2 自由主義と国民主義の進展

7 ロシア南下政策と東方問題(その2)

 聖地イェルサレムの管理権は、16世紀以降カトリックの保護者としてのフランスが保有していたが、フランス革命時にギリシア正教会がロシアの支持を得て管理権を握った。ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を繋ぐためにオスマン=トルコに聖地管理権を要求し、それを象徴する神殿の鍵を与えられた。

 ニコライ1世はこれを不満としてトルコに抗議するとともに、トルコ領内のギリシア正教徒をロシアの保護下におくことを要求し(1853.2)、これが拒絶されるとトルコ領内のモルダヴィア・ワラキアに侵入して占領した(1853.7)。トルコはイギリス・フランスの支持を得てロシアに宣戦し(1853.10)、ロシアもトルコに宣戦して(1853.11)クリミア戦争(1853〜56)が始まった。

 翌年にはイギリス・フランスがロシアの南下政策を阻止するためにトルコと同盟してロシアに宣戦し(1854.3)、サルデーニャもトルコ側に立って参戦した(1855.1)。

 戦場はバルカン半島からクリミア半島に移り、やがてイギリス・フランス・トルコ軍はロシア軍のこもるセヴァストーポリ要塞を包囲し(1854.10)、ほぼ1年続いた激戦の末についにこれを陥れた(1855.9)。

 当時のロシアは鉄道網が未発達で十分な兵員・武器・弾薬などを戦場に送ることが出来ず、またイギリス・フランスのスクリューで走る重装備の軍艦に対して、ロシア艦隊の大部分は帆船から成っていた。このようなロシアの後進性・近代化の遅れが敗戦の最大の原因であり、その改革が戦後ロシアの課題となった。

 またクリミア戦争の戦場での惨状を知ったナイティンゲール(1820〜1910)が戦傷やコレラで苦しむ兵士の看護に活躍して「クリミアの天使」と呼ばれ、後に近代看護婦制度の確立に貢献したことはよく知られている。

 1855年3月にニコライ1世(位1825〜55)が急死し、アレクサンドル2世(位1855〜81)が即位してオーストリアの仲介で停戦し、1856年3月にパリ条約が結ばれた。

 パリ条約では、トルコの独立と領土の保全・トルコは宗教的な差別をしないこと・外国軍艦のダーダネルス・ボスフォラス両海峡通航禁止の確認と黒海の中立化・ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに割譲してモルダヴィアとワラキアをトルコの主権下におくこと・ドナウ川の自由航行などが決められた。

 黒海の中立化によって、黒海や港は全ての国の商船に開放されたが、軍艦に関しては禁止され、ロシアとトルコは黒海に軍艦を持つことを禁止され、ロシアの南下政策はまたもや失敗に終わった。

 19世紀中頃以降、バルカンではスラヴ民族の統一と団結をめざすパン=スラヴ主義がさかんになった。ロシアはトルコやオーストリアに対抗する勢力の結成を期待し、パン=スラヴ主義を利用してバルカン半島の諸民族への影響力を強め、バルカン半島への勢力の拡大をはかった。1870年にはパリ条約(1856)の黒海の中立化条項を破棄して再び南下政策をとるようになった。

 1875年7月にトルコ治下のボスニア=ヘルツェゴヴィナでトルコに対するギリシア正教徒の反乱が起こると、翌年にはブルガリアでも反乱が起こった。しかし、この反乱はトルコ軍によって残虐に鎮圧された。

 ロシア国内ではスラヴの同胞を救えというパン=スラヴ主義が高まった。列国もこれに抗議するとともに会議を開き、調停案を作成してトルコに示したがトルコはこれを拒否した。これを見てロシアは単独でトルコに宣戦し、1877年4月に露土戦争(ロシア=トルコ戦争、1877.4〜78.3)が始まった。

 ロシアは一時苦戦したが、翌年1月にアドリアノープルを占領し、さらにコンスタンティノープルに迫った。トルコは屈服し、1878年3月にサン=ステファノ条約が結ばれた。

 この条約で、ロシアはトルコにルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、マケドニアを含む大ブルガリアをトルコ領内の自治国としてロシアの保護下におくことを認めさせたのでロシアのバルカン支配・地中海進出が成功するかに見えた。

 しかし、これに対してスエズ運河の株式買収(1875)に成功したイギリスとバルカンにおけるパン=スラヴ主義の発展を恐れるオーストリアが激しく反発し、ロシアとイギリス・オーストリアとの間に戦争が起こりかねない状況となった。

 統一後間もないドイツがこの戦争に巻き込まれることを恐れるビスマルクが調停に乗り出し、1878年6月にベルリン会議が開かれた。ビスマルクはベルリン会議を開催するにあたって「誠実な仲買人(公正な仲買人)」と称したが、実際にはイギリスの主張を支持し、サン=ステファノ条約は破棄されて新たにベルリン条約が結ばれた(1878.7)。

 ベルリン条約では、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認され、ブルガリアについては領土が大幅に縮小されてトルコ治下の自治国となった。ロシアはベッサラビアを得たがバルカンから後退し、南下政策はまたもや阻止された。

 これに対してイギリスはキプロス島を獲得し、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した。このためロシアはビスマルクに対して不信感を抱き、三帝同盟は事実上崩壊し、後にロシアをフランスに接近させる原因となった。

 露土戦争の失敗後、ロシアはバルカンへの南下政策を一時あきらめ、もっぱら東アジアと中央アジアへの進出に努め、国際関係は新たな展開をみせることになる。




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