3 アメリカ合衆国の発展

1 民主主義の発達と領土拡張(その2)

 合衆国の領土は、独立当時はミシシッピ川以東であったが、以後次第に西方へ拡大し、1848年にはその領土はついに太平洋岸に達した。

 1803年にはフランスからルイジアナを購入して領土を倍増させた後、1819年にはスペインからフロリダを買収した。

 1840年代になると、合衆国の領土拡張と西方への進出を正当化する考え方として「マニフェスト=ディスティニー(明白な運命)」(合衆国の領土拡張はアメリカ人が神から与えられた運命であるとの意味)という言葉が広まった。

 テキサスは、1821年にスペインから独立したメキシコの領土であったが、合衆国から多くの移住民が入り込み、奴隷制を持ち込んだ。そのためメキシコはそれ以上の移住を禁止し、奴隷制の廃止を命じた。これに対して移住民が反乱を起こし、1836年に独立を宣言して共和国となったが、合衆国は1845年にテキサスを併合して第28番目の州とした。

 翌1846年にはイギリスとオレゴン協定を結び、オレゴン地方を北緯49度(現在の国境線)で南北に分割し、オレゴンを併合した。

 さらに合衆国はカリフォルニアの獲得を望み、メキシコに売却を求めたが拒否されたため、テキサスとメキシコの国境地帯に軍隊を派遣してメキシコを挑発し、アメリカ=メキシコ戦争(1846〜48)を起こした。戦争は合衆国の完勝に終わり、1848年の講和条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得し、合衆国の領土はついに太平洋岸に達した。

 19世紀の合衆国の歴史はフロンティア(辺境)が次第に西方へ移動していく歴史である。19世紀を通して西部開拓が進展し、フロンティアは西へ西へと進んでいった。この西方への移住・開拓の動きは総称して西漸運動と呼ばれている。西漸運動は植民地時代にも行われたが、独立後本格化し、1820年代に急速に促進された。

 西部という言葉には、新しく開拓されて文明地域に加えられた地域という意味が含まれている。従って西部は時代によって場所が異なり、独立した頃にはアパラチャ山脈の西が西部であったがその後は次第に西へ移っていった。

 開拓地と未開拓地との境界地帯はフロンティアと呼ばれた。フロンティアとは、1平方マイル(約2.6平方km)につき人口密度が2〜6人の人口が希薄な地域のことである。

 1783年のパリ条約で合衆国の独立が認められ、ミシシッピ川以東の地が合衆国の領土となった。この新しい領土をどうするかは独立当初の大問題であった。当初13州で分割する案もあったが、結局1787年に北西部条例が制定され、西部の土地については一定の地域で自由人の成年男子の数が5000人に達すると、准州として自治政府を設け、准州の自由人口が6万人に達したときは連邦議会の承認を得て州に昇格し、最初の13州と同じ資格で連邦に加入させることとなった。

 またこれより2年前には土地条例が制定され(1785)、アパラチャ山脈以西の土地を1平方マイル(640エーカー)を単位として1エーカー当たり1ドルで売却することが決められていた。しかし、貧しい農民にとっては640ドルは大金であったので、もっと買いやすくしてほしいという要求がくり返され、19世紀に入ると最低売却面積が小さくなり、1820年には80エーカーでも買えるようになった。

 農民や東部で生活が困難な者・ヨーロッパからの移民が西部へ移住し、定着して開墾に従事した。彼らは自然やインディアンと戦いながら荒地を切り開き、丸太小屋を建て、周辺の土地を農地に変えていった。

 そうした開拓民の生活の中から、自主独立・何事にも屈しない不撓不屈の精神・他人との協力・冒険心に富む楽天的な性格などのアメリカ人気質、いわゆるフロンティア=スピリット(開拓者精神)が形成された。また西部は伝統や家柄などにしばられない実力主義の自由な社会であったので、アメリカの民主主義を発展させた。

 しかし、西部開拓の歴史は、先住民のインディアンにとっては白人による抑圧・迫害の歴史であった。

 「ジャクソニアン=デモクラシー」を推進したジャクソンは、1830年にインディアン強制移住法を制定し、インディアンはミシシッピ川以西の土地へ移住を強制され、従わない部族は武力で討伐された。

 南北戦争後、西部開拓が大規模に進められるようになると、追いつめられたインディアンは各地で激しく抵抗したが、1871年にはインディアンは特定の居留地に押し込められることになり、1890年頃までにインディアンの抵抗はすべて鎮圧された。そのためアメリカ独立の頃は約115万人と推定されたインディアンの人口は、1890年頃には25万人にまで減少した。




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