わがままドライバー

 


 今まさに、対向車線の車がUターンして、こちらの車線へ移ろうとしているのが見えた。まだ充分に距離はある。速度を落とせば何の支障もなく、こちらの車線へ入れてやることもできるのだ。
 しかし光山のとった行動は違った。
“ブーーーー”
“ブッ、ブブブッ”
“ブーーーーーーーー”
 えげつないほど大袈裟にクラクションを鳴らす光山。その音に躊躇し、センターラインをまたいで横ざまに停まった車の鼻先を、減速もせずに擦り抜けていく。
「ちょろちょろすんな、ボケ」
 独りの車中で吐き捨てる光山。平素の彼を知る者が見ればその豹変ぶりに目を剥くことだろう。普段は寡黙で陰鬱な、極めて目立たない男なのだ。しかしハンドルを握ると人が変わる。身勝手で傍若無人な運転をし、それを何とも思わないわがままドライバーに変貌するのだ。
 とはいえ彼は暴走行為に喜びを見出す輩でもなければ、更なるスピードや危険なカーブに恍惚を覚える類の人種でもない。だから制限速度を遵守しのんびり走る車に舌打ちをする一方で、素晴らしい加速で彼を抜き去るスポーツカーに対しては競争心を燃やすこともなく、「あほうが、警察にでも捕まっちまえ」と毒突くのが常だ。
 つまり全てが彼基準、ただただ自己中心的なドライバーなのだ。彼より遅くても駄目、彼より速くても気に食わない。そして彼と同じ速度で併走する車に対しては、抜くのか下がるのかはっきりしろと苛立つのだから、手前勝手というよりほかはない。
 そんな調子だから彼が快適なドライブを楽しめる機会は滅多にない。例に洩れず、いま現在の彼もいらいらとハンドルを握っているところだった。片側一車線の道路に入ってからずっと(ものの一分ほどなのだが)彼の目の前を軽トラックがとろとろと走っているからである。
 制限速度時速40キロの道路を律儀に40キロで走る「道徳的」かつ「非常識」な先行車に彼の苛立ちはつのる一方だった。先刻から軽トラックの尻に鼻をこすりつけるようにして、早く行けよ、とあおり続けているのだが、気付いているのかいないのか、相変わらず空の荷台をがたがたいわせながら、軽トラックはきっちり法定速度で走行を続けている。こんなとき、普段の彼なら対向車線にはみ出して強引に抜き去るところだが、今日に限ってはなぜだか反対側の交通量が多く、その隙が見出せない。
 彼を苛立たせているのはそれだけではなかった。ふとバックミラーに目を遣れば、黒の軽自動車がぐんぐん接近してきているのである。
 ほんの数秒後には、黒い軽自動車はバックミラーの大半を占めるまでに近付いてきていた。ミラー越しに見遣った後ろのドライバーはまだ二十歳そこそこの若い女。凹凸の少ない顔立ちに不似合いな金髪。その風貌からは洒落た印象など微塵も感じ取れず、ただただ育ちの悪さばかりが滲み出ている類の女である。
 ダッシュボードに鈴なりのぬいぐるみに埋もれるような女の、あからさまに苛立った表情が更に光山を不愉快にさせていた。これではまるで俺があおられている格好じゃないか。
 それに加えて、黒いボンネットに張り付けてある若葉マーク。
 あろう事か、初心者ドライバーにあおられているのだ。
 何たる不名誉な事態か。それもこれも全て、前を走るこいつのせいなのだと、憎々しげな視線でにらみつけた軽トラックのブレーキランプが赤く光る。慌てて減速する光山。当然、罵声のおまけ付きだ。もとはといえばそこまで近付いていた彼の方に問題はあるのだが、自分勝手な人間は往々にして、他人の事情を斟酌せず、自分の行為をかえりみない。
