1 自由のための戦い

7 二月革命の影響

 二月革命は、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動に大きな影響を及ぼし、全ヨーロッパで自由主義・国民主義が高揚したので、1848年の春は「諸国民の春」、1848年は「革命の年」と呼ばれている。

 二月革命の影響はドイツに及び、三月革命が起こった。
 1848年3月13日にウィーンの三月革命(ウィーン暴動)が起こった。この日、学生・市民・労働者が蜂起し、メッテルニヒの罷免を要求して宮殿に殺到した。軍隊が民衆に発砲したが、民衆は宮殿を包囲し、夜になると宮殿内に侵入した。

 翌14日、長年ヨーロッパの反動勢力の中心であったメッテルニヒは、変装して脱出に成功してロンドンに亡命した。これによってウィーン体制はついに完全に崩壊し、皇帝は憲法の発布と議会の召集を約束した。

 マジャール人(ハンガリー)・チェック人(ベーメン)・イタリア人・スラブ系の諸民族などからなる複合民族国家であったオーストリアでは、ウィーンの三月革命に続いて各地で民族独立運動が起こった。

 ハンガリーでは、民族独立運動の指導者であるコッシュート(1802〜94)らが、1848年3月に憲法改革と責任内閣制を要求して皇帝に承認させ、コッシュートはハンガリー最初の内閣の蔵相に就任した。

 オーストリアの反動化によって革命戦争(1848〜49)が勃発すると、1849年4月に、ハンガリーはコッシュートの指導下で独立を宣言し、コッシュートは臨時政府の執政官となった。しかし、オーストリアの要請でロシア軍が介入し、コッシュートはロシア軍に敗れて亡命し(1849)、ハンガリーの独立運動は鎮圧された。

 ベーメンでも、1848年6月にプラハを中心に独立蜂起が起こったが鎮圧された。

 イタリアでも、ウィーンの三月革命の報が伝わると、ロンバルディア・ヴェネツィアで反オーストリア暴動が起こった。

 この情勢を見て、サルディニア国王カルロ=アルベルト(位1831〜49)はオーストリアに宣戦し(1848.3)、ロンバルディアに進撃した。しかし、オーストリアのラデツキー将軍(ラデツキー行進曲で有名な人物)にノヴァラの戦い(1849.6)で敗れて退位した。

 二月革命の影響でローマに暴動が起こり、教皇ピウス9世がローマを脱出すると、マッツィーニの率いる青年イタリアがローマ共和国(1849.2〜49.7)を樹立し、イタリアの統一をめざして憲法会議開催を呼びかけた。

 ピウス9世は、カトリック諸国に鎮圧を呼びかけ、これに応じたフランス軍の介入によってローマ共和国は崩壊し、イタリアの統一運動も失敗に終わった。

 ウィーンの三月革命に続いて、プロイセンの首都ベルリンでもベルリンの三月革命(ベルリン暴動)が起こった。1848年3月18日、ベルリンでブルジョワ・労働者が蜂起し、プロイセン国王に憲法制定を約束させた。

 三月革命後の革命的機運の高まりの中で、1848年5月18日にフランクフルト国民議会が開かれた。フランクフルト国民議会は、ドイツ最初の全国的な議会で、議員はドイツ諸邦から普通選挙で選ばれ、議員の多くは学者・官吏・ブルジョワで占められていた。

 フランクフルト国民議会は、ドイツの統一の方式や全国憲法制定などを議したが、議論に多くの時間を費やし、決断と実行力に欠けていた。

 フランクフルト国民議会は、1848年12月にやっとドイツ国民の基本法(憲法の基本原理を定めたもので人権宣言にあたる)を、翌年3月にはドイツ国憲法を作成・公布した。

 ドイツの統一の方式をめぐっては、大ドイツ主義と小ドイツ主義が対立した。大ドイツ主義は、オーストリアの指導のもとで、オーストリアを含めたかっての神聖ローマ帝国の全領域を統合しようとする立場である。これに対して小ドイツ主義は、複合民族国家であるオーストリアを除外してプロイセンの指導によるドイツの統一をめざす立場であったが、結局小ドイツ主義が勝利した。

 1849年3月に制定されたドイツ国憲法は立憲君主制を採用していたので、プロイセン国王を統一ドイツの皇帝に選出したが、プロイセン国王がこれを拒否したので議会は紛糾した。プロイセン国王は、他の諸王侯の同意があるまでは受けることが出来ないとの理由で拒否したが、本当の理由は革命派からの帝冠は受けられないということであった。

 議会は憲法の実現を訴え、これを支持する民衆の蜂起が5月以後各地で起こったが鎮圧される中で、諸邦は議員を引き上げ、フランクフルト国民議会は1849年6月には武力で解散させられ、ドイツの統一と全国憲法制定の試みは失敗に終わった。

 イギリスでは、二月革命の影響のもとで、1848年4月にチャーティスト運動が最高に盛り上がった。チャーティスト達は、大規模なデモを行い議会に圧力をかけようとしたが政府の厳しい弾圧を受けて失敗に終わり、以後チャーティスト運動は衰退に向かった。

 なお、マルクス・エンゲルスによって『共産党宣言』が出されたのも1848年であった。

 このように1848年の諸革命はウィーン体制を崩壊させたが、1848年末から1849年にかけて反革命が勝利し、ヨーロッパは再び反動化していった。メッテルニヒの失脚後、この反動勢力の中心となったのは「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたロシアであった。




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