1 ビザンツ帝国
ゲルマン民族の大移動の開始(375)から、20年後のテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂した。その後の混乱の中で、西ローマ帝国が滅亡(476)した後も、東ローマ帝国はコンスタンティノープル(現イスタンブル)を都として、1000年以上も存続した。西ローマ帝国の滅亡後は、東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝として、西ヨーロッパのゲルマン諸王に権威を認められていた。 しかし、この間ドナウ川はもはや防衛戦でなくなり、ビザンツ帝国はドナウ川の南に移住したゲルマン諸族や、ドナウ川の北にいたフン族・スラヴ族・ブルガール人、そして東方からはササン朝ペルシアの侵入に絶えず脅かされていた。
また国内では、カルケドンの公会議(451)で異端とされた単性論(イエスは神と人の2つの性質を持つという正統のアタナシウス派の主張を認めず、イエスには神としての単一の性質しかないという説)が、シリア・エジプトの教会で主流を占め、これらの地域は東ローマ帝国から離れようとする傾向が強かった。
このような時期に、マケドニアの農家に生まれ、マケドニアの将軍で後に皇帝となった叔父のユスティヌス1世(位518〜527)の養子となり、その死後帝位についたのが有名なユスティニアヌス1世(483〜565、位527〜565)である。
彼は、国内では「ニケ(ニカ)の反乱」(532年にコンスタンティノープルで起こった反乱、蜂起した民衆の”ニカ(勝利)という叫び声によってこう呼ばれる)を鎮圧し、対外的にはホスロー1世(位531〜579)の即位後激しくなったササン朝ペルシアの侵入を、将軍ベリサリウス(494頃〜565)らの活躍によって撃退し、休戦条約を結んだ(533、545)。
この間、西方では「地中海帝国(ローマ帝国)の復活」をめざし、北アフリカのヴァンダル王国で親ローマ的な皇帝が廃されたことを口実に、将軍ベリサリウスにヴァンダル征討を命じた。ベリサリウスは、ヴァンダル王国を滅ぼし(534)、さらにシチリア島・ナポリを占領してローマに入り(536)、一時東ゴート王国を制圧した。しかし、東ゴート王国はさらに抵抗を続け、ベリサリウスがペルシアと戦っている間に勢力を取り戻し、イタリア全土を回復した。ベリサリウスにかわって東ローマの将軍となったナルセス(478頃〜568)は、3万の軍を率いてイタリアに遠征し、ついに東ゴート王国を滅ぼした(555)。さらにその間、西ゴート王国とも戦い、ヒスパニア(スペイン)南部を領有した。
この「ユスティニアヌスの再征服」によって、今や東ローマ帝国の領土は、バルカン半島・小アジア・シリア・エジプト・北アフリカ・イタリア・シチリア・スペイン南部にまで及び、地中海は再び「ローマの湖」となった。
「再征服」と並んでユスティニアヌス帝の名を不朽にしているのが「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」編纂の事業(529〜534)である。彼は、ローマ人が後世に残した最大の文化遺産といわれるローマ法の研究を奨励し、トリボニアヌス(?〜546)ら10名の法学者に命じ、ローマ法の大編纂事業を行わせた。
「ローマ法大全」は、ハドリアヌス帝(位117〜138)以後に発布された皇帝立法を集めた「勅法集(ユスティニアヌス法典)」、法学者の学説を集めた「学説集」と、この2つの抜粋である「法学提要」の三部から成り立っていて、534年に完成した。
現在のヨーロッパ各国の法はローマ法の影響を受けている。その影響はドイツ・フランスの法を通じて明治時代の日本の法にも及んでいる。その意味でも、「ローマ法大全」の歴史的意義は計り知れないほど大きい。
またユスティニアヌス帝は、大土木事業を盛んに行ったが、その最大のものがセント=ソフィア大聖堂である。セント=ソフィア大聖堂は、コンスタンティヌス大帝によって建立されたがのちに焼失した。これを再建したのがユスティニアヌス帝のセント=ソフィア大聖堂で、高さ56メートルのドーム(円屋根)と美しいモザイク壁画で飾られたビザンツ式建築の代表的建築物として有名である。