 急ブレーキ(あくまでも光山はそう感じていた)を踏んだ軽トラック。よく見れば左へウインカーを出していた。ゆるゆると速度を落とした荷台が左へ曲がっていくと、ようやく光山の苛立ちも緩和された。
 アクセルをぐいと踏み込む。不快に接近する鬱陶しい後続車と距離をとるつもりだった。もちろんそこには、普段自分が他人に対してやっている行為だという認識はない。ただただ背後の無礼者に腹を立て、その危険な走行をする無思慮なドライバーを引き離してしまいたかった。
 中古で購入した上に、すでに八年以上も乗り続けている彼の普通車はいい加減くたびれ気味になっている。急な加速をおこなうとエンジンが喘息のような音を洩らすのだ。だがそんなことを気にする光山ではない。
 彼はまめに車の世話をする「愛車家」ではなかった。洗車は半年に一度するかしないかのていたらくで、ましてやメンテナンスなど車検のときにしか気に懸けない。そのくせ乱暴な運転をするものだから、彼の気付かぬ間にも、前後のバンパーにはいくつもの傷やへこみが生じたままになっている。
 だがおんぼろとはいえ、さすがに普通車と軽自動車では加速力に差がある。一時の間に後続の若葉マークを引き離すと、ようやくひと心地ついた光山は煙草をくわえた。半分ほど灰にしたところで煙草の味にも飽きたので、窓を開け、火のついたままの煙草を投げ捨てる。
 だが窓を閉め、再び前に向き直ると、バックミラーにあの黒い軽自動車の姿があった。それもかなり大きい。ずいぶん近くまで詰めてきている。
 速度計に目を遣る。時速70キロ超。決してのろのろ走っているわけではない。なのに何をあおってきているのだ、あの馬鹿女は。
「高速道路じゃねえんだぞ」
 もちろんそんな言葉が後ろの女に届くはずもなく、まるで尻のにおいを嗅ぐような格好で追いすがってくるのである。
 普段この道を利用する光山は、この先の交差点で、白バイに停止を命じられている車をよく見かけたものだ。あおられたからといって馬鹿みたいに飛ばせば反則切符を切られるのが落ちだ。ただでさえたびたび速度超過や進入禁止で捕まっている彼としては、もうあまり点数に余裕がないのである。
 だが光山の事情を後ろの運転手が知る由もない。若葉マークをつけたままの新人ドライバーは、尻に噛みつかんばかりに詰めてくる。
 そしてついには、
“プーー、プッ、プッ、プッ、プーーー”
 玩具みたいなクラクションがけたたましく鳴らされた。
 心の狭い「わがままドライバー」光山が、この無礼な仕打ちに平静でいられるはずがなかった。
 自己中心的な人間は例外なく怒りっぽい。自分の意に染まない事態に出くわせば、それはイコール相手が悪いのだと、疑いもせずに感情を沸騰させる生き物である。ましてやこの場合、彼は微塵も悪くないのだから怒り狂うのも当然だった。
 確かに光山の受けた仕打ちは不当なものだ。なぜなら彼は時速30キロオーバーという、充分な速度超過を犯しているのである。その彼に対して、早く行け、もっと速度を上げろと促すのは、全くもって理不尽な要求に違いない。
「くそガキが」
 安物だがぴかぴかの軽自動車。免許取り立てで、買ったばかりの新車に浮かれているのだろう。
“スピードの出し過ぎ――”
“カーブを曲がりきれず――”
“運転手は先日免許を取得したばかり――”
 よく聞くフレーズだ。こういう奴がよく事故を起こすのだと、光山は一人勝手に妄想を盛んにする。
 初心者の分際で調子にのりやがって。馬鹿が事故を起こすのは本人の責任だ。だがこっちまで巻き込むんじゃねえぞ。
 と、ふいに電光のような何かが脳裏に閃いた。
 ――事故?
