2 自由主義と国民主義

1 イギリスのヴィクトリア時代

 1837年、イギリスではヴィクトリア女王(1819〜1901、位1837〜1901)が18歳で即位した。イギリス国王中で最長の64年に及ぶ治世は「ヴィクトリア朝時代」と呼ばれ、大英帝国の黄金時代であった。

 ヴィクトリア朝時代を代表する偉大な政治家が、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンであった。19世紀後半のイギリスでは、この二人の政治家のもとで、保守党と自由党による典型的な二大政党制が発展した。

 トーリー党は、1830年頃から保守党と呼ばれるようになった。トーリー党を近代的な保守党に脱皮させたのは、穀物法の廃止(1846)を断行したピール(首相、任1834〜35、1841〜46)であった。

 ホイッグ党は、第1回選挙法改正(1832)後に自由党と呼ばれるようになった。30年にわたってイギリス外交をリードしたパーマストン(1784〜1865、首相(任1855〜58、1859〜65))の死後、グラッドストンが指導権を握り、多くの自由主義改革を行った。

 19世紀後半のイギリスにとって最大の問題は選挙法改正であった。
 第1回選挙法改正で、選挙権を獲得できなかった労働者はチャーティスト運動を起こしたが失敗に終わった。

 1866年に自由党が提出した4回目の選挙法改正案が否決されると、ロンドンで選挙法改正を要求する大規模なデモが起こり、労働者に選挙権を与えることは避けられない状況となった。

 この状況をみて、保守党のディズレーリは、保守党の手で改正を行って民衆の支持を得る方が得策と考えて自由党の改正に応じ、保守党ダービー内閣(第3次、任1866〜68)のもとで、1867年8月に第2回選挙法改正が行われた。これにより都市の労働者に選挙権が与えられ、新有権者の数は110万人以上増加した。

 ダービーは、翌1868年に病気で引退し、第1次ディズレーリ内閣(1868)が成立した。しかし、第2回選挙法改正後に行われた1868年の総選挙では自由党が勝利し、第1次グラッドストン内閣(1868〜74)が成立した。以後、ディズレーリは2回、グラッドストンは4回にわたって内閣を組織した。

 ディズレーリ(1804〜81、首相(任1868、1874〜80))は、祖父の代にイギリスに移住したユダヤ人の家に生まれた。キリスト教に改宗し、弁護士事務所に勤務しながら小説を著した。数回の落選後、1837年に下院議員に当選し、政治小説を書いてトーリー=デモクラシーを主張した。穀物法の廃止(1846)に反対してピールとたもとをわかち、その後保守党保護貿易派の首領となり、ダービー内閣で3度蔵相を務め、第2回選挙法改正(1867)を行った。ダービーの引退後、2回内閣を組織し、スエズ運河の株式の買収(1875)・インド帝国の成立(1877、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる)・ベルリン会議でロシアの南下策を阻止するなど積極的に帝国主義的外交を展開した。

 グラッドストン(1809〜98、首相(任1868〜74、1880〜85、1886、1892〜94))は、リヴァプールの豪商の家に生まれ、オックスフォード大学を卒業後、1833年に保守党の下院議員となった。穀物法廃止の際はピールを支持し、その後ピール派として保守党から次第に離れ、1859〜66年にパーマストン自由党内閣・ラッセル自由党内閣で蔵相に就任し、ラッセルの引退後は自由党党首として4回首相を務めた。

 グラッドストンは、主に内政問題に力を注ぎ、1870年には教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設し、翌1871年には労働組合法を制定して労働組合運動を合法化した。さらに1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって有権者は約500万人(成年男子約700万人中)となった。

 グラッドストンが最も力を入れて取り組んだのがアイルランド問題であった。
 アイルランドは、クロムウェルに征服されて(1649)以来、事実上イギリスの植民地状態におかれ、アイルランド人は宗教・政治・土地所有などの差別に苦しめられた。1801年に正式にイギリスに併合され、ロンドンの議会に代表を送るようになり、1829年のカトリック教徒解放法で議会に進出した。しかし、アイルランド人は長い間イギリス人不在地主の小作人であったので生活は苦しく、1874年にイギリス議会に選出された60〜80人のアイルランド選出議員を中心にアイルランド国民党を結成して、アイルランドの自治権獲得をめざす運動を展開した。

 グラッドストンは、アイルランド人小作人の地位向上のためにアイルランド土地法の制定に取り組んだ。1870年法で適正な地代・小作権売買を認め、1881年法では土地購入権を認めた。また1885年法・1891年法では自作農創設のために小作人の土地購入を促進する法を制定した。

 さらにグラッドストンは、議会内第3党となったアイルランド国民党と結んで、1886年にアイルランド自治法を提出したが、自由党の一部が反対にまわり、自由党が分裂したために失敗に終わり、1893年には再度、第2次アイルランド自治法案を議会に提出した。この時は下院を通過したが上院で否決され、グラッドストンは翌年政界を引退した。

 当時のイギリスでは、植民地に関して大英国主義と小英国主義が対立していた。小英国主義は、自由貿易による利益の獲得こそが重要であって、植民地は財政負担を増加させる重荷に過ぎないとして植民地放棄論を唱えて帝国の拡大に反対する立場で、自由党のグラッドストンはこの小英国主義を支持した。これに対して保守党のディズレーリは大英国主義を主張し、インド・アフリカ・中国への進出を強めた。

 19世紀後半のイギリスは、インド帝国を中心としてオーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・カナダなどに広大な植民地を持ち、第2次イギリス帝国(七年戦争までに形成された帝国を第1次帝国と呼ぶ)を形成していた。第2次イギリス帝国では、次第に白人植民地の自治が認められ、白人植民地は自治領となった。まず1867年に、カナダがイギリス帝国内で最初の自治領となった。

 自治領は、イギリス植民地の中で自治権を与えられた国で、イギリス国王を元首とした。カナダに続いてオーストラリア(1901)・ニュージーランド(1907)・南アフリカ連邦(1910)も自治領となった。




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