2 自由主義と国民主義の進展

4 ビスマルク時代の国際関係

 ビスマルクの本領は外交において発揮された。ビスマルクは統一後まもないドイツが戦争に巻き込まれることを避けるために、フランスの孤立化とヨーロッパの平和維持を軸とする、いわゆるビスマルク外交を展開した。

 ビスマルクは、普仏戦争によってアルザス・ロレーヌを奪われ巨額な賠償金を課せられたフランスで対独復讐心が強まると、フランスの復讐を未然に防ぐためにフランスを孤立化させることに意を用いた。そのためにフランスと同盟する可能性のある諸国をドイツ側に引き入れることをはかり、特にロシアがフランスと同盟を結べばドイツは東西からはさまれる形になるのでロシアとの提携強化に努めた。

 まず、1873年10月に、ビスマルクはオーストリア・ロシアとの間で三帝同盟を結んだ。三帝同盟は、6月にウィーンを訪問したロシア皇帝アレクサンドル2世がオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世との間で結んだ協約にドイツが参加する形で成立した。

 またビスマルクは、バルカン半島でロシアとオーストリアの対立が激化して両国が戦うことを恐れ、必要に応じて両国の紛争を調停してバルカンでの現状維持政策を推し進めた。

 1877年に露土戦争(ロシア=トルコ戦争、1877〜78)が勃発し、翌年サン=ステファノ条約(1878.3)が結ばれてロシアの勢力がバルカン半島に拡大されると、イギリス・オーストリアは猛烈に反対し、戦争の危機をはらんだ。

 そこでビスマルクは、ベルリン会議を開催し(1878.6)、「誠実な仲買人」と称して調停に乗り出した。しかし、ビスマルクはイギリス・オーストリアの主張を支持し、サン=ステファノ条約を破棄して新たにベルリン条約を結び(1878.7)、ロシアの南下政策を阻止したので、ロシアはドイツから離れて三帝同盟は事実上有名無実の状態となった。

 ビスマルクは独墺同盟(1879.10)を結んでロシアからの攻撃に対して相互に全面的な援助を約束する一方で、あくまでロシアを陣営内に留めてフランスを孤立させようと努力し、1881年6月に三帝同盟を復活させ、新三帝同盟(1887年まで存続)を締結した。

 さらに1882年5月には、チュニジアをフランスに奪われたことに不満を持つイタリアをさそい、ドイツ・オーストリア・イタリア間で三国同盟(1915年まで存続)を成立させた。

 1885年から87年にロシアがブルガリアに進出し、オーストリアとロシアの対立が激化して新三帝同盟が崩壊すると、ビスマルクは1887年6月にロシアとの間で再保障条約(二重保障条約)を結んだ。この条約はバルカンにおける国境の現状維持を主内容とし、条約国の一方が他から攻撃された場合は中立を守ることを約した条約であったが、ビスマルクは独墺同盟があるためにオーストリアに漏れることを恐れて秘密条約とした。

 こうして1887年頃には、ドイツはオーストリア・ロシア・イタリアだけでなくイギリスとも親しい関係にあり、フランスはヨーロッパで完全に孤立していた。しかし。このビスマルク体制は、1890年のビスマルク辞任によって急速に崩れ、翌1891年には露仏同盟(1894年に完成)が結ばれてビスマルクが最も警戒していた状況となり、ヨーロッパにおける国際関係は大きく変化していくことになる。




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