2 ヨーロッパ世界の拡大

4 スペインによるアステカとインカの征服

 コロンブスによるアメリカ大陸への到達以後、スペイン人はアメリカ大陸の征服と開拓を中心とする植民活動を行った。

 アメリカ大陸の先住民であるインディオ(インディアン)は、ベーリング海峡がまだアジアと陸続きであったときに、モンゴロイド系の一部が移住・拡散した人々で、古くから独自の文化を形成していた。

 アメリカ大陸では、すでに前1000年頃から、メソアメリカ文明やアンデス文明などの古代アメリカ文明が発展していた。

 メキシコ湾岸では、前1000年頃からオルメカ文明が、メキシコ高原では前2世紀〜6世紀にテオティワカン文明が成立していた。そして6世紀〜14世紀にはユカタン半島を中心にマヤ文明が栄え、メキシコのアステカ文明に受け継がれた。これらの文明は総称してメソアメリカ文明と呼ばれている。

 マヤ文明は、マヤ族がユカタン半島を中心に形成した都市文明で、前500年頃から始まり、4世紀以後都市国家が形成された。神殿・石造の階段ピラミッド・天文台が建造され、二十進法による記数法・精密な太陽暦・象形文字などを持つ独自の文明が発達した。住民は石器を使用し、とうもろこしやじゃがいもを栽培した。

 マヤ文明は10〜13世紀に最盛期を迎えたが、その後メキシコ=インディアンに破壊され、その文明はアステカ文明に継承された。

 メキシコ高原では、北部に興ったアステカ(チチメカ)族が、6世紀〜10世紀にかけて栄えたトルテカ文明に打撃を与えつつ南下し、他種族を制圧して12世紀中頃にメキシコ中央高原に進出した。14世紀中頃に首都テノチティトランを建設し、15世紀にはアステカ王国を建設した。

 アステカ族はマヤ文明やトルテカ文明を継承し、神殿・ピラミッド・象形文字・彩文土器・太陽暦を持つ文明を発達させたが、鉄器や車の使用は知らなかった。

 アステカ文明は1521年にスペイン人のコルテスによって滅ぼされた。

 南米のアンデス山脈一帯では、前1000年頃に北部ペルーにチャビン文化が形成され、以後モチカ文化(1〜8世紀、ペルー北部が中心)・ナスカ文化(1〜8世紀、ペルー南部が中心)・ティアワナコ文明(1〜12世紀、ボリビア高原が中心)などの文化が成立した。

 ペルー・ボリビアに居住していたインカ(ケチュア)族は、1200年頃からアンデス山脈一帯の諸王国を次第に統合し、15世紀後半にはエクアドルからチリに至る広大な統一国家=インカ帝国を形成し、都をクスコに置いた。

 インカ帝国では、太陽の化身である国王(インカ、太陽の子の意味)が強大な権力を持ち、優れた石造技術によって神殿・宮殿・道路・灌漑施設などが建設された。人々はとうもろこし・じゃがいもを栽培し、リャマ・アルパカなどの小型家畜を飼養した(新大陸には牛・馬・ラクダなどの大型家畜はいなかった)。

 インカ文明も鉄器を知らなかったが青銅器は知られていた。また金・銀は装飾用に大量に使用された。インカでは金・銀細工や美しい陶器・織物などが作られた。

 インカの人々は文字は持たなかったが、キープ(結縄)と呼ばれる縄の結び目によって意味や数量を示す方法を用いた。

 インカ帝国も1533年にスペイン人のピサロによって滅ぼされた。

 スペインはコルテスやピサロに代表される「コンキスタドレス」(征服者)を新大陸に送り込み、インディオの諸王国を征服し、中米から南米にかけて広大な植民地を築き上げていった。

 コルテス(1485〜1547)は、スペインの貧乏貴族の家に生まれ、新大陸にわたって(1504)キューバで活躍した後に、キューバ総督の命を受けて、兵500人・馬16頭・銃約50丁を持ってメキシコ探検に出発した。ユカタン半島に上陸し、反アステカ同盟と結んでアステカの首都テノチティトランを占領した(1519)。その後反撃に出たアステカ王国軍を打ち破って首都を占領して略奪・破壊を行い、アステカ王国を滅ぼした(1521)。

 コルテスはノバ=イスパニア(新イスパニア=メキシコ)の総督に任命されたが、強引な政治を行ったために総督を罷免されて帰国した(1526)。その後も各地の探検を行ったが不遇の晩年を過ごし、失意のうちに本国で死んだ。

 メキシコ征服によって、スペインは新大陸で初めて大量の金・銀(特に銀)を獲得し、メキシコ産出の銀で銀貨を鋳造した。この銀貨はメキシコ銀と呼ばれ、スペインがアジア貿易に使用したので後にアジア各地でも流通することになる。

 ピサロ(1470頃〜1541)も、スペインの地方貴族の私生児として生まれ、後にバルボア(1470頃〜1517、スペインの探検家で1513年にパナマ地峡を横断して太平洋を発見した)の部下となり、彼の航海に同行し、インカの黄金伝説のうわさを聞き、「第二のコルテス」になることを熱望し、南米西海岸をを探検して(1524・1526)インカ帝国の存在を確かめた。

 1531年にスペイン王の援助を受けて、兵180人・馬27頭と銃を携えてパナマを出発し、翌年ペルーに上陸した。アンデス山脈を越えてクスコに入り、内紛に乗じてインカ王を不意打ちで捕らえて莫大な身代金を要求し、それを手に入れると王を殺し、インカ帝国を滅ぼした(1533)。

 ピサロはペルー征服の功績により、侯爵位を授けられたが、後に同僚のアルマグロと争い、これを処刑したが、彼自身もアルマグロの支持者によって暗殺された。ピサロはインディオの虐殺と略奪の激しさで悪名高い人物である。

 アステカ王国やインカ帝国がわずかな兵しか持たなかった「コンキスタドレス」によってあっけなく滅ぼされたのは、インディオが平和的な民族であったことや何と言っても鉄砲の威力と機動力に富む騎兵に太刀打ちできなかったことが最大の原因であった。

 ペルー征服によって大量の貴金属(特に銀)を手に入れたことからスペインは以後植民地経営の中心を鉱山経営に向けた。

 新大陸最大の銀山であるポトシ銀山(ボリビア南部)の発見(1545)以後は、スペイン人はインディオの強制労働によって、大量の安価な銀の採掘を強行し、インディオ人口の激減や絶滅を招いた。そのためにアフリカ西海岸の黒人を奴隷として新大陸に連行して鉱山労働に使役するようになる。




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