2 自由主義と国民主義の進展

3 ドイツの統一(その1)

 ウィーン会議によって、ドイツにはオーストリア・プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が成立した。ドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していたので、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外にあった。

 プロイセンは、ウィーン議定書でワルシャワ大公国の北部とザクセンの北半及びライン中流左岸地域を獲得した。特にドイツで最も工業が発達していたライン地方を獲得したことはプロイセンの以後の発展にとって非常に有利な条件となった。

 ウィーン体制下で、政治的にオーストリアの下風に立っていたプロイセンがオーストリアより優位に立つきっかけとなったのが、歴史学派経済学者のフリードリヒ=リスト(1789〜1846)によって提唱されたドイツ関税同盟であった。

 プロイセンは、領土が東西に二分されていたので、近隣諸国との間に関税同盟を結んで経済圏の統一をはかり、1828年にヘッセンと関税同盟を結んだ。同年、中部ドイツ関税同盟・南ドイツ関税同盟が成立していたが、プロイセンは諸邦と根気よく交渉し、1833年にこれら3つの関税同盟はプロイセンの主導下に統合され、翌1834年にドイツ関税同盟が発足した。

 ドイツ関税同盟は次第に加盟国を増やし、オーストリアを除くドイツを経済的に統一した。このドイツ関税同盟の成立によって、ドイツでは政治的統一に先立って経済的統一がほぼ出来上がり、これを主導したプロイセンは政治的統一においてもオーストリアに対して優位に立った。

 1848年の二月革命はドイツにも大きな衝撃を与えた。ウィーンの三月革命によってメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は完全に崩壊した。またベルリンの三月革命では、プロイセン国王に憲法制定を約束させた。

 そして1848年5月に、ドイツの統一と全国憲法制定のためにフランクフルト国民議会が開かれた。フランクフルト国民議会では、ドイツの統一の方式をめぐって、オーストリアの指導のもとでドイツ統一を実現しようとする大ドイツ主義とオーストリアを除外してプロイセンを中心にドイツの統一を達成しようとする小ドイツ主義が対立した。結局小ドイツ主義が勝利し、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世(位1840〜61)を統一ドイツの皇帝に推したが、プロイセン王が革命派からの帝冠を拒否したために失敗に終わった。

 1861年1月、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世の死後、ヴィルヘルム1世(1797〜1888、プロイセン王(位1861〜88)、初代ドイツ皇帝(位1871〜88))が即位した。ヴィルヘルム1世は、摂政時代からプロイセンの軍制改革に取り組んでいたが、軍備拡張の予算案が議会で否決されると、この難局を打開するためにビスマルクを首相に起用した。

 ビスマルク(1815〜98、任1862〜90)は、ベルリン西方のシェーンハウゼンという小村でユンカー(エルベ川以東の大土地貴族)の家に生まれた。ゲッティンゲン大学・ベルリン大学に学んだが、酒と決闘に明け暮れ、「乱暴者ビスマルク」と呼ばれた。卒業後、一時軍務についたが、父の死後は領地の経営にあたった。

 1847年に連邦地方議会議員に選出され、1848年に三月革命が起こると故郷の農民を武装させてベルリンに進撃しようとするなど反革命派として活躍した。革命後、フランクフルトのドイツ連邦議会にプロイセン代表として派遣され(1851〜59)、しばしばオーストリアと対立して小ドイツ主義者となった。その後、駐ロシア大使(1859)・駐フランス大使(1862)等を経て、1862年にヴィルヘルム1世によってプロイセンの首相兼外相に任命された(1862.9)。

