1 オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒

2 アラブ民族の覚醒

 18世紀に入りオスマン=トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン=トルコの支配下のアラブ地域において民族的な自立を求める動きが始まった。

 18世紀の中頃、アラビア半島でムハンマド=ブン=アブドゥル=ワッハーブ(1703頃〜91)がイスラム教の改革を唱えてワッハーブ派を創始した。

 ワッハーブ派は、スンナ派に対抗して原始イスラムへの復帰を唱え、ムハンマド以来の300年間が正しいイスラム教が行われた時期であるとしてそれ以後の全ての改革を否定した。また極端な禁欲主義を説き、厳正な一神教に従ってコーランと預言者ムハンマドの言行に基づく知識以外は認めない立場をとった。

 ワッハーブ派は、中部アラビアの豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744頃〜1818、1823〜89)を建設し、リヤドを首都とした。

 第1次ワッハーブ王国(1744頃〜1818)は、オスマン=トルコから征討を命じられたエジプト総督のムハンマド=アリによって1818年に滅ぼされた。

 サウード家によって再興された第2次ワッハーブ王国(1823〜89)はリヤドを奪われて滅びたが(1889)、サウード家のイブン=サウード(1880〜1953)が20世紀の初めにリヤドを奪回して再び復活し、1932年には国号をサウジアラビアと改称して現在に至っている。なおワッハーブ派は現在のサウジアラビアでも支配的な宗教である。

 ワッハーブ派は、イスラム改革の始まりとなり、またアラブ民族主義運動のさきがけとなった。

 ナポレオンのエジプト遠征(1798〜99)はアラブ民族主義運動高揚の端緒となった。ナポレオン軍の敗退の混乱に乗じて、マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長ムハンマド=アリー(メフメト=アリー、1769〜1849)は実力によってエジプト太守(総督、パシャ)となり、エジプトの実権を握った(1805)。ムハンマド=アリーはその後エジプト全土を統一し、行政・産業・教育・軍事の西欧化による近代化を進めた。

 ムハンマド=アリーはオスマン=トルコからワッハーブ王国の征討を命じられてアラビア半島に出兵し、一時ワッハーブ王国を滅ぼした(1818)。

 またギリシアの独立戦争(1821〜29)でオスマン=トルコを援助してクレタ・キプロス島を獲得したムハンマド=アリーは、さらにシリアの領有を要求して第1次エジプト=トルコ戦争(1831〜33)を引き起こしてシリアの領有を認めさせた。

 ムハンマド=アリーは、さらにエジプト・シリアなどの領土の世襲権を要求して第2次エジプト=トルコ戦争(1839〜40)を起こし、フランスの援助を得てオスマン=トルコに大勝した。これを見たイギリスはロシア・プロイセン・オーストリアをさそって干渉し、ロンドン会議を開いてロンドン四カ国条約成立させた。この条約によってムハンマド=アリーは世襲領域をエジプト・スーダンに限定され、シリアを放棄させられた。

 エジプトでは、1840年代以後、イギリスを初めとするヨーロッパからの資本や製品の流入が増大し、列強への経済的従属が進んだ。特にイスマーイール(位1863〜79)がスエズ運河の建設、鉄道・用水路・工場の建設などの近代化政策を進めたために、これらの事業によってエジプトには莫大な外債が残された。

 財政難に陥ったエジプトは、スエズ運河の株式をイギリスに売却(1875)して財政難を切り抜けようとしたが、外債の利子支払いも不可能となり国家財政は破綻し、イギリス・フランスの財務管理下におかれることとなった。1877年には国庫歳入の実に79%が債務返済に充てられる状態となり、エジプト農民は重い税負担に苦しめられ、農民が餓死する中でも税の取り立てが行われた。

 こうしたイギリス・フランスの経済支配に対する反対闘争が各地で起こったが、その先頭に立ったのがアラービー=パシャであった。

 アラービー=パシャ(1841〜1911)は、農民出身の軍人でエジプト人将校の間で祖国党を組織して「エジプト人のためのエジプト」運動を進めた。1881年には反乱を起こし、翌年には陸軍大臣に就任して自由主義的な憲法を発布させた(アラービー=パシャの反乱、1881〜82)。

 1875年にスエズ運河の株式を買収していたイギリスは、アラービー=パシャの反乱が起こると彼の辞職を要求し、単独でエジプトに出兵してアラービー=パシャの軍を破り、エジプトを軍事占領して事実上の保護下においた。

 アラービー=パシャの反乱は、エジプト最初の民族革命であり、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたアラービー=パシャの運動はその後のエジプト民族主義運動の原点となった。




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