 無表情に戻る光山。閃きの尻尾を追いかける思考。
 やがてにんまり割れた唇から、ヤニに汚れてトウモロコシのような色になった前歯が覗く。
 いいことを思いついた。
 アクセルを緩め、徐々に減速する光山。更に後ろからクラクションが鳴らされるが、一向にお構いなしだ。
 およそ時速50キロ、これなら速度超過を咎められることもなかろう。誰に対しても申し開きのできる、充分に安全な走行速度だ。
 彼の車は年式にしてもう十年以上も前のものだ。デザインも古びているし、エンジンの調子も悪くなっている。この車に特に愛着があるわけでもなく、そろそろ買い換えたいとは思っていたが、あいにく新車を購入できるだけの貯金がない。
“プー、ププーー、ププ、プーーー”
 あほうが、今に見てろ。一泡吹かせてやるよ。
 先ほどまでの怒りはどこへやら、悪辣な笑みを浮かべた光山は後ろの車との距離を測る。もっとくっつけ、焦れるがいいさ。シートベルトは締めているかい、お嬢ちゃん?
 ぎりぎりまで近接した瞬間に、急ブレーキを踏んでやるつもりだった。なに、この速度なら死亡事故になることもなかろうし、警察沙汰になっても彼に咎めが及ぶことはあるまい。なんせ40キロ道路を50キロで走っているのだから文句を言われる筋合いはない。それに原則として自動車同士の事故ならば、前方不注意、車間距離の詰め過ぎとして、後ろの車に非があるのだ。
 光山は程なくやって来るであろう瞬間に備えて今一度、シートベルトがしっかり装着されているか確認する。もともとエアバッグの装備されていない車だから、シートベルトだけが頼みの綱だが、大丈夫、そこまでの激突にはならないだろう。ただ軽い衝撃でもむち打ちになるという話はよく聞く。ならばそれに備えて身体を堅くしておいた方が良いのだろうか?
 片側一車線の道路で事故を起こせばどうなるものか。道がふさがれ、渋滞を引き起こすのは必至である。だがそこはそれ、さすがはわがままドライバーだ。他人がどのような迷惑をこうむるかなど想像だにしない。彼はただ、身の程知らずの無礼者にきついお灸をすえてやると、その一事のみに凝り固まっているのである。
 なるほどこの思いつきは妙案のように思われた。何しろこちらが責められる可能性は低く、しかも上手くいけば相手の保険金やら何やらで、新車購入の資金を調達できるかもしれないのだ。
 ミラー越しに窺えば、苛立ちの頂点に達している様子の女は、細長い煙草――形状からしてメンソール煙草のようだ――をむやみやたらとふかしている。
 その距離、およそ一メートル。どうあっても衝突は避けられない間隔。だがね、お嬢ちゃん。これは自業自得というものだよ。
 鳥肌立った皮膚を昂奮が這いのぼってくる。
 チャンスはすぐに訪れた。女が備え付きの灰皿で煙草を揉み消し始めたのである。
 当然、視線は下へ向き、意識も疎かになる。
 ――頃合いだ。
 思った瞬間、軽い衝撃が光山を襲った。
 同時に、フロントガラスに黒い影。
 反射的にブレーキを踏む。瞬後、それとほぼ同じタイミングで、がつんと鈍い感触が後部バンパーに伝わる。
 急停止し、車から降りる光山。
 何てこった――。
 突然の事態に何も考えが及ばなかった。
 追突した軽自動車から、女が血相を変えて飛び出してきた。
「おい、何やってんだよ、危ねえじゃねえかっ!」
 およそ若い娘のものとは思えない汚い言葉が、呆然と立ち尽くす光山の背中に浴びせかけられる。
「どうしてくれるんだよ、この傷。この前納車したばっかなんだぞ。聞いてんのかよ、おいっ!」
 金切り声を上げながら背中をどんと突く。彼女もまた免許取り立ての「わがままドライバー」だった。追突した自分にも非があるなどとは考えもしない。ただただ急ブレーキを踏んだ相手を責めるばかりの精神構造だ。
「修理代、弁償しろよな。おい――なにシカトしてんだよ。こっち向けよてめぇ」
 逆上した女の手が光山の肩に掛かる。
 その感触が光山の硬直を解いた。
 振り向きざま、女の顔面をぶん殴る。拳がまともに当たり、女の口から前歯が飛び散った。
