2 自由主義と国民主義の進展

3 ドイツの統一(その2)

 フランスのナポレオン3世は、プロイセンによるドイツの統一によって隣に強大な国家が出来ることを恐れ、ドイツの統一を妨げようとしてしきりにプロイセンに干渉した。そのためビスマルクはドイツの統一のためにはフランスとの戦いは避けられないと考え、準備を進める一方で開戦の機会をうかがっていた。

 ナポレオン3世は、国内における威信が低下し、またメキシコ出兵(1861〜67)の失敗や普墺戦争の際に中立を保った代償としてライン左岸地方の割譲を要求したがビスマルクに拒否されるなど外交上の失敗が続いていたので、皇帝の威信を保とうとあせっていた。

 こうした状況の中でたまたま起こったのがスペイン王位継承問題である。スペインでは1868年に革命が起こり、イサベル2世(位1833〜68)が国外に逃亡して空位となり、1870年6月にプロイセン王家の支流ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家のレオポルトが後継者に指名され、レオポルトはこれを受諾した。

 ナポレオン3世はホーエンツォレルン家によって東西から脅かされることを恐れてレオポルトの即位に猛反対した。プロイセン王ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の抗議を受け入れて、レオポルトに立候補の取りやめを勧告し、7月に辞退した。

 これによって事件は終わったかに見えたが、フランスは、7月13日にエムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへプロイセン駐在フランス大使を派遣し、将来もホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない保障を迫った。ヴィルヘルム1世は将来への保障を拒否し、この件の経過をベルリンのビスマルクへ打電した。

 電報を受け取ったビスマルクは、故意に電文の一部を削除し、フランス大使がプロイセン王にしつこく迫り、立腹した王が大使を追い返したように書き改めて公表し、ナポレオン3世を挑発した。これが有名な「エムス電報事件」である。

 この電報が新聞に公表されると、ドイツ人は激昂し、フランスは侮辱ととらえ、両国の世論がわきかえる中で、1870年7月19日、ビスマルクの術中にはまったフランスはプロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争(独仏戦争、プロイセン=フランス戦争、1870.7〜71.5)が始まった。

 モルトケ(1800〜91、プロイセンの優れた戦術家)の指揮するプロイセンを中心とし、北ドイツ連邦諸国と南ドイツ諸国(ナポレオン3世はフランス側につくと期待していた)を合わせた約38万のドイツ軍は、瞬く間にフランス国境を越え、連勝を重ねて8月末にフランス軍の主力をメッツに包囲した。ナポレオン3世はメッツの救援に赴いたが、セダンで包囲され、9月2日に8万2千の将兵とともに降伏してドイツ軍の捕虜となった。

 1870年9月4日、パリでは帝政廃止・共和政樹立が宣言され、国民防衛政府が成立した。国民防衛政府は抗戦を続けたが、プロイセン軍は9月19日にはパリを包囲した。プロイセン軍のめざましい勝利を見て、11月にはバイエルンなど南ドイツ諸邦が北ドイツ連邦に加入した。

 1871年1月18日(プロイセン王国建国170年の記念日)、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が行われ、ドイツ帝国(1871〜1918)が成立した。

 1月28日にはパリが陥落して休戦条約が結ばれ、2月26日にヴェルサイユで仮講和条約が、そして5月10日にフランクフルトで正式に講和条約が結ばれた。

 この条約によって、フランスはアルザス・ロレーヌ両州をドイツに割譲し、50億フランの賠償金を支払うことが決められた。この苛酷な条約はフランス国民に強い対独復讐心を抱かせ、以後ドイツとフランスの対立が深刻になっていく。

 1871年に成立したドイツ帝国は、22の君主国と3つの自由市から成る連邦制国家で、連邦を構成する各邦はそれぞれ政府と議会を持ったが、主導権はプロイセンが握った。

 1871年4月に制定されたドイツ帝国憲法(大日本帝国憲法はこの憲法を範としている)によって、ドイツ皇帝はプロイセン王ヴィルヘルム1世が兼任し、皇帝によって任命される帝国宰相にもプロイセン首相のビスマルクが就任した。なお帝国宰相は、議会に対してでなく皇帝に対してのみ責任を負った。

 立法府は連邦参議院と帝国議会から成り、25諸邦代表から成る連邦参議院が立法・宣戦・外交などで大きな権限を持ち、議長は帝国宰相が兼任した。帝国議会は男子普通選挙で選出された議員で構成されたが、その権限は弱く、諮問議会的な存在で、立憲主義は外見に過ぎなかった(外見的立憲主義)。ビスマルクは帝国宰相として、以後約20年間にわたって内政・外交に独裁的な権力をふるい、ビスマルク時代(1871〜90)を現出した。

 ビスマルクは、統一後、反プロイセン(プロイセンは新教・ルター派)的なカトリック教会を国家の統制に従わせようとしたが、これに対して南ドイツのカトリック教徒は中央党を組織して(1870)反対したので、ビスマルクとカトリック教会及び中央党との間で文化闘争(1871〜80)と呼ばれる争いが起こった。ビスマルクはカトリック教会の支配下にあった学校も国家の支配下に置こうとしたが、カトリック教徒は屈せず、中央党の勢力は逆に増大した。

 ビスマルクは、1870年代後半から強くなってきたもう一つの敵対勢力である社会主義勢力を抑えるために、また自由貿易主義から保護関税政策へ転換するために帝国議会の第2党であった中央党の支持を必要とし、反ビスマルクの教皇ピウス9世の死(1878)を機にカトリック教徒と妥協し、文化闘争を終わらせた。

 ドイツ資本主義は、ドイツの統一によって急速に発展した。ビスマルクは、初め自由貿易主義をとったが、ドイツが工業国に発展してくるとイギリスとの競争のために国家の保護が必要となり、保護関税政策に転換した(1879)。

 資本主義の発展に伴って多くの労働者が生み出され、1875年にドイツ社会主義労働者党が成立し、労働運動・社会主義運動が盛んとなったので労働者対策も必要となった。

 1878年に皇帝狙撃事件が起きると、ビスマルクはこれを社会主義者弾圧の口実とし、1878年に社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義的政党・労働組合・集会・出版を厳禁し、社会主義労働者党を弾圧した。しかし、その一方では疾病・災害・養老などの社会保険制度を実施した。




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