1 オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒

3 オスマン帝国の改革

 第2次ウィーン包囲の失敗(1683)、カルロヴィッツ条約の締結(1699)以来、オスマン=トルコは否応なしにヨーロッパの軍事力の優越を認めざるを得なくなっていた。

 18世紀末に即位したセリム3世(第28代皇帝、位1789〜1807)は軍事的改革を中心とする近代化改革を進めたが保守勢力によって廃位された。

 セリム3世の改革はマフムト2世(第30代皇帝、位1808〜39)に受け継がれた。彼は横暴をきわめ・堕落したイェニチェリを廃止し(1826)、西欧式の軍隊を編成し、地方豪族の勢力抑制に努めた。しかし、対外的にはギリシアの独立(1829)とムハンマド=アリーによるエジプトの自立(1805)・東方問題(1831〜40)の激化を招いた。

 マフムト2世の死後、若いアブデュル=メジト1世(1823〜61、第31代皇帝、位1839〜61)が即位し、ギュルハネ勅令を発布して(1839)タンジマート(1839〜76)を開始した。

 タンジマート(アラビア語で整理・秩序の意味、恩恵改革と訳されている)とはギュルハネ勅令に基づくオスマン=トルコの諸改革の総称である。タンジマートはオスマン=トルコの司法・行政・財政・軍事・文化などあらゆる分野にわたる西欧化による近代化改革で、オスマン=トルコの旧体制から西欧式体制への移行を目ざした「上からの改革」であった。

 アブデュル=メジト1世は、1856年に再度勅令を発布し、領内の非イスラム教徒の社会的平等を確認したが、タンジマートは旧勢力の反対にあい中途で挫折した。

 クリミア戦争(1853〜56)後、ミドハト=パシャ(1822〜84)を中心とする憲法制定を求める運動がおこった。ミドハト=パシャは各地の地方官をへて二度宰相となったが、この間ヨーロッパを視察した経験から近代化の必要を痛感し、自由主義的改革に努めた。 1876年にアブデュル=ハミト2世(第34代皇帝、位1876〜1909)が即位すると、ミドハト=パシャは宰相に任命され、ミドハト憲法を起草・発布した。

 ミドハト憲法はアジア最初の憲法で、イスラム教徒と非イスラム教徒との平等・宗教別比例代表制による議会・責任内閣制・個人の自由などを定めた民主的な憲法であったが、翌年露土戦争(1877〜78)が勃発すると、これを口実にミドハト憲法は停止された。




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