笑う人々
今や酋長の後継者問題は、ベニツツジ族の者全てにおいて懸念の因であった。嫡男がいないのである。
部族の夫婦が次から次へと赤子をひり出すのに反して、もともと酋長の血筋は代々寡産の傾向があった。現酋長のアカウシはわずか三人兄妹、跡継ぎとなる男子に至っては彼一人だった。尤もそのために過去、後継者不足に悩まされることは多々あれど、次期酋長の座を得んものと骨肉の争いを演じる機会がなかったのは幸いなことだった。実に平和裡に、部族の者全員の賛同を得て、指導者の交替が成されたのである。
アカウシはもう老境に差し掛かっている。だが大勢の妻妾を所有し、なおかつ彼女等に不満を抱かせない程度には精力的だったにも拘らず、アカウシには一人の娘がいるばかりだった。娘の名はアカツキという。ちなみに一家の子女に赤を連想させる名前を付けるのが酋長宗家の習わしだった。
アカツキは今年で十四になる。ひと月前に妻になれる体になった。酋長に男子がいない以上、必然的に息女のアカツキが婿を迎え、その者を後釜に据えるということで衆議は一致した。だが厄介なのは婿殿の人選である。順当にいけば酋長の甥を婿にするのが適当であるが、そもそもアカツキは遅く産まれた子供であり、親族の青年は皆、既に妻を迎えていた。夫に甲斐性があれば何人妻を所有していても構わないのだが、殊、アカツキとなれば話は別である。まさか酋長の娘を妾にするわけにはいかなかった。
このような次第で酋長の甥御は人選から除外されることとなった。そのためにしばらくの間、甥たちの家では夜な夜な女どもの啜り泣きと、甥御本人の怒鳴り声が聞こえてくることとなった。お前等のせいで酋長になれなかったのだという乱暴な意見を耳にして、従順な女たちはただ涙を流す他なく、その声を聞き付けた隣人たちはただ気の毒に思うより他はなかったのである。
かくしてアカツキの婿選びは混迷の相を呈した。部族の若者のうち最も勇敢な者を選んだらどうかという意見は、酋長及びその親族によって却下された。もしそれが成されれば、部族のうちに酋長家以外の門閥を生むことになるからである。アカツキの婿はどうあっても酋長家の血筋を引いた者でなければならず、加えて勇敢な者であらねばならない。酋長はその二点を頑として譲らず、如何に言を尽くそうとも、到底翻意は望めそうもなかった。
何度も会議が開かれたが一向に結論は見出だせなかった。そこで部族の古老たちは、歩いて三日ばかりの所に棲む、さる高名な占い師の許に出向くことになった。斯く斯く然々と用件を述べ、慇懃に捧げ物を手渡すと、その老婆は勿体ぶった所作で神を迎え、恐れ畏まる客人に神託を伝えた。曰く、婿は西より迎えるが良かろう、なぜなら暁の太陽は西の大地に抱かれるからである、と。
神託を受けて再度会議が開かれた。その席上、一人の老人が発言した。西より迎えるとはおそらくクマバチ族のことであろう、と。彼等の集落から西に半月ばかりの山岳地帯に、クマバチ族と呼ばれる部族が定住していた。クマバチ族の男は武勇に勝れ、殊に弓矢の術は近隣一帯に名高い。加えて遡ること四代前、他部族との抗争の際、ベニツツジ族とクマバチ族は同盟を結び、その証としてベニツツジ族酋長の次女と、クマバチ族酋長の四男との間に婚姻が成されたという過去があった。その血脈を辿ればアカツキに似合いの若者がいるのではなかろうか。
早速使者が派遣された。新月の折りだった。そして下弦の候となり、喜悦する瞳に似た細い月が懸かる夜、使者は戻ってきた。吉報だった。件の家柄に丁度良い若者がいるという。名はスネブト。名が示すとおりの逞しい青年で、齢の頃は二十、猪狩りの巧者である。酋長アカウシはこの報せに大いに喜び、取り急いで婚礼の支度を執り行なった。
クマバチ族から婿入りしたスネブトは背の高い若者だった。肩幅も広く、足も速い。しかし何人かの老人は、スネブトの歯が人並み外