2 ヨーロッパ世界の拡大

3 新大陸への到達

 ポルトガルより大西洋進出が出遅れたスペインは、西回りインド航路の開拓に関心を示した。

 フィレンツェの天文・地理学者トスカネリ(1397〜1482)は地球球体説と大西洋を西航する方がインドへの近道であるという説を唱えてコロンブスに大きな影響を与えた。当時の世界地図やトスカネリが作成した地図には、もちろん新大陸は描かれてないので、ジパング(日本)の位置は今のメキシコの辺りと考えられていた。

 ジェノヴァ生まれの船乗りコロンブス(1451〜1506)は、このトスカネリ説を信じて西回りインド航路の開拓をポルトガル王に進言したが受け入れられず、スペインに赴いてスペイン女王イサベル(位1479〜1504)を説得し続け、ついにイサベルの援助を得て、1492年の8月に3隻の船と120人を率いてパロス港を出航した。

 コロンブスの船団はカナリア諸島で食料や飲料水を補給し、9月2日にカナリア諸島を出発し、以後は陸地を見ることなく困難な航海を続け、10月12日に現在のバハマ諸島の島に到達し、この島にサンサルバドル島と命名した。さらに近辺のキューバ・ハイチ島などを探検して、1493年3月に帰国し、大歓迎を受け、コロンブスは発見地の総督に任命された。

 コロンブスはその後も、第2回(1493〜96)、第3回(1498〜1500)、第4回(1502〜04)と航海を繰り返し、南米や中米にも到達し、植民地の建設などに努めたが、中傷によって失脚し、総督職も解かれ、不遇・失意のうちに没した。

 コロンブスは、中米・南米の発見地をインドの一部と信じていたので、その地の先住民をインディオ(インディアン)と呼んだ。また彼が到達したカリブ海に散在する諸島は西インド諸島と呼ばれるようになった。

 ポルトガル人のカブラル(1460頃〜1526)は、ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路の開拓の後に、国王からインドへの航海を命じられ、1500年にリスボンを出航した。しかし、暴風のためにブラジルに漂着し、同地をポルトガル領と宣言した。その後も航海を続けてインドに到達し、翌年リスボンに帰航した。

 ポルトガルとスペインの対外進出が進むにつれて、両国の間に植民や貿易をめぐって勢力争いが起こった。コロンブスが「アジア」(実際は新大陸)に到達したという報が伝わると、教皇アレクサンデル6世(位1492〜1503)は両国の争いを調停するために、スペインの要請によって1493年に教皇子午線(ブラジルの東端を通る線)を設定し、その東をポルトガル、西をスペインの勢力圏と定めた。

 これにポルトガルが抗議して両国が協議した結果、トルデシリャス条約(1494)が結ばれ、教皇子午線は西方に移動した。

 カブラルが漂着した地はこの条約の線より東にあったので、ブラジルはポルトガル領となった。その後のスペインの植民地活動によって、中南米のほとんどの地域がスペイン領となったが、ブラジルだけがポルトガル領となった。そのため今日でもほとんどの中南米諸国がスペイン語を公用語としている中で、ブラジルのみがポルトガル語を公用語としている。

 フィレンツェ生まれのアメリゴ=ヴェスプッチ(1454〜1512)は、1497年以後4回にわたってスペインやポルトガルのアメリカ遠征隊に参加して新大陸を探検し、コロンブスが発見した土地はアジアではなく、「新大陸」であるとの見解を報告した。そのためドイツの地理学者ヴァルトゼー=ミューラーがアメリゴ=ヴェスプッチの名を取ってアメリカと呼んで(1507)以来一般化し、新大陸はアメリカ大陸と呼ばれるようになった。そしてコロンブスの名はわずかにコロンビアという国名に残るに過ぎなくなった。

 ポルトガル人のマガリャンイス(マゼラン、1480頃〜1521)は、下級貴族の出で、1505年からインド総督の下で軍務につき、ゴア征服やモルッカ諸島征服にも従事した。この頃西回り航路でモルッカ諸島に至る計画を立ててポルトガル王に援助を依頼したが拒絶され、亡命したスペインのカルロス1世から特許を得て、1519年8月に5隻と265人からなる船団を率いてセビリャを出航した。 

 マガリャンイスはリオデジャネイロに同年12月に到達し、そこから南下して翌年1月にラプラタ川に到達した。そこに留まって海峡を探したが、川と分かり、荒れる海と寒さに苦しめられながらさらに南下を続けてパタゴニア南部に達し、そこで5ヶ月越冬した。 この間、乗組員の反乱が起こり、また船を1隻失ったが、この困難を乗り越えてさらに南下し、ついにマゼラン海峡(南アメリカ大陸とフェゴ島の間)を発見し、1520年10月に3隻の船団は(1隻が脱走して3隻になっていた)ついに太平洋に出た。それまでの荒れた海から静かな海に出たマガリャンイスは、この海を太平洋(Pacific Ocean、穏やかな・平和な海の意味)と命名した。

 以後100日を越す航海で太平洋を横断したが、一度も陸地を発見せず、食料と飲料水は底をつき、ねずみや皮をかじり、腐った水を飲み、壊血病に苦しめられながらも、グァム島を経てフィリッピン諸島に到着した。

 マガリャンイスはその地のスペイン領化を進めたが、セブ島で住民の争いに巻き込まれて戦死した。

 残った少数の部下達はアフリカ南端を回って、1522年9月にパロスに到着した。帰国したのはぼろぼろになった1隻の船と18人の乗組員であった。こうしてマガリャンイスとその部下によって世界史上最初の世界周航が成し遂げられ、地球が球形であることが実証された。




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