3 アメリカ合衆国の発展

2 奴隷制度と南北戦争(その1)

 合衆国の領土の拡大・西部の発展とともに、北部・西部・南部のセクション(地域)が成立し、セクション間での対立が激しくなった。

 南部では、植民地時代からタバコ栽培を中心とする黒人奴隷を使用するプランテーションが発展していたが、イギリスの産業革命によって綿花の需要が増大し、特にホイットニーの綿繰り機の発明(1793)によって綿花栽培が急激に増大し、イギリスへの綿花輸出も飛躍的に増大した。そのため南部は奴隷制の存続と自由貿易を主張し、1816年以後続けられていた保護関税政策に強く反対した。

 これに対して米英戦争(1812〜14)後、産業革命が進展して資本主義が発達した北部は、先進工業国イギリスから北部の産業資本を守るために保護関税政策を主張し、奴隷制については人道上の理由からも反対した。

 また北部は保護関税政策を維持するために連邦主義を主張したが、南部は州権主義(州の自治・主権を主張する立場)を主張した。

 北部と南部の対立は奴隷制度をめぐって激化した。
 奴隷制度を禁止するか認めるかは州の法律で決められ、また合衆国の上院は各州から2名の議員が選出されるので、自由州(奴隷制度を禁止した州)と奴隷州(奴隷制度を認める州)の数は上院の勢力分布に直接反映されることになる。そのため西部の発展によって新州が成立して連邦に加入する際に、自由州にするか、奴隷州にするかをめぐって南部と北部は激しく争った。

 ミズーリ准州が州に昇格する際に、南部と北部が対立した。結局ミズーリ協定が結ばれ、ミズーリ州を奴隷州とするが、以後はミズーリ州の南境界線の北緯36度30分以北には奴隷制度を認めないことが決議された。

 1820年以前には、自由州が11州・奴隷州も11州だったので、ミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、マサチュセッツ州からの分離を要望していたメイン州を自由州として認めて連邦に加入させ、自由州と奴隷州の均衡がはかられた。

 しかし、アメリカ=メキシコ戦争(1846〜48)によって獲得したカリフォルニアのサクラメントの近くで1848年に金鉱が発見されると、世界中から一攫千金を夢見るおびただしい移民が殺到し、翌1849年だけでも8万人以上の人々がカリフォルニアに押しかけた。彼らは、1849年に移住してきたので「フォーティ=ナイナーズ」と呼ばれている。

 この「ゴールド=ラッシュ」によってカリフォルニアの人口が急増し、1849年には早くも10万人に達し、州に昇格する条件を満たした。

 当時の自由州と奴隷州の数はともに15州であった。カリフォルニアが自由州として連邦に加入を希望すると、自由州と奴隷州との均衡が崩れるので再び南部と北部の対立が激化した。

 カリフォルニアは南北に大きな州で、北緯36度30分が州の中央やや南を通っていたので、ミズーリ協定で解決することは不可能であった。結局「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアを自由州にする代わりに厳重な逃亡奴隷取締り法を制定することで南部と北部は妥協した。

 奴隷制廃止論者たちは、逃亡奴隷取締り法に強く反対し、「地下の鉄道」という秘密組織をつくり、南部から逃亡してきた奴隷をかくまってカナダへ送り込んだ。

 ストウ夫人(1811〜96)は逃亡奴隷取締り法に怒りをかき立てられ、1851〜52年に「アンクル=トムの小屋」を雑誌に連載した。「アンクル=トムの小屋」が出版されると(1852)、1年間で30万部以上が売れてベストセラーとなり、人々に大きな感銘を与えるとともに大きな社会的反響を呼び起こした。

 このような状況の中で、1854年に「カンザス=ネブラスカ法」が成立した。これはカンザス=ネブラスカ両州を准州とする際、両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民の決定にゆだねるという法であった。

 カンザス=ネブラスカ両州は、ミズーリ協定では当然自由州になるはずであったが、南部はミズーリ協定がある限り新州が奴隷州になる望みがないので、ミズーリ協定の廃棄を強く要望していた。

カンザス=ネブラスカ法の成立は、このミズーリ協定の廃棄を意味し、また奴隷制度が北部へ拡大する可能性があったので、南部と北部の対立が再び激化した。

カンザス=ネブラスカ両州が将来自由州になるか奴隷州になるかは住民投票で決定されることになったので、南部と北部は多くの人々を両州に移住させ、将来両州を自由州または奴隷州にしようと争ったので対立はますます深まり、武力衝突も起こった。

カンザス=ネブラスカ法の成立から2ヶ月後に、奴隷制反対をスローガンとしてホイッグ党を中心に共和党が結成され(1854)、奴隷制度をめぐる南北の対立は決定的となった。

 こうした状況の中で1860年に行われた大統領選挙は激戦であったが共和党のリンカーンが当選した。

 リンカーン(1809〜65、任1861〜65)は、貧しい開拓農民の子としてケンタッキーの丸太小屋で生まれ、イリノイ州に定着した。独学によって弁護士となって開業するとともに、州議会議員・下院議員に選出されてホイッグ党員として活躍した。一時政界を引退したが、共和党が結成されると奴隷制拡大反対論者であったリンカーンは共和党に加わり、イリノイ州選出の上院議員に立候補した(1858)。 この選挙では敗れたが選挙中の演説で全国にその名を知られるようになり、1860年の大統領選挙では共和党の大統領候補となった。そして民主党の分裂などに助けられ、第16代大統領に当選した。

 リンカーンの当選は南部の奴隷州に衝撃を与え、連邦を脱退して別の国家をつくろうとする空気が強まり、リンカーンの当選の翌月にサウスカロライナ州はついに連邦脱退を宣言した(1860.12)。これに続いてリンカーンの大統領就任(当時は大統領就任式は3月に行われた)までの間に6州が脱退した。

 1861年2月、合衆国を脱退した南部諸州はアメリカ連合国(アメリカ連邦)を結成して憲法を制定し、ジェファーソン=デヴィス(1808〜89、ミシシッピ州選出の上院議員からアメリカ連合国の大統領となる、任1861〜65)を大統領に選んだ。アメリカ連合国は最初7州で形成されたが、5月までには11州が加わった。




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