2 自由主義と国民主義

2 イタリアの統一

 近代に入っても分裂を続けていたイタリアは、ウィーン会議後も分裂を続け、しかもウィーン会議でロンバルディア・ヴェネツィアがオーストリア領となったので、イタリア統一のためにはまず外国勢力を排除しなければならなくなった。

 しかし、オーストリアの勢力は強く、1820年代のカルボナリの革命、七月革命後のカルボナリの革命はいずれもオーストリアによって鎮圧された。

 1848年、二月革命が起きると、その影響のもとでサルデーニャ王国のカルロ=アルベルト(位1831〜49)は統一戦争に乗り出した。サルデーニャ王国は、1720年にサヴォイ家がサルデーニャ島を領有して成立した北イタリアの小王国で、トリノを都とした。

 しかし、サルデーニャの統一戦争はオーストリア軍とのノヴァラの戦いに敗れて失敗に終わり、マッツィーニの指導する青年イタリアが建設したローマ共和国もフランス軍の介入によって倒された。

 サルデーニャ国王カルロ=アルベルトはノヴァラの戦いでの敗北の責任をとって退位し、息子のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(1820〜78、サルデーニャ国王(位1849〜61)、初代イタリア国王(位1861〜78))が即位してリソルジメント(イタリアの自由・独立・統一を目ざした自由主義・民族主義運動)を続行するために、自由主義者のカヴールを首相に任じた。

 カヴール(1810〜61、任1852〜61)は、名門の貴族の子としてトリノで生まれた。初め軍人となったがまもなく引退し、地主として農業経営にあたった。その間、イギリス・フランスを旅行してイギリスの議会政治に心酔し、同志と新聞「リソルジメント(復興)」を発行し(1847)、サルデーニャ国王を中心とする立憲君主制によるイタリア統一を主張した。1848年に議員となり、1852年に首相に任じられた。

 カヴールはサルデーニャ王国の近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進め、国家財政の基礎を固めるために強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化した(1855)。

 その一方で、カヴールはサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス・フランスなど大国の援助が不可欠と考えた。そのためイギリス・フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853〜56)に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。

 さらに、1858年7月、カヴールはナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結んだ。この密約は、サルデーニャがサヴォイアとニースをフランスに割譲し、その代償としてイタリア統一のための対オーストリア戦をフランスが支援するという内容であった。

 プロンビエールの密約を知ったオーストリアは、1859年4月にサルデーニャと開戦し、イタリア統一戦争(1859.4〜59.11)が始まった。フランスの援助を受けたサルデーニャは連勝し、6月のソルフェリーノの戦いでオーストリア軍を撃破し、全ロンバルディアを奪回した。この時、ナポレオン3世は、サルデーニャの強大化とイタリアの統一を恐れ、突如サルデーニャを裏切り、単独でオーストリアと講和条約を結んだ(1859.7)。

 カヴールはナポレオンの裏切りに憤激し、サルデーニャ単独で戦いを続けることを国王に進言したが容れられず辞任し、1859年11月に正式に講和条約が結ばれ、サルデーニャはロンバルディアを獲得したにとどまった。

 カヴールは、イタリア統一を外国の援助に頼ろうとしたことの誤りを悟り、イタリア統一はイタリア人の手で達成すべきだと考え、首相に復職してナポレオン3世との取引にふみきった。彼はサヴォイアとニースの割譲と引き替えに、統一戦争中にサルデーニャとの併合を要求していたトスカナ以下の中部イタリア諸邦の併合を認めさせた。これによって中部以北のイタリアの統一が実現し、サルデーニャ王国は人口約500万人の国から一躍1100万人の国となった。

 南イタリアのナポリ王国(両シチリア王国)には、ウィーン会議でブルボン朝が復活したが、国王による圧政が続いていた。1860年4月にシチリア島でナポリ王の圧政に対する反乱が勃発し、反乱の指導者がガリバルディに援助を求めてきた。

 マッツィーニ・カヴールと並んで「イタリア統一の三傑」と呼ばれるガリバルディ(1807〜82)は、ニースで船員の子に生まれ、サルデーニャの海軍に入った。青年イタリアに参加し(1833)ジェノヴァ蜂起に敗れて亡命し(1834)、南アメリカでウルグアイなどの独立運動に参加した。1848年に帰国し、ローマ共和国の防衛に活躍したが敗北して再び南アメリカに亡命した。1854年に帰国してからは、青年イタリアの共和主義運動よりもサルデーニャ国王による統一運動に共感し、統一戦争に参加した(1859)。

 シチリアからの救援の要請を受けたガリバルディは、ジェノヴァで千人隊(赤シャツ隊)と呼ばれる義勇軍を組織し、千人隊を率いてジェノヴァを出発し、シチリアの救援に赴いた(1860.5)。

 1860年5月、ガリバルディ軍はシチリアに上陸し、7月末までにはシチリア全土を占領した。8月にはイタリア本土に上陸し、北上して9月にナポリに入城した。

 ガリバルディはさらに教皇領を目ざして北上を開始した。カヴールは、ガリバルディのローマ進撃が教皇領を守るフランス軍との紛争を引き起こすことを恐れ、またガリバルディ配下の共和主義者によって南イタリアに独立共和国が成立することを恐れて、サルデーニャ軍をボローニャとフィレンツェから南下させた。サルデーニャ軍は教皇領を通過して南下し、10月に両軍はナポリの北方で相対した。

 サルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とガリバルディは、道路上で会見し、ガリバルディは一部の部下の反対を退けて占領地をサルデーニャ国王に献上し、11月には国王と並んでナポリに入城した。その後ガリバルディは司令官を辞してカプレラ島に帰っていった。

 こうしてイタリア統一が達成され、ヴェネツィアとローマ教皇領を除く全イタリアの代表がトリノに集まりイタリア最初の議会が開催された(1861.2)。

 そして1861年3月にイタリア王国が成立し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が王位についた。

 その後、普墺戦争の際にヴェネツィアを併合し(1866)、さらに普仏戦争の時にフランス守備隊が撤退したのに乗じて1870年にローマ教皇領を占領し、イタリアの統一が完成した。そして翌1871年にローマに遷都した。

 ローマ教皇は、イタリア王国の武力による教皇領占領に抗議し、教皇ピウス9世は捕囚されたと宣言し、以後「ヴァチカンの囚人」と称してイタリア国王と対立を続けた。

 また、1870年の統一後も、トリエステ・南チロルなど国境地帯はオーストリア領に留まったので、イタリア人は「未回収のイタリア」と呼んでその併合を要求し続けた。




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