なつやすみのとも
私がこの病に罹るのは今回が初めてではない。過去何度も同様の症状に見舞われ、しかしその都度、命冥加に生きながらえてきた。だが今度ばかりはだめだろう。私はすでに充分に生き、相当に年老いた。この病を乗り切る体力があるとも思えず、そして何にもまして私自身が抱いているこの違和感、焦燥感。それはどんな言葉よりも雄弁に私に語りかける。
もうじき私は死ぬ。その他大勢の者がそうであったように、私もこの世界にお別れを告げることになる。信心深い者がいう「天国」、天寿を全うした者だけに許された、ここではないどこかへ旅立つ日が近付いたのである。
発熱、全身の痒み、抑え難い空腹感。その後にやってくる倦怠感と強烈な眠気。皮膚は醜く腫れ上がり、身体機能も著しく低下し、やがて昏睡状態へ陥る――。
だがこの病は高齢者特有のものではない。幼少時に発病し、青年期にも罹病し、壮年期であっても襲いくる災厄だ。そのため我々は、この病に罹ることをある種の慶事として受け止めているのも事実である。不幸にも命を落とす者がいないではないが、しかしこの病を無事克服することは、子供が若者へ、若者が成年者になる通過儀礼と見なされているのである。
では高齢者が罹病したならば、いったい何へ向けて通過するのだろうかというと、それはもう生を通過し、死へ向かうという以外にない。幼少期に別れを告げて青年期へ突入するように、我々はこの生を脱ぎ捨て、まだ見ぬ、そして誰も知らぬ新たな世界へ向かって旅立つのである。
旅立つという言葉は比喩ではない。発病し、自分の死期を悟った高齢者は、その言葉通り、体の自由が利くうちに旅立ちの準備を始める。例外なく皆が皆、長年住み慣れたこの地を離れ、どことも知れない場所へ向かって旅立つのである。そして旅立ったが最後、決して戻ってくることはない。
誰に強制されるでもなく、しかし全員が自ら死の門出に就くというこの事実はたいそう奇妙なことだといわざるを得ない。それまでは信心のかけらも持ち合わせていなかったような者でさえ、年老いた末に病に罹ると、突然発心し、病に打ちのめされた体を引きずって天国への旅に出るのである。彼らに理由を尋ねても「往かなければならないような気がする」「誰かに呼ばれているような気がする」などと要領の得ない返事ばかりである。
なぜ彼らは旅立つのだろう、いったいどこへ往くのだろう――。
青年時代の私は常にその疑問を抱きながらも、しかし日々の生活に隷従し、いつしか考えることを止めていた。死とは何か、天国とはどんな場所か。それは実際に死んでみない限り、いくら考えても答えの出ない命題だからだ。
だがとうとう私も老いた。
死期を迎えたこの私、老いぼれであるこの私ならば、死の形を目の当たりにする資格も充分であろう。幸いなことに私の身にも、その他の高齢者と同じ症例が顕れている。どうやら私も天国行きの資格を得たと考えて良さそうだ。
旅立ちにあたって住まいを引き払い、親しい者に挨拶を済ませ、捗らない足取りで出発したものの、すぐに私は当惑する。いったいどこへ往けばよいのだろう。私に先立って死んでいった者たちは、何を頼りに脚を進め、何を目指して歩みを続けたのだろうか。
それにしても、死というのは実に奇妙な概念である。誰もが確実に経験する出来事でありながら、誰もがその真相を知らないままに過ごしている。
しかしながら我々は解らないものを解らないままにしておくことのできない生き物でもある。理解不能、認識不可能の死という現象に対しても同様で、何らかの仮説を用意し、やがては何の確証もないままに、それを真実だと信じるようになる。
ある者は「死ねば全て終わり、何もかも消える」という。彼らの論拠となっているのは、事故や怪我などの突発的な外因によって、やむなく生を中断せざるを得なかった者のその後である。不幸な死に見舞われた後、そこには動かなくなった骸が残される。骸は徐々に朽ち果て、時間の凌辱するに任せてやがて消滅し、土へ還る。それと同じように、どこかへ旅立った者も、誰もいないところでひっそりと息絶え、消滅しているのだという論である。
