2 自由主義と国民主義の進展

5 フランス第二帝政と第三共和政

 1852年11月に行われた国民投票で圧倒的支持を得たルイ=ナポレオンは、翌12月に皇帝ナポレオン3世(位1852〜70)となり、第二帝政(1852〜70)を開始した。

 第二帝政においては、普通選挙によって選ばれる議会はあったがほとんど権限がなく、皇帝が行政・軍事・外交の全権を握ったので、実質的には皇帝独裁であった。

 ナポレオン3世は、カトリック勢力・農民の支持を基盤とし、資本家と労働者の均衡の上に立って、軍隊・警察の力で反対派を抑えて専制的な政治を行った。このようなナポレオン3世の政治形態はボナパルティズムと呼ばれている。

 ナポレオン3世は国民の人気を保つためにさかんに対外進出を行った。クリミア戦争(1853〜56)に介入して名声を博したナポレオン3世は、アロー戦争(1856〜60)で中国に進出し、インドシナ出兵(1858〜67)によってヴェトナムに領土を獲得し、さらにイタリア統一戦争(1859)に干渉してサヴォイア・ニースを獲得した。しかし、メキシコ出兵(1861〜67)の失敗によって対外的な威信を失った。

 ナポレオン3世は、財政難に陥ったメキシコが外債の利子不払いを宣言すると、1861年にイギリス・スペインと共同でメキシコに出兵し、両国が撤兵した後も干渉を続け、共和政府を倒してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンをメキシコ皇帝につけた(1864.4)。しかし、メキシコ人の抵抗やアメリカ合衆国の抗議のためにマクシミリアンを見捨てて撤兵し(1867.3)、マクシミリアンは処刑された(1867.6)。

 このメキシコ出兵の失敗でナポレオン3世の人気は低下し、焦ったナポレオン3世はドイツ統一の妨害に乗り出したが、普仏戦争に敗れて退位した(1870.9)。

 ナポレオン3世の退位後も、パリに成立した国民防衛政府はさらに抗戦を続けたがドイツ軍に降伏して休戦条約を結んだ(1871.1)。休戦条約による総選挙で国民議会が成立し、ティエール(1797〜1877)を行政長官(首相にあたる)とする臨時政府がヴェルサイユに成立し、ドイツと仮講和条約を結んだ(1870.2)。

 仮講和条約ではアルザス・ロレーヌの割譲・50億フランの賠償金・ドイツ軍のパリ入城が定められていたので、パリの民衆は屈辱的な条約であるとして強く反対した。

 1870年3月18日、ティエール臨時政府がパリ国民軍の武装解除を行おうとしたことから反乱が勃発した。ティエールはパリを放棄して政府と軍をヴェルサイユに移したので、パリは蜂起した市民・国民軍の手に落ちた。

 3月26日にコミューン議会の選挙が行われ、3月28日にパリ=コミューンの成立が宣言された。パリ=コミューンは労働者・小市民が中心となってつくった自治政府で、世界史上最初の社会主義政権といわれている。

 パリ=コミューンは行政委員会をはじめ10の委員会を設置し、労働者の解放を目ざす多くの改革を行ったが、4月に入るとドイツ軍の支援を取り付けたティエールがパリ攻撃を開始し、ヴェルサイユ軍は5月21日にパリに突入した。5月21日から28日までのいわゆる「血の一週間」による虐殺によってパリ=コミューンはわずか2ヶ月で鎮圧された。

 その後、ティエールが第三共和政の初代大統領に選ばれ(1871.8)、王党派と共和派の対立に悩まされながらも、対ドイツ賠償金の支払いと財政の立て直しに努めた。しかし、王党派と共和派の両派から攻撃される中で辞任し(1873.5)、マクマオン(任1873〜77、普仏戦争の時の司令官の一人、パリ=コミューンを鎮圧した)が大統領に選ばれた。

 1875年2月、三権分立・二院制・任期7年の大統領制・男子普通選挙などを骨子とする第三共和制憲法が議会でわずか1票差で可決・制定され、第三共和政(1870〜1940)の基礎が確立した。しかし、第三共和政は、議会で小党が分立し、政府は連立政権だったので政情は不安定であった。




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