第二章(3)
ツンと焦げるような匂いが鼻をついた。その異質さが、焼けたのが衣類だけでないことを知らせている。
「だいじょうぶよ。何も心配しないで」
優しい声が頬をなでる。でも、それではいけないことも一方で理解していた。
きっと、目を閉じて耳を塞いでいればエルネアがなんとかしてくれるだろう。全部きれいに片付けて、何もなかったように振舞ってくれるかもしれない。
「そんなの、だめだ」
思った途端、涙が溢れた。
犯した罪にふたをして忘れたふりをするのが、どんなに自分や周りを苦しめるか、今のミモルは知っていた。こういう時、最もしてはいけない行為は、目を背けることだと。
ゆらりと立ち上がった。触発されたように全員がミモルを見、目の前の惨劇を直視した。
「……」
先ほどまで俊敏に動き、自分を脅かそうとしていたはずのそれは、仰向けに四肢を投げ出して床に横たわっている。まるで意思のない物体のように。
騒ぎの間、かなりの音が鳴っていたから、ネディエがいくら人払いをしていてもいずれ警備兵が来るだろう。猶予というほどの時間もない。
ミモルは決して口にできない言葉が湧き上ってくるのを必死で押さえ込んだ。
……誰か助けて。
―あなたの望むままに―
「えっ」
聞き覚えのない声に驚くのと、目の前に転がる「物体に等しいもの」が身じろぐのとは同時だった。
「お、生きてるんじゃねぇの?」
冷めた目で状況を見つめていたスフレイが全員の意志を代弁し、仲間達がわっと少女に近付く。悪魔のためでなく、深く心を痛めるミモルのために安否を確認するために。
その中で当の本人だけは頭に響く誰かの呼びかけに立ち尽くしていた。
「誰なの?」
「ミモルちゃん?」
赤い髪を散らす悪魔に触れようとしていたエルネアが、主の不可解な様子に気付いて手を止める。
―今ならまだ間に合います―
低い、男の声だろうか。先程はびっくりするばかりだったが、集中してみれば記憶にひっかかりを覚えた。
……そう、これが初めてではない。どこかで聞いたことがあった。
「あなたは誰?」
―よんで下さい―
問いかけに応えるこの一言で閃いた。
「どうしたの、ミモルちゃん。ねぇ」
斜め上を向いたまま独り言を呟いていたミモルが、肩を軽く揺するエルネアへと目線を合わせる。
「声がするの。夢の中で私を呼ぶあの声が」
「……まさか」
それはどちらかと言えば「そんなはずはない」よりも「もしかして」の意を多く含んでいるような声音だった。
「エル、心当たりがあるの?」
―時間がありません―
「おい、放っておいたら今度こそオワリっぽい感じだぜ?」
膝を付いて悪魔の少女の様子を窺っていたスフレイが言い、隣に立つネディエも怪訝な視線を送ってくる。思考を巡らしている時間など本当になさそうだ。
―よんで下さい―
もう声はすぐそこで鳴っている。横で囁いているみたいに。
「……分かった」
時間も、目の前の惨状も、迷う暇を与えてはくれない。なら、出来る事をするだけだ。
「みんな、離れてて」
言って、倒れた少女の前に数歩進み出ると、そんな覚悟に満ちた空気を纏ったミモルからそっと全員が距離を取った。
「ミモル、何をするつもりだ?」
「よぶの」
何度も呼びかけられているうちにピンと来た。似たようなケースがこれまでに二度あったことに。一つは数ヶ月前にティストと出会って間もなく、そしてもう一つは――。
「彼」は呼んで欲しいわけじゃない。喚んで欲しいのだ。
ミモルは目を閉じ、何故か再び闇に塗りつぶされてしまった心の奥へと意識を沈ませていった。精霊の力を制御する訓練のおかげで、今ではかなりスムーズにこの世界へと降り立つことが出来るようになっている。
ふわりと地に足を付けて目を開ければ、リーセンが複雑な表情で「いらっしゃい」と歓迎し、扉を指し示す。ぴったりと閉じられていたそれは、向こう側から押されて開きかかり、強い光を溢れさせていた。
「リーセン、一緒に開けてくれる?」
ティストの時は自分が手伝う側だった。それよりも前、ミモル自身の時は亡き義母が導いてくれた。
「物好きね〜。箱の中身が何だか確かめもせずに手を突っ込むなんてさ」
「だめ?」
今度は肩が触れるほど近くに相棒がいてくれる。外ではエルネアもサポートしてくれることだろう。きっと、大丈夫。
リーセンはふっと笑って手を払った。
「さぁて、鬼が出るか蛇が出るか。やってみようじゃないの」