私に似た男
世の中には同じ顔の人間が三人いるというくらいだから、自分によく似た人間がいたとしても別段おかしな話ではない。だがいざ出くわしてみるとたいそう驚きもするし、それ以上に実に落ち着かない気分になるものだ。
その日、市街地外れの交差点で信号待ちをしていた私は、何の気なしにバックミラーを覗き込み、そして我が目を疑った。
見間違いではなかろうかと何度も目を凝らす。三十前後の年格好。短く刈り込んだ頭髪。白いワイシャツに暗い色合いのネクタイ。間違いない。私の後ろで、私と同じように信号が青に切り替わるのを待っている白い軽自動車。その運転席に座っている男は私とそっくりの風貌をしている。顔立ちはおろか、服装、髪型までがそっくりなのだ。
当然ながら、男は私に注視されていることになど気付いていない。前の車からはバックミラー越しに後続車の内部を窺うことができるが、後ろの車から前の車の運転手を見ることなどできないからだ。
私に見られていることなどつゆ知らず、男はハンドルから手を離して背筋をのばしたり、首を左右に曲げて凝りをほぐしている。私が信号待ちをしているときによくやる仕種だった。そして男は助手席のあたりを何やらごそごそとまさぐったかと思うと、煙草を取り出し、一本くわえる。
パッケージを一目見て血の気が引いた。マイルドセブン。それと同じものが今、助手席に脱いである私の背広の上着にも入っている――。
不意にクラクションを鳴らされて、文字通り飛び上がりそうになった。知らぬ間に信号が青になっていた。慌てて発車させたものの、どうしても後ろの男が気になって仕方ない。
他人の空似といえば事は簡単だ。自慢じゃないが私の顔はさほど特徴のない地味な造作をしているし、白いワイシャツにネクタイといった格好も極めてありふれた会社員の服装だ。短めに刈った髪型も特別珍奇なものではないし、マイルドセブンを吸う男などそこらにいくらでもいるだろう。
だがそれら「ありふれた」要素全てを備えた男がごく近い距離に二人いるとなると、話は少々変わってくる。
――男は私のドッペルゲンガーなのではないか?
ドッペルゲンガー、自分とそっくりの誰か。古今東西、枚挙にいとまのない怪異譚だ。瓜二つの人間に出会うというだけなら奇妙な話で済むのだろうが、この話には不気味なバリエーションもある。ドッペルゲンガーに出会った者はいずれ遠からぬうちに死んでしまうというものだ。たしか作家の芥川龍之介も、自分とそっくりの人間を見た後、ほどなく自殺してしまったという話だ。
ただでさえ気味の悪いところへもって、ドッペルゲンガーの不吉な物語を思い出してしまったものだから、私は一刻も早く、この奇妙な後続車と道を別れてしまいたいと思ったのだが、相変わらず男は後からついてくる。そういえば、男が運転しているのはスズキの軽自動車。私が会社から支給された営業車と同じ車種、同じ色だ。さすがにナンバープレートは違うが、それを除けば全くといってよいほど同じに見える。
私はちらちらと神経質に後方を窺う。いったいいつまでついてくるのだろうか。だがいくつもの交差点を通過し、三叉路を分かれ、丁字路を折れても、依然、男の車はバックミラーの中にあった。途中何度か他の車に割り込まれることはあったが、しばらく走っているうちに、いつしか男は私の後ろについているのである。
どうもこれはおかしい。ひょっとして追跡されているのではないだろうか。そんな疑念が頭をよぎる。玩具メーカーに勤める一介の営業マンを追跡したところで、何か得があるとも思えないが、それにしたってもう三十分もこうやって我々は前後に並んで走り続けているのだ。
もちろん単なる偶然ということもあり得る。だが偶然だろうが何だろうが、私はこの成り行きがひどく不快で薄気味悪く思っているのだ。それどころか後ろにばかり気を取られ、危ういタイミングでブレーキを踏んだこともあった。このままでは事故を起こしかねない。
道路の左側にコンビニエンスストアが見えたのを幸いに、私はウィンカーも点けずに駐車場に乗り入れた。もし男が私を追跡するつもりなら、同じく私にならってコンビニへ立ち寄るだろう。そのまま素通りしたならば、少なくとも私の後を追おうという意図は薄いはずだ。
固唾を呑んで見守る私の前を、男の車はあっけなく通過し、道路をそのまま北上していった。拍子抜けしたような、しかしほっとしたような奇妙な気持ちが混淆し、私はひとつ苦笑を漏らす。そりゃあ自分に似た男ぐらいいるだろうし、そいつが同じ方向へ車を走らせることだってあるだろう。それなのにいい齢をした大人が「ドッペルゲンガー」だの何だのと、何をびくびくしているのだろうかと、自分でもおかしくなった。