 ビスマルクは、首相就任から1週間後に、下院予算委員会で「・・・ドイツの着眼すべき点は、プ口イセンの自由主義ではなく、その軍備であります。バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどの諸邦は、それぞれの自由主義を認めるでありましようが、それゆえにこそ誰もプロイセンに課せられた役割をそれらの諸邦に課するものはないでありましよう。プロイセンは今まで何回か好機を失って来たのでありますが、これにがんがみてプロイセンは今後の好機にそなえて力を結集しておかねばならないのであります。プロイセンの国境は、健全な国家のそれにふさわしいものではありません。言論や多数決によっては現下の大問題は解決されないのであります。言論や多数決は、1848年および1849年の欠陥でありました。鉄と血によってこそ問題は解決されるのであります。・・・」という有名な「鉄血演説」を行い、議会による予算案の否決を無視して軍備拡張を実行に移し、議会と対立した。

 こうした状況のなかでシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が起こった。シュレスヴィヒ・ホルシュタインはユトランド半島の南半分に位置する2つの小公国で、デンマークの主権下に属していたが、住民の多くはドイツ人であった。

 1863年にデンマークが北のシュレスヴィヒ公国の併合を宣言すると、住民はドイツ連邦に援助を要請した。プロイセンとオーストリア両国は同盟してシュレスヴィヒ公国の併合に抗議したが、デンマークが両国の要求を拒否したため、1864年2月にプロイセン・オーストリア両国はデンマークと開戦し、デンマーク戦争(1864.2〜64.7)が始まった。

 プロイセン・オーストリア両国は、デンマーク軍を破ってシュレスヴィヒ・ホルシュタインを占領して休戦条約を結び(1864.7)、10月のウィーン条約でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国はプロイセン・オーストリア両国の共同管理下に置かれることになった。そして翌1865年にプロイセン・オーストリア両国は、プロイセンがシュレスヴィヒを、オーストリアがホルシュタインを管理下に置く協定を結んだ。

 ビスマルクは、早くから対オーストリア戦を予想して軍備拡張を強行していたが、1865年にはナポレオン3世と会見し、ライン左岸地方の割譲をにおわせながら対オーストリア戦開始の場合の中立を約束させ、1866年2月には御前会議で対オーストリア開戦政策を決定した。さらに同年4月、戦後にヴェネツィア併合を認めることを条件にイタリアと攻守同盟を結んだ。

 そして、イタリアと攻守同盟を結んだ翌日に、ビスマルクはドイツ連邦議会に、ドイツ全国民の直接選挙により議会を召集するという革命的な提案を行った。これに対してオーストリアは、1866年6月にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン処理問題を改めてドイツ連邦議会に提出し、プロイセンとオーストリアの関係は決裂した。プロイセンはホルシュタインに兵を進め、ドイツ連邦議会はプロイセンに対する制裁を決議し、ここに普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争、1866.6.15〜66.8.23)が始まった。

 プロイセンは、開戦と同時に鉄道を利用して電撃的な速さで兵力を集中し、ザクセン・ベーメンに入り、7月3日のサドヴァ(ケーニヒグレーツ)の戦いでオーストリアの主力軍を撃破し、ウィーンに迫った。オーストリアは開戦後わずか50日で降伏し、7月26日に仮条約が結ばれ、8月23日にプラハ条約が結ばれた。このため普墺戦争は7週間戦争とも呼ばれている。

 プラハ条約で、ドイツ連邦の解体とプロイセン指導下の北ドイツ連邦の設立・シュレスヴィヒとホルシュタインのプロイセンへの併合・賠償金の支払いが決められ、またオーストリア・イタリア間の平和条約でヴェネツィアのイタリアへの割譲が認められた。

 普墺戦争の翌年、1867年7月、ついに北ドイツ連邦が成立した。北ドイツ連邦は、オーストリアと南ドイツ諸国を除くマイン川以北の22の諸邦で組織され、プロイセン国王を連邦議長とした。北ドイツ連邦の成立によってドイツの統一はほぼ達成された。

 一方、普墺戦争に敗れてドイツから除外されたオーストリアでは、ハンガリーの自治が認められ、1867年6月にオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(位1848〜1916)がハンガリー王を兼ね、別々の政府と国会を持つオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が成立した。




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