その一方で死後我々は「天国という別世界へ赴き、そこで新たな生を送る」と力説する者もある。我々は物心ついたときにはすでにこの地にあり、生を受けていた、いわば“気が付いたら生まれていた”存在である。だがごく稀に、生まれる前の記憶を持つ者もいるという。彼らの弁によれば、我々はまず天国に生まれ、魂の修行を積むためにこの地にやってきたのだというのである。そして生を全うし、充分に修行を積んだ者だけが再び天国へ戻り、新たな生を営むのだという。だから死期を悟った者は、たとえ記憶になくとも、魂がそれを憶えているからこそ、唐突にこの地を離れ、どことも知れないままに旅立つのである、と論じる。
消滅論と天国論、そのいずれが正しいのか、あるいは全く違った真実があるのか、凡夫たる私に判断が付くはずもない。それぞれの持論を信奉する連中も何らかの確証を持っているわけではない。消滅論は卑近な状況から演繹された仮説に過ぎず、天国論は「末期の旅」という習性を説明するために用意された方便、希望的側面も強い。
つまり死に関する事柄についていえば、我々は惨めなほどに無知なのだ。死そのものは言わずもがな、死に向かう我々の旅程すら、どういう過程を辿っているのか知る者はいない。
死期を悟った者は旅に出る。だがその往く先はどこなのだろう。
その答えとして天国という場所を想定したのだろうが、それも確かに理のあることだ。旅立った者の亡骸はついぞ発見されたことがないからである。天国論者は、別の場所に行ったのだから遺体がないのは当然だと説く。だが一方の消滅論者の言うことにも理がある。死ねば全て消失するのだから、その亡骸が見つかるはずがない、と言うのである。
死とは何か。死ねばどうなるのか――。
ごく近いうちに死ぬであろうこの私であっても、まだその答えをつかめないでいる。死に臨んで、ただ私は自分の身に起こることのみを見つめるしかないのである。それは他者の死とは全く様相の違うものかもしれないが、私にとっての死はひとつしかあり得ず、それが唯一無二である限りは、それこそが私にとっての真実なのだ。
旅を続けるうちにも体の強ばりはいや増しに増し、疲労が全身を打ちのめす。正直なところをいえば、一歩足を前に出すのも億劫なのだ。それでありながら、歩みを止めようという気にはなれない。それどころか足の重さに反比例するように、本能とでもいうべき底暗い心の奥深くから、何かが私を急き立てる。
頭では理屈に合わないことだと解っている。この道の先に何があるかも判らないというのに、どうしてそちらへ進まねばならないと確信しているのか。無謀といえばあまりに無謀だ。
しかし、ちっぽけな理性の囁きになど耳も貸さず、私の脚は狂信者の情熱に駆られてなおも前に進む。とどめられない大きな力、抑え難い強い欲求。私の体に刻み込まれた何か。生まれる前から決められた事柄。死に瀕するまで意識すらしなかった何かが目覚め、発動する。
更に前へ、もっと先へ――。
いよいよ私は恐ろしくなった。消えて無くなるのが恐ろしいのではない。死という未知の世界へ赴く不安でもない。何か、皆目見当のつかない巨大な力が、私の意思を越えて、私の行動を支配していることに気付いたからだ。
なぜかは判らないが、私は前へと進む。もう動けないほどにくたびれ果てたこの体を、その何者かが叱咤し、鞭打ち、もう一歩、更にもう一歩と急き立てる。疲労に耐えかねてその場にうずくまっていても、じきにひどい息苦しさを覚えて、また歩き出さずにはいられない。
もはや私の体は私のものではない。当惑する魂を載せたこの体は私の意思を離れ、何者かの声に応えるように前へ進み続ける。死んで全てが消えるというのなら、こんな苦労をするはずがない。誰かが呼ぶから私は進むのだ。どこかに何かがあり、それが私を誘うから、私はそちらへと吸い寄せられ――。
この世の終わりは突如として訪れた。生と死の境を突破するにはたった一歩で充分だった。その一歩で私を取り巻く世界が一変した。
最初に知覚したのは強烈なまばゆさ。続いて私を不安にさせる肌寒さ。しばしのあいだ、私はその場に立ち竦んでいた。だが目が明るさに慣れ、肌寒さに馴染むまでにはさほどの時間を必要としなかった。
そこは実に明朗で、広々と伸びやかな場所だった。それまで様々に語られてきた天国の状景など比肩すべくもない。
そこは陳腐な言葉では描写できない、実に素晴らしい世界だ。
ああ、叶うことなら天国の様子を仲間たちに伝えたい。天国の有り様を知れば、誰も死を恐れはしないだろう。天国に較べれば、我々がそれまで暮らしていた場所など、重苦しく、真っ暗闇の、せせこましい穴蔵でしかない。
今の私なら確信をもって言える。生とは死の準備期間に過ぎないのだと。そして死とは本当の生の幕開けなのだと。
生の束縛から解き放たれた私の体は実に軽やかだった。有頂天の私は更に前へ進むが、もうあの鈍い足取りではない。病によって醜く腫れ上がった体を脱ぎ捨てれば、もはや私は完全に自由だった。
かつて自分であった肉体が足許へうずくまっている。今の私には不要なものだ。なぜなら私は新しい体を手に入れたのだ。今までとよく似た、しかしもっと素晴らしい肉体である。特筆すべきは背中に生えた四枚の羽根。
誰に教えられたわけでもないのに私は知っている。背中に力を込めれば、力強く羽ばたいたそれが、私を遠くまで運ぶのだ。
「私は自由だっ」
高ぶる感情を抑えきれず、私は大声で叫んだ。するとどこかから、それに応える誰かの声。
「俺たちは自由だ!」
私と同じく、天国にやってきた者だった。
そうだ、私たちは自由になったのだ。生の呪縛から離れ、鈍重な肉体を脱ぎ捨て、光溢れる世界の一員となったのである。
「我々は自由だっ!」
私の叫びは周囲を巻き込み、一斉に歓喜の歌声へと変わっていく。
「自由、自由、自由――」
ほとばしり出る歓び。
――本当の生はこれから始まる。
その予感と確信に私たちは震え、胸も裂けんばかりに歌い続けた。
我々は自由だ、と。
*
「あっちゃん、これ何?」
二歳下の従弟が指差しているのはセミの抜け殻である。篤宏にしてみれば何ということもない代物だが、都会っ子の翔太には物珍しいのだろう。ブロック塀にへばりついている唐揚げ色の抜け殻をしげしげと眺めている。
「セミだよ、セミの抜け殻」
「中身はどこへ行ったの?」
「さあ、そこらで鳴いてる奴のどれかじゃない?」
ふうん、と言いつつ抜け殻に手を伸ばし、はたと気付いたように翔太が言う。
「噛まない?」
「噛むわけないだろ。それ、抜け殻だぞ」
「あ、そっか」
安心した翔太はブロック塀から抜け殻を引き剥がす。
「ちょーかっこいいねぇ」
「そうか?」
「うん、メカっぽい」
言われてみれば、セミの抜け殻はロボットのような造形をしている。機械っぽいと言われればそんな気もする。
「これ、もらってもいい?」
「いいんじゃねぇ? セミだって返せとは言わないよ、たぶん」
我ながら洒落た台詞だと思ったのだが、翔太は掌に載せた抜け殻に夢中の様子だった。
「そんなもん持って帰ってどうすんの?」
「学校に持っていくんだ」
毎年お盆になると、東京から翔太たちがやってくる。三人兄弟の末っ子である篤宏にしてみれば、二歳下の翔太は兄貴面のできる唯一の相手だ。そんな翔太に対して、もう少し良いところを見せたいと思った篤宏は、
「そんならさ、もっと良いもの採りに行こうぜ。カブトとかクワガタとか」
「ほんと? ヒラタとかいるの?」
「ヒラタは滅多にいないけどな。ミヤマとかノコはいっぱいいるし、カブトなんかは夜になったら飛んでくるぞ。あいつら夜行性だからな。夜、部屋の電気をつけてたら、勝手に網戸にぶつかってくる」
行こう行こう、と小躍りする翔太。
まあ慌てるな、とベテランの余裕を見せて、虫採りの支度をするのも満更ではない。
「何事にも準備が必要だ」
捕虫網に虫かごを用意し、虫除けのスプレーを体に振りかける。頭には麦わら帽子。肩から斜めに掛けた水筒には冷えた麦茶。目指す先は裏山の雑木林だ。昼間、甲虫の活動は低下するが、クヌギのうろや朽ち木の下をほじくれば、従弟を満足させるに足るくらいの収穫はあるだろう。
だが、いざ出発という段になって、彼らの格好を見咎めた曾祖母が口を挟む。
「こりゃ、お前ら。どこに行きよるんじゃ」
方言丸出しの弁に篤宏は顔をしかめた。普段は彼も方言で話しているのだが、なぜか翔太と一緒にいるときは努めて標準語を話してしまう。
「虫採りだよ」
ぶっきらぼうに答えたら、
「あほう、盆に殺生するな、罰当たりが」
訳も分からずに叱られて、翔太はおろおろしている。
恥をかかされた格好になって、むっとする篤宏。
「何でお盆に虫採りしたらいけんのじゃ?」
「当たり前じゃろが。盆は死んだご先祖様が還ってくる時期じゃ。お前らの採ったセミやらバッタやらが、死んだじいさまやったらどうするんじゃ?」
あほくさ、と殊更に篤宏は芝居じみた所作をする。ここで引き下がっては面子が立たない。
「ほんなら何でお盆に墓参りするんじゃ? じいさんがバッタなら墓には誰がおるんじゃ?」
曾祖母が言葉に詰まったのを見て、勝機と感じた篤宏はなおも続けた。
「毎日線香をあげとる仏壇にもじいさんがおる言うし、お盆には墓にもおる言うし、バッタやらセミやらもじいさんかも知れん言うし。ほんまのところはどうなんやら、ぼくにはわけがわからんわ」
半分は憎まれ口だが、もう半分は本音だった。年寄り連中の語る信心の話は、どうも腑に落ちない点が多すぎると常々思っていたのである。
口だけは達者になって、とぼやく曾祖母の声に耳など貸さず、篤宏は振り向きもせずに、
「さ、行こや、翔太――」
言い捨てて駆け出した。これ以上、年寄りの妄言に付き合ってはいられない
棚田の境目を九十九折りのように縫うあぜ道。息切れもせずに駆け上る篤宏。揺れる水筒が腰にぶつかるのも意に介さない。
「待ってよ、あっちゃーん」
振り向くと、まだ翔太は遙か下にいた。学校のサッカーチームに所属している翔太といえど、整地もされていない細いあぜ道を駆け上るのに難儀している。視線を足許に落とし、転ばないように走るので精一杯なのだ。
ようやく追いついた翔太。さすがに普段グラウンドを走り回っているだけのことはあって息を切らせてはいない。
だが表情はひどく不安げだった。
「ねえ、ほんとに大丈夫なの?」
「何が?」
「ひいおばあちゃんの言ってたこと、本当かな? 罰が当たるってあれでしょ、呪いみたいなやつでしょ?」
真剣な顔つきの従弟を見て、思わず篤宏は吹き出した。
「あははは、なに言うとるんじゃ」
真顔の翔太が可笑しくて、篤宏は腹を抱えて笑う。いまのご時世に罰当たりだの呪いだのと、時代錯誤も甚だしい。
「あのなあ、翔太。あんなの本気にしたらいかんで」
「え、でも――」
「ええか、翔太」
成績優秀で運動も得意、そのうえ都会育ちの従弟とあれば、劣等感を刺激されてもおかしくはない。なのに篤宏が引け目を感じることもなく、翔太をかわいい弟分として遇していられるのは、たぶんこういう子供じみたところに隙があるからなのだろう。
「どんな年寄りでも死んだ後の事なんかわかるわけないじゃろ。お坊さんも神父さんもおんなじじゃ。そう言われとるいうだけのことで、誰もほんまのことは知らんよ」
だってそうじゃろ、と篤宏は至極当然のこととして続ける。
「生きとる人間は、誰も死んだことがないんやで。死んだ後のことを知っとる道理がないじゃろ」
篤宏自身、乱暴な意見だとは思う。だが誰も本当のことを知らないのなら、それは何も知らないのと同じ事だし、どうあっても確認する方法のない話をいちいち真に受けていてはきりがないというものだ。
「――さ、行こう」
夏場になると、男の子は昆虫の魅力に取り憑かれる。損得勘定抜きで、ただただ虫を採りに行く。それは男の子として生まれた本能のようなもので、たとえ獲物を自慢する友人がいなかったとしても、やはり夏の少年は捕虫網を手に執らずにはいられない。
だが今年の篤宏はいまいち気が乗らないのだ。確かにクワガタの無骨で戦闘的なボディや、カブトムシの力強くも優美なフォルムを美しいとは思うのだが、かつてのようなときめきはない。年下の従弟を喜ばそうという思いがなければ、今頃はクーラーの利いた部屋で漫画でも読んでいただろう。
それはそうだ、と篤宏は思う。
僕は今年で十二歳。もう子供じゃないのだ。
雑木林に近付くと、ますます蝉時雨がやかましい。
「あっちゃん、あれは何ていうセミ?」
ジュウジュウと盛んに胸をふるわせる、カメムシ目セミ上科の群。
「アブラゼミ」
四年も五年も地中に潜って暮らし、最期の一週間ばかりを陽の下で暮らすこの生き物のことを思うと、篤宏はちょっと不思議な気持ちになる。
土の中に棲んでいるとき、果たしてセミは、自分たちが地面に這い出して、青い空の下、鮮やかな緑の世界を飛び回ると知っているのだろうか。今までとは全く違う世界で、全く違った暮らしをすると、彼らは予見しているのだろうか。
しかしセミの気持ちなど彼に理解できるはずもなく、セミの世界観を人間の彼が知る手立てもない。ただ、長い雌伏の時を過ごしたのちに訪れた、ほんの短い成虫時代を捕虫網で終止符を打つ――。そう考えると何やら後ろめたい思いがしないでもないが、それはそれ、これはこれだ。
夏になると男の子は虫を採る。
それは砂漠の預言者や救世主、インドの解脱者らが教えを説くずっと以前に、すでに遺伝子に刷り込まれた原始の本能なのだ。到底言葉で押し止められるものではない。
「しっかし暑いなぁ」
誰にともなく呟く篤宏。
――さっさと虫を採ったら家に戻ろう。
そう思ってしまう彼は十二歳。
篤宏の子供時代はもうじき終わろうとしている。
了