ユスティニアヌス帝は、このセント=ソフィア大聖堂の建立によって、東ローマ皇帝が政教両界の最高支配者であることを示した。この皇帝が同時に教会の首長であるという東ローマ帝国の政治理念は皇帝教皇主義と呼ばれる。しかし、彼の宗教政策は、東方のシリア・エジプトで盛んであった単性論と西方のローマ教皇の間に立って一定せず、帝国内を一つの信仰で統一することは出来なかった。
さらにユスティニアヌスの時代に、中国から中央アジアを経由して蚕と養蚕の技術が伝来し、以後絹織物業は東ローマ帝国の代表的な産業になっていく。
このように、東ローマ帝国はユスティニアヌス帝の時に最盛期を迎えたが、彼の死(565)から3年後にロンバルド族が北イタリアに侵入した。また東方はササン朝ペルシアの脅威にさらされ、北方からはアヴァール人やスラヴ諸族の侵入に脅かされた。
アフリカ総督の子、ヘラクレイオス1世(位610〜641)が、ユスティニアヌス帝の死後の混乱を収拾し、クーデターによって帝位につき、ヘラクレイオス朝を開いた。しかし、名君と言われたヘラクレイオス1世の時代も首都コンスタンティノープルの周辺と小アジアを確保するのが精一杯で、ササン朝ペルシアによってエジプト・シリアを奪われ(611〜616)、アヴァール人の侵入にも苦しんだ。やがて反撃に転じ。エジプト・シリアを奪回し(623〜627)、アヴァール人の撃退に成功した(626)。しかし、晩年にはササン朝ペルシアにかわって台頭してきたイスラム教徒によって、シリア(635)、次いでエジプト(642)を失った。
このような対外的危機にあたって、国境防衛のために、軍管区制(テマとも呼ばれる)と屯田兵制を施行した。軍管区制は、帝国の全領域をいくつかの軍管区に分け、屯田兵をおき、軍団の司令官に駐屯地の民政を兼ねさせる制度である。屯田兵制は、軍管区制のもとで、司令官の指揮下に兵士に土地を与え、かわりに兵役を課した制度である。軍管区制は、625年頃ヘラクレイオス1世によって確立され、11世紀頃まで行われた。
東ローマ帝国は、首都コンスタンティノープルが古くはビザンティウムと呼ばれていたことから、ビザンツ帝国とも呼ばれる。ギリシア的・ヘレニズム的な東方地域を中心とした東ローマ帝国は、西ヨーロッパがフランクの発展とともに一つのまとまった世界を形成していく中で、西ヨーロッパとは異なる独自の世界を形成していった。このビザンツ的な独自の世界が形成されていくのが、7世紀のヘラクレイオス1世以後のことであるとされている。従って以後は、東ローマ帝国をビザンツ帝国呼んでいきたい。
シリア・エジプトを征服し、ササン朝ペルシアを滅亡に追い込んだイスラム教徒は、ビザンツ帝国艦隊を撃破し(655)、コンスタンティノープルを包囲した(673〜678)。しかし、軍管区制などの国政改革が実を結びつつあったビザンツ帝国は「ギリシアの火」(一種の火薬、硝石・硫黄・松脂を混合した発火性物質で、水では消せなかった)を使ってイスラム軍を苦しめ、撃破した。しかし、イスラム教徒は717年に再度コンスタンティノープルを包囲した。
ビザンツ帝国は、この年に即位したレオン3世(675頃〜741、位717〜741)のもとで1年間の包囲に耐え、ついにこれを撃退した。
レオン3世は、北シリアの下層民の家に生まれ、後軍隊に入って軍管区の司令官にまで昇進し、軍隊に推されて、テオドシウス3世を廃して即位し、イサウロス朝を創始した。前述のイスラム教徒によるコンスタンティノープルの包囲に耐えて、これを撃退した。そして偶像を否定するイスラム教徒に刺激され、国内の富裕化した教会・修道院を抑えるために、726年に「聖像禁止令」を発布した。この聖像禁止令がローマ教会を巻き込んで、聖像崇拝の大論争に発展し、後に東西教会に分裂する(1054)きっかけになったことは前に述べた。
イサウロス朝にかわった、バシレイオス1世(位867〜886)によって創始されたマケドニア朝(867〜1057)の時代はビザンツ帝国中期の最盛期であった。特にバシレイオス2世(位963〜1025)の時には、クレタ島を占領して東地中海の海上権を握って経済的に繁栄し、さらにブルガリアを滅ぼしてこれを併合し、南イタリアも一時奪回し、ユスティニアヌス帝以来最大の領土を誇った。
キエフ公国のウラディミル1世の改宗(989)によって、ロシアの地にギリシア正教を中心とするビザンツ文化が伝播するのもこの時代である。
しかし、11世紀中頃からセルジューク朝の侵入を受け、小アジアのほとんどを失った。
マケドニア朝の断絶後の混乱を鎮圧して即位したアレクシオス1世(位1081〜1118)は、プロノイア制によって軍隊の再建を図った。プロノイア制は、11世紀頃から行われた土地制度で、奉仕・勤務の代償に、皇帝が地方領主に国有地の官吏・監督を任せる制度である。しかし、13世紀以降は世襲化され、社会の封建化を促進し、帝国解体の要因となった。
アレクシオス1世は、セルジューク朝の脅威を訴える書簡をローマ教皇ウルバヌス2世に送り、西ヨーロッパに救援を要請した。これに応えて、1096年に第1回十字軍が派遣されることになる。しかし、13世紀初頭に行われた第4回十字軍によってコンスタンティノープルは占領された。フランドル伯ボードアン1世(位1204〜05)によるラテン帝国(1204〜61)が建設され、ビザンツ帝国は一時崩壊した。
この時、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世(位1204〜22)は、小アジアの北西部のニケーアを中心にニケーア帝国(1204〜61)を建てて、セルジューク朝やラテン帝国に対抗した。ニケーア帝国5代目の皇帝ミカエル8世はコンスタンティノープルを奪回して、ビザンツ帝国を再建した(1261)。
しかし、その後のビザンツ帝国は、帝位争いや傭兵の反乱、オスマン=トルコ帝国の圧迫によって国力は全く振るわず、15世紀に入ると領土はコンスタンティノープルの周辺・ギリシアの一部・クレタ島・黒海南岸の一部にわずかに残るのみとなり、メフメト2世にコンスタンティノープルを占領され、1000年以上続いたビザンツ帝国は、1453年についに滅亡した。
ビザンツ文化は、ギリシア文化を継承・保存し、周辺のスラヴ人の開化やのちの西ヨーロッパのルネサンスに大きな影響を及ぼした。
西ヨーロッパ世界の文化が、ローマ文化とローマ=カトリック教会を基調としているのに対し、東ヨーロッパ世界の文化(ビザンツ文化)は、ギリシア文化とギリシア正教を基調としている。
ビザンツ帝国の領域では、ヘレニズム時代以後コイネーと呼ばれるギリシア語が使用されてきたが、6世紀頃からはギリシア語はビザンツ帝国の公用語として使用されるようになった。
美術の分野では、独自のビザンツ式が栄えた。ビザンツ式は、ドーム(円屋根)とモザイク壁画を特徴とする教会建築の様式で、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープルに建立したセント=ソフィア大聖堂がその代表である。セント=ソフィア大聖堂は、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン=トルコ帝国の占領後、イスラム教のモスク(寺院)に改装され、今日に至っている。その他、ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂やヴェネツィアのサン=マルコ聖堂も有名である。
ビザンツ文化の中で後世に最も大きな影響を及ぼしたのがユスティニアヌス帝が編纂させた「ローマ法大全」であるが、これについては前述した。
ビザンツ帝国によって継承され、発展したギリシア古典文化は、ビザンツ帝国の滅亡前後からビザンツの学者達によってイタリアにもたらされ、西ヨーロッパのルネサンスに大きな影響を及ぼしたこともよく知られている。