せっかくだからコンビニへ入り、ペットボトルの烏龍茶と残りわずかになっていたマイルドセブンを買って、再び公道へ乗り出した。この先から徐々に交通量も減って、やがて県北へ続く、片側一車線のだらだらと長い一本道へ入る。これからしばらくは渋滞や赤信号に阻まれることなく、快適なペースでアクセルを踏むことができるだろう。
十分ばかり走り続け、ようやく山間の一本道にさしかかるというところで、私はガソリンタンクの計量器に目を遣る。何度もこの道を往復している私は、ここから先は山を抜けるまでガソリンスタンドがないことを知っている。給油するなら今のうちだが、大丈夫、充分な残量だ。
ガソリンスタンドを素通りし、いよいよ峠道へ差し掛かろうとしたとき、またしても私の視線はバックミラーに釘付けになった。同時に戦慄と悪寒が肌を這いのぼる。バックミラーの中、ガソリンスタンドで給油を終えたスズキの白い軽自動車は、今まさに山越えの峠道へ乗り出そうとしているところだった。
一縷の望みにすがって私は車の速度を落とす。ありふれた車種だ。何もあいつと決まった訳じゃない。
制限速度50キロのところを30キロまで減速した。
あっという間に車間距離が縮まる。ようやくナンバープレートが読み取れるまで近付いて、私の不安は的中した。前方に向けていらだたしげな視線を向ける運転手は、たしかに私にそっくりな顔をしている。
畜生、もう逃げられない。ここからは一本道。右折左折で道を変える術などないのだ。
私は思いきりアクセルを踏み込んだ。今の私には他に良案がなかった。ただ男を引き離すのみだ。
エンジンの喘ぎ声も意に介さず、ベタ踏みで上り坂をぐんぐん加速する。もし警察がいたら問答無用でしょっ引かれるほどの速度違反だ。だが男も劣らずアクセルを踏み、エンジンに容赦ない鞭をくれて私の尻に追いすがる。
適度な車間距離を取っているものの、依然男の車はバックミラーの中にあって、常に私に不気味な重圧を加えてくる。一本道ゆえに進入してくる車もなく、男は悠々と私の後ろ姿を見据えたままで、私を追跡できるわけだが、仮に曲がり角があったとしても同じことだ。私が右へ曲がれば、男も右に従うのだろうし、私が左に折れたなら、やはり男も左へ進路を取るのだろう――。
と、不意に解決法を思いついた。
なぜこんなにも簡単なことに気付かなかったのだろうと我ながら呆れ果てる。
左にウィンカーを出して路肩に寄せる。停車し、ハザードランプを明滅させた。センターラインをはみ出して、男の車が私を追い越していく。それを見届けると、今度は置いて行かれぬように、急いで私も発車した。
要するに、男を先に行かせば済む話なのだ。そして付かず離れずの距離を保ったまま一本道を抜け、交差点に出たら最後、男の取った進路とは別方向へハンドルを切ればそれで終わりだ。まさか引き返してくるわけにも行かないだろうし、仮にそうしたとしてもこちらが逃げ切る時間は充分に稼げる。
立場が逆転した。男が前、そして追跡するのは私の方だ。唯一の懸念は、男も私がやったように停車し、私を先に行かせるのではないかということだけだったが、それならそれで、こちらも停車すれば良いだけのことだ。このレースは背後を奪った方が勝ちなのだ。どうあってもこの有利なポジションを譲るわけにはいかない。
私の意図を知ってか知らずか、男の軽自動車は快適な速度で山道を疾走する。その尻を猟犬のような剽悍さでもって追尾する私。先に行かすのはいいが、振り切られたら元も子もない。男がどちらへ進むのか、常に確認しておく必要があるからだ。
十五分ばかりそうしていただろうか。男の後尾灯が赤く光る。何故こんな一本道でブレーキを? ひょっとして私の背後を取ろうというつもりではあるまいか。緊張が私の頬を強張らせた。
だが杞憂だった。単に土砂崩れが道路にはみ出して、片側交互通行になっていただけのことだった。臨時に設置された信号機の前で、男は律儀に停車している。その真後ろにぴたりとつけて、私も赤信号が切り替わるのを待った。
信号が切り替わるまでの数十秒は案外長い。その間一度や二度、運転手はバックミラーで後ろの様子を窺うはずだ。
それを見越して私は挑発的な視線を前方に向ける。
――どうだい、同じ顔の奴にぴったり張り付かれるのは嫌なものだろう?
