3 アメリカ合衆国の発展

2 奴隷制度と南北戦争(その2)

 1861年3月に大統領に就任したリンカーンは連邦の維持を至上目的とし、連邦を脱退した南部諸州に連邦への復帰を呼びかけたが南部は応じず、南部にあった合衆国の要塞や武器庫を接収しようとした。この動きを見たリンカーンはサウスカロライナ州のサムター要塞への弾薬・物資の補給を命じた。

 1861年4月12日、南軍はサムター要塞に砲撃を開始し、ここに南北戦争(1861.4〜65.4)が始まった。南北戦争は英語では、the Civil War(内乱)である。北部は南部諸州の合衆国からの脱退を憲法違反として認めず、従ってアメリカ連合国を国家として認めず、南部諸州の合衆国に対する内乱という立場をとった。これに対して南部は、アメリカ連合国とアメリカ合衆国との戦争という立場をとり、南北戦争をthe War between the States(諸州間の戦い)と呼んでいる。

 南北戦争が始まったときには、北部も南部も戦争は短期間で終わると考えていたが、予想に反して全面戦争となり、4年間にわたる大内乱となった。

 近代戦の勝敗を決定するのは経済力を含めた総合的な戦力である。この点では北部が圧倒的に優勢であった。北部(23州)の人口約2200万人に対して南部(11州)は約900万人であったがその中には約400万人の奴隷が含まれていた。経済力では北部が圧倒的に優勢で、北部は近代的な工業力を持ち、当時の工場の約81%は北部にあった。また鉄道などの輸送力の面でも北部が断然優れていた。また海軍力においても優位に立つ北部は南部に対して海上封鎖を行ったので、南部は唯一の重要な輸出品である綿花が輸出できなくなり、さらに武器・弾薬・食糧などの輸入も止まり大打撃を受けた。

 しかし、初期においては南軍が名将リー(1807〜70)の指揮下に優勢に戦いを進めた。

 1862年になると、北部は西部戦線でニューオリンズを占領して(1862.5)戦いを有利に進めたが、東部戦線ではリッチモンド(アメリカ連合国の首都)攻略戦が南軍の激しい抵抗にあって敗退を重ね、苦戦を強いられていた。

 1862年5月、リンカーンは大統領選挙での公約であったホームステッド法(自営農地法)を制定した。これは公有地に5年間定住して開墾に従事した者には160エーカー(約65ha)の土地を無償で与えるという土地立法であったので、農民の西部進出と西部開拓が促進され、また北部はこれによって西部の支持を得ることが出来た。

 リンカーンは奴隷制度には反対であったが奴隷制拡大反対論者であり、解放論者ではなかった。彼の南北戦争における最大の目的は連邦の維持にあった。そのため奴隷制即時廃止論者はリンカーンに奴隷制廃止のためにもっと強い政策をとるように要求した。これに対してリンカーンは次のように回答している(1862.8)。

「この戦争における私の至上の目的は連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。もし奴隷を一人も解放せずに連邦を救うことが出来るものならば私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を解放することによって連邦を救えるならば私はそうするでしょう。またもし一部の奴隷を解放し、他の者をそのままにしておくことによって連邦を救えるものならそうもするでしょう。 私が奴隷制度や黒人種についてすることはこれが連邦を救うに役立つと信じているためなのです。」(東京法令出版社、世界史資料集より)

 リンカーンは、内外の世論の支持を得て戦いを有利に展開するために奴隷解放宣言を行うことを決意し、1862年9月に予備宣言を行った。以下はその一部である。

「1863年1月1日を以って、いかなる州においても、また特に州内で人民が上記年月日に合衆国に対して謀反中と指定される地方において、すべて奴隷の身分におかれている者は、その日より永久に自由人となるべきである。」(山川出版社、史料世界史より)

 1863年1月1日に奴隷解放宣言が行われた。しかし、この時解放されたのは合衆国に反乱を起こしている州内の奴隷で、ミズーリ州など合衆国にとどまった奴隷州(4州)の奴隷は除外されており、合衆国国内の奴隷制度が全面的に廃止されたのは憲法修正第13条(1865年発効)によってである。

 1863年7月、リー将軍は7.5万の南軍の主力を率いてワシントンを迂回してペンシルヴァニアに侵入し、北軍8.7万と3日間にわたって戦った。これが南北戦争中の最大の激戦といわれるゲティスバーグの戦いである。北軍が勝利をおさめ、南軍は退却を余儀なくされた。この戦いでは北軍2万、南軍2.5万の戦死者がでた。

 リンカーンは戦死者を祀る国有墓地を設立するための式典に出席するためにゲティスバーグを訪れ、有名な「ゲティスバーグの演説」を行った(1863.11)。

「・・・これら名誉ある戦死者よりいっそうの献身を受け継いで、彼らが最後の全力をあげて身を捧げたその主義のために尽くすべきであります。これら戦死者の死をむだに終わらしめぬよう、ここに固く決意すべきであります。この国に、神の恵みのもと、自由の新しき誕生をもたらし、また人民の、人民による、人民のための政府が、この地上より消滅することのないようにすべきであります。」(山川出版社、史料世界史より)

 1864年、グラント(後の第18代大統領、任1869〜77)が北軍の総司令官に任命された。彼はリッチモンドを目ざし、これに呼応してシャーマンの率いる軍がテネシー州からジョージア州に入り、アトランタを陥れ、そこから北上してリッチモンドに向かった。シャーマンの軍は破壊と略奪の限りを尽くし、南部の市民を震え上がらせた。

 映画でも有名なミッチェル(1900〜49)の『風と共に去りぬ』(1936)は、南部の立場から南北戦争を描いた名作であるが、その中にも南部の人々がどんな気持ちでシャーマン軍を迎えたかが書かれている。

 1865年4月、北軍がアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、4月9日リー将軍が降伏して南北戦争が終わった。

 南北戦争が終わってわずか5日後、1865年4月14日、二期目の大統領に就任したばかりのリンカーンが暗殺された。その夜、ワシントンのフォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ブースに狙撃され、翌朝死去した。




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