったので、中小資本家や労働者は選挙法の改正を要求した。

 フランスは、1846年に凶作にみまわれ、さらに翌1847年には国際的な恐慌の影響を受け、国民は食料品の値上がりや失業に苦しんだ。これに対して政府は適切な対策を取ることが出来ず、次第に人気を失った。こうした状況の中で選挙法改正運動が急速に高まった。

 1847年の夏頃から、「改革宴会」と呼ばれる選挙法改正を目的とする集会が各地で開かれるようになった。この集会は、最初は宴会の形をとって「国王万歳」などと祝杯があげられたが、次第に普通選挙や人民主権など政治・経済・社会問題が熱心に論じられ、政府に対する批判も行われたので「改革宴会」と呼ばれた。

 「ヨーロッパ文明史」の著者で歴史家としても知られる当時の首相ギゾー(任1847〜48)は、「金持ちになり給え、そうすれば選挙人になれる」と述べて改革宴会への干渉を強め、パリでの改革宴会を禁止した(1848.1)。

 1848年2月22日、この日予定されていたパリの改革大宴会は政府の干渉で中止されたが、禁止されていた無届けの集会とデモが強行され、デモ隊はブルボン宮殿を囲んで「ギゾーを倒せ」・「改革万歳」と叫んだ。

 翌2月23日、デモはますます激しくなり、バリケードが築かれた。政府は国民軍を動員して鎮圧にあたらせようとしたが、国民軍の大半が反政府にまわったので、国王はギゾーを解任した。

 しかし、23日の夜、デモ隊への軍隊の発砲をきっかけに2月24日には激しい市街戦が行われ、民衆は市庁舎を占領し、テュイルリー宮殿に侵入した。ルイ=フィリップは退位してイギリスに亡命し、共和政による臨時政府が成立した。これが二月革命である。

 二月革命直後に成立した臨時政府は、有産市民を代表するラマルティーヌ(1790〜1869、ロマン派詩人としても有名)ら7人のブルジョワ共和主義者と労働者を代表するルイ=ブランら2人の社会主義者、そして小市民を代表する2人から成り立っていた。しかし、政府内ではブルジョワ共和派と社会主義共和派との対立が激しかった。

 臨時政府は、ただちに共和政宣言を行い、第二共和政(1848.2〜52.12)が発足した。そして普通選挙制・言論と結社の自由・植民地の黒人奴隷制の廃止などの民主的な改革を進めるとともに、ルイ=ブランの主張に基づいて国立作業場(国立工場)が設立された。

 国立作業場は失業者の救済をめざしておもに土木事業を行ったが、資材の供給や仕事の配分が混乱したためにたいした仕事も与えられず、労働者は一日の大半をむなしく過ごしながらも日当を支給されていた。

 1848年4月、普通選挙による憲法制定議会議員選挙が行われ、ブルジョワ共和派が圧倒的な勝利をおさめ、社会主義者は惨敗し、ルイ=ブランも落選した。

 四月選挙でブルジョワ共和派が勝利をおさめ、社会主義者が惨敗した理由としては、フランス革命によって土地を所有した農民が社会主義イコール私有財産の没収と思いこんで土地を失うことを恐れてブルジョワ共和派を支持したこと、また革命前からの凶作・恐慌 による食料品の値上がり・失業に苦しむ市民・労働者らがほとんど働かないで日当をもらっている国立作業場の労働者に反感を抱いたことなどがあげられる。

 6月21日に国立作業場の廃止が決定されると、パリの労働者は反政府運動に立ち上がった。23日には全市にわたってバリケードが築かれ、23日から26日にかけて激しい市街戦が繰り広げられたが、政府軍に鎮圧され、1500人が即時銃殺され、2万5千人が逮捕されて死刑・流刑・強制労働に処せられた。この六月暴動(六月蜂起)によってブルジョワ支配が確立した。

 また六月蜂起は、「諸国民の春」(1848年春にヨーロッパ各国で自由主義・国民主義が高揚したことをいう)に影響を及ぼし、その鎮圧を機にヨーロッパ各国の自由主義・国民主義運動が後退し、各国で反動勢力が復活した。

 憲法制定議会は、11月4日に第二共和国憲法を制定した。この憲法は人民主権・三権分立を主要な原理とし、国民投票によって選ばれる任期4年の大統領が行政権を行使する大統領制を採用した。そして12月10日に新憲法に基づく第1回目の大統領選挙が行われ、ルイ=ナポレオンが圧倒的に多数の票(約74%)を獲得して当選した。

 ルイ=ナポレオン(1808〜73)は、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイの第3子として生まれた。ナポレオンの没落後は各地に亡命し(1815〜30)、1830年にはイタリアでカルボナリの一員として革命運動に参加した。1836年にはストラスブールで帝政復活の反乱を企てて失敗し、アメリカへ追放されたが、その後ロンドンに移住した(1838)。1840年にもブーローニュに上陸して再び帝政復活の反乱を企てたが失敗して逮捕され、終身刑に処せられて投獄されたが、1846年には労働者に変装して脱獄に成功してロンドンに逃れた。1848年、二月革命後の6月の補欠選挙でロンドンにいたままで選出された。この時は失格とされたが、9月の補欠選挙でも当選して議員となり、12月の大統領選挙に立候補して当選した。

 1849年に行われた選挙では王党派が圧勝し、ルイ=ナポレオンと議会の対立が強まったが、王党派が反動政策で人気を失うと、ルイ=ナポレオンの人気が高まった。

 ルイ=ナポレオンは、人気を利用して独裁権を固めようとし、大統領の再選を禁止した憲法の修正が否決されると、1851年12月2日にクーデターを起こして武力で議会を解散し、王党派を一掃し、共和派の抵抗を抑えて独裁権を握った。

 ルイ=ナポレオンは、1852年1月に新憲法を発布して大統領の任期を10年に延長し、さらに同年11月には国民投票を行って782万票対25万票という圧倒的な支持を得、12月2日に皇帝となり、ナポレオン3世(位1852〜70)と称した(第二帝政、1852〜70)。




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