踏切で起きた怖い話
地元では有名な“開かずの踏切”。今日も今日とて遮断機の彼岸此岸には苛立たしげな顔つきの人々が群れを成している。
学生、OL、サラリーマン――。通勤通学時という時間帯であるからこそ、電車の本数も増え、足止めされる時間も長いのだとは解っていても、だからといって腹の立たないはずはない。何しろ線路を渡るのはほんの数秒で事足りる。だがひとたび下りた遮断機は、最低でも十五分、彼らをそこで足止めさせるのだから、その苛立ちももっともだ。
そんな群衆の中にあって、ひときわ恨めしげな表情の者がいる。女だ。三十代半ばといった風貌。だが彼女の姿を目に留める者はいない。なぜなら彼女は亡霊なのだ。ついひとつきほど前、この踏切で電車に撥ねられたのである。
彼女の最期の様子はこうだった。夕方、スーパーのタイムサービスに乗り遅れまいと焦った一人の主婦が、虎縞模様の棒をくぐり、あちら側へ出ようと試みた。ところが運悪くくるぶしがレールの隙間にはまり、身動きがとれなくなったのである。あいにく周囲に人はいなかった。緊急停止ボタンもそこからは遠く、こんかぎりの叫び声も誰かの耳には届かない。
あまりに長い十数秒が経ち、とうとう警報音が鳴り響く。半狂乱になった彼女は泣き喚き、どうあがいても自由にならない足首に絶望した。誰もいないのは解っていながら、それでも誰かに助けを求めずにはいられなかった。
「誰か」「誰か」「誰か」
あてもなく放たれる彼女の絶叫は、充分に速度の乗った下りの快速列車に跳ね飛ばされるまで続いたのである。
元より自ら招いた災厄である。誰かを恨む筋合いではないのだが、生前より妬み深い性質の女であったから、そのまま成仏もならず、未練不満の強すぎるあまり、開かずの踏切の地縛霊となってしまったのである。
あれから一ヶ月。他の誰かが危険な突破を試みないものかと彼女は毎日待ち続けた。しかしどういうわけか、焦れに焦れているくせに、皆、律儀に踏切が開くのを待っているのだ。あるいは先日、この場所で死人が出たからこそ、皆が皆、心慎重になっているのかもしれないが、それが彼女には面白くない。
――誰か渡れ。
誰でもいいから自分と同じ目に遭わせてやりたかった。そんなことをしたところで、彼女に何の得があるわけでもないのだが、妄念執心という奴は理屈で割り切れるものではない。
と、ついに待ち侘びた好機が訪れた。苛立ちの頂点に達した一人の女子高生が、跨っていた自転車から降りると、自転車を横倒しにするようにして遮断機の下をくぐったのだ。
我知らず、亡霊は喜色を浮かべる。絶好のカモだ。
そもそも彼女は若い女を好かないのだ。
私があの年頃だったとき――と、彼女は往時を振り返る。十代の少女といえば自他共に小娘との認識があり、半人前の身分に甘んじていなければならなかった。なのにきょうびの娘たちときたらどうだ。男たちからちやほやされ、ちゃらちゃらと着飾り、世に怖いものなしといった厚かましい風情で我が物顔に闊歩している。
――気に入らない。
“いまどき”の少女たちには生前から我慢がならなかったのである。
少女がちょうど鋼鉄のレールを踏んだその瞬間である、死霊の瞳が黒く輝いた。と同時に、少女の押す自転車の前輪が、まるで誰かにつかまれたかのように角度を変え、すっぽりとレールの隙間に挟まった。
不意にハンドルをとられた少女は重心を崩し、自転車ごと横様に倒れる。そこへ、測ったかのようにけたたましい警報音――。
群衆は突然眼前に現出した危機に右往左往するばかりで、咄嗟の判断が付きかねる様子だ。あるいはもう少しの間があれば、緊急停止装置のボタンを押す者が現れたかもしれない。だが緊急事態においては、一秒の思考停止が全てを決定付けることもある。一方の、乗客を満載した通勤快速の列車はというと、一分一秒をも無駄にすまいと、鋼の轍を東へ向かって邁進しているのである。
皆、口々に何やら叫ぶが、さすがに身を危険にさらしてまで少女を救出しようという者はいない。ようやく誰かが緊急停止の赤いボタンに駆け寄ったが、もはや手遅れだった。
あちこちから声にならない悲鳴が上がる。もちろん最も雄弁なそれは、当事者である少女のものだ。だが誰もどうすることもできず、その場に立ち尽くすのみである。
ギギギィと耳障りなブレーキの音。運転手が少女の姿に気付いたのだ。だが時すでに遅し。効果的な制動作用が働く前に、先頭車両は少女の身体を呑み込み、自転車を踏み潰し、若さを誇るひとつの生命を、すでに失われた可能性へと変容させた。
寂として声を発する者は誰もいない。ただ一人、女の幽霊だけは誰にも聞こえない声で「ざまあみろ」と哄笑していた。
やがて少しの間があって、ようやく女たちは息を呑み、男たちもくぐもったどよめき声を洩らす。
「――まじかよ」
「…嘘でしょ…」
「うわ……最悪」
電車から降りてくる鉄道会社の社員。まだ若い運転手で、人を轢いたのは初めてなのだろう。顔面蒼白で何度も、やっちまった、やっちまった、と呟いている。
やがて一人二人と携帯電話を取り出す。つられた他の者も慌てて電話をポケットにまさぐる。取り急ぎ、警察や救急に通報するのだろう。あるいはもっと気の利いた者は、会社なり学校なりに連絡して、自分の遅刻の理由を臨場感たっぷりに伝えるのだろう――。
だが亡霊の耳に入ったのは、危急を伝える目撃者の言葉でもなく、突然見舞われた自分の災難を陳述する声でもない。
カシャッ、カシャッ、パシャッ――。
亡霊は我が耳を疑った。そして目の前の光景に呆然とする。
線路を挟んだ彼岸と此岸。その両方に立つ人々は、一斉に携帯電話を取り出したかと思うと、内蔵のデジタルカメラで事故の様子を各々好き勝手に撮影し始めたのである。
――うっわ、ぐちゃぐちゃだ。
――超グロくない、これ?
――人が轢かれるの初めて見たよ
――テレビ局とかに売れるかな、これ?
独り呟く者あり、連れ合い同士で囁く者あり。しかし皆まるで、よくやったと褒め称えるときによくやる、親指を突き出すような格好で、カメラ付き携帯を線路の中央に差し向けている。
パシャッ、カシャッ、パシャッ――。
なおもやまぬシャッターの音。
その場に立ち竦む亡霊は目の前の光景に呆れ果てた。のみならず、この浮き世の有り様に心底うんざりした。
そのうち何もかも嫌になり、人の世に愛想が尽き、未練たらしく残るほどの価値もないと思った瞬間、ついに彼女の身体は薄くなり、風に紛れ、そのまま消えていった。
あとに残るのは踏切を挟んだ有象無象。これから警察が呼ばれ、事故の検分が始まり、遺体の回収作業がおこなわれる。何にせよ、ダイヤの復旧まではしばらくかかるのだ。ならば、と彼らはカメラを向ける。
カシャ、パシャ、カシャッ――。
彼らの撮影会はまだ始まったばかりだ。
了