「ぎゃあぎゃあうるせえんだよっ!」
 口元を押さえうずくまる女に罵声を浴びせる光山。
「ちょっと黙ってろ、くそガキがっ」
 殴られたショックで口も利けない女には、果たしてそれが見えたかどうか。
 光山の足許には老人が一人倒れ伏していた。耳から血を流したまま身動ぎもしない。少し離れた場所に、盲人用の白い杖が転がっている。
 何てこった――。
 後ろの女を気にするあまり、車道を渡ろうとしていた老人に気がつかなかったのである。
 信じられなかった。まさか自分が人身事故を起こすとは夢にも思わなかった。
「ちくしょう――」
 鈍磨した感情が少しずつ息を吹き返す。じくじくと沸いてくる感情は恐怖でもなければ後悔でもない。
 純然たる憤り。
 ――何で俺がこんな目に遭わねばならないのだ。
「てめえ、女を殴るなんて最低だな。訴えてやるからな!」
 振り向けば、涙声の女が気違いみたいに叫んでいる。
 不思議なもので、怒りが頂点に達すると逆に血の気が引いていくような感覚になる。
 ちょうど今の光山がそれだった。
「――何だと、もういっぺん言ってみろ」
 つかつかと歩み寄る光山の姿を見て、女は小さく悲鳴を洩らした。感情的な人間は後先考えずに行動する。だからその行動がもたらした事態を目の当たりにするまで、自分の行為をかえりみない。
 恐怖に竦み上がる女の髪を乱暴につかむ光山。
「こうなったのも全部てめえのせいじゃねえか。ふざけたこと言ってんじゃねえぞ」
 俺は悪くない。
 それが光山の偽らざる真情だった。
 この女が俺をあおらなければこんな事態にはならなかったはずだ。こいつがあおってくるからじじいの姿に気がつかなかったのだ。第一、このじじいだって悪い。目が見えないというのに車道にふらりと入ってきやがって。こっちにしてみればいい迷惑だ。
 その結果、彼には重大なペナルティが課せられるのだ。免許没収は当然として、交通犯罪者として法に裁かれ、多額の慰謝料を請求される。実に不当じゃないか。俺はただ、普通に車を運転していただけなのに――。
 光山のいる車線では早くも渋滞が形成されていた。いくら経っても動く気配のない車列に、後方から盛んにクラクションが鳴らされる。その音がいっそう光山の神経を逆撫でした。
「うるせえ、見りゃわかんだろうが馬鹿野郎! 事故ってんだよこっちはっ!」
 こっちにはこっちの事情があるというのに、どいつもこいつも勝手なことばかりしやがって――。
 さすがはわがままドライバーの言い条である。
 自分勝手な人間とはつまり、自分以外の勝手を許さない人間ということに尽きる。
「くそったれ」
 いまや光山にとって世界中が憎悪の対象であった。
 彼を急かし立てた女はもちろん、道路に飛び出してきた老人も当然その対象に入る。いや、遡れば彼を苛立たせたあの軽トラックもそうだし、そのトラックを抜かす機会を与えなかった対向車線のドライバーたちも憎々しい。なぜなら、さっさと軽トラックを追い越しておけば、この女にあおられることもなかったし、そうなればこのじじいを撥ね飛ばすこともなかったのだから。
「ああもう、どいつもこいつも」
 ――どうして俺を困らせようとするのだろう。
 彼が世界中に悪態をついているあいだにも、倒れ伏した老人の耳からは静かにしくしくと血が溢れ、鼻血と合流してアスファルトに血溜まりが広がっていく。
 事故が起きてからすでに十分近くが経過していた。しかしいまだにパトカーも救急車もやってくる気配がない。当然である。誰も通報していないのだ。それどころか老人が生きているのか死んでいるのか、その安否を気遣う者すらいなかったが、それもまた当然のことだ。
 なぜなら彼らは「わがまま」ドライバー。
 彼らは自分のことしか考えられない生き物。
 ブレーキを踏む前にクラクションを鳴らす手合いなのだ。

 


 

あとがき
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