主客逆転した今の状況が実に愉快だった。こちらからは見えない男に向かって私は獰猛な笑みを向けた。ドッペルゲンガーに出会って慌てふためく者は大勢いるが、逆に出し抜いてやった者などいるのだろうか。そう思うと愉快でならず、視線は前に見据えたままゲラゲラと笑いが溢れるに任せた。
信号が青に替わる。男の後尾灯が消え、ゆるゆると発進した。私も後を追う。崩れた土砂を迂回して、再びもとの車線に戻った途端、男の軽自動車は脱兎のごとき加速を見せた。振り切るつもりか、あの野郎。
慌てて私もアクセルを踏む。急激な負荷にエンジンが悲鳴を上げた。
60、70、80、90――。速度計の針が真上へ向かって弧を描く。先ほど自分がやった速度超過のことなど棚に上げて、私は男の加速に不安を抱く。
おいおい、いくら交通量が少ないとはいえ、ここは一般道路だぞ。それにここから先は曲がりくねった下り坂になるのだ。そんなに飛ばしたら危ないだろう。
だが男は一向に速度を緩める気配がない。それどころか私が同じ程度に速度を上げれば、更にアクセルを踏み込んでくる。
100、110、120――。
くそったれ、そういうことか。察しがついた。
私を死に追い立てることができないものだから、先に立って私を死に牽引しようとしているのだ、あの男は。逆手に取って追尾する私の腕を更にねじ上げて、私を危険な曲がり角に導こうとしているのだ。
どうする、奴の挑発に乗るべきか? それともすごすごと減速して、視界から消えた奴の影にびくびくしながらこの道のりを辿るのか?
しばらく悩んで、後者に決めた。当たり前だ。むきになって命を危険に晒すなど馬鹿げた振る舞いだろう。それにもう限界だった。下り坂の加速も相まって、車内には速度超過の警告音がやかましく鳴り響いている。この速度で急なカーブを曲がりきれる自信はない。
解放感に充たされながら、私はアクセルから足を放し、一抹の敗北感を味わいながらブレーキペダルに足を置いた。死神相手に一か八かの勝負をするのは愚かなことだ。引き分けで済むならそれに越したことはない。
見る見るうちに遠ざかっていく白い軽自動車。左に弧を描いた山道を危険な速度で消えて―――。
と視界の端で、ドッペルゲンガーを乗せた車が尻を振った。大きく対向車線にはみ出すと、くるくるとコマのように回転し、コンクリートで舗装された山肌に激突し、そして止まった。一瞬のことだった。
これ以上ないというくらいの慎重さで減速し、私は大破した軽自動車に近付いた。車体の前半分がぺしゃんこに潰れている。運転席を覗き込む勇気はなかった。自分そっくりの無惨な死体など目にもしたくない。
しばらくはぼんやり眺めていただけだった。あまりにも意外な結末に、何をしてよいか判らなかった。私は震える指でマイルドセブンを口に運び、やけに揺れるライターの炎で火を点けた。ぶるぶる震える紙巻き煙草から、落とす気もないのにぽろぽろと灰が落ちる。
ああ、なるほど。合点がいった。
私にとってこの男がそうであったかもしれないように、この男にとっての私はまさしくドッペルゲンガー、死の先触れを告げる者だったのだ。私が市街地の交差点で背後の男に怯えたように、あの片側通行の信号待ちで、男は背後に死神の哄笑を見たに違いない。
私の頭がクラクラするのは、深く吸い込んだ煙草の作用によるものばかりではない。
「なるほど、なるほど」
私は意味もなく呟き続け、いま何をすべきかを考えた。
煙草一本を灰にして、更にもう一本を灰にして、ようやく私は携帯電話を取り出した。
偶然道のりを同じくした、気の毒な男の死を通報し、県警のパトカーが到着するまでむやみやたらに煙草を吸った。事故の状況以外には、事情聴取で答えられることなど何もなかった。私はあの男のことなど何も知らないのだ。名前も、職業も、正確な年齢も知らない。
ただひとつ、生前の彼は私にそっくりだったということのみが私の知る全てだったが、それは話しても意味のないことだ。
私によく似た、しかし見知らぬ誰かが死んでいる。
それ以外に私の知っていることなど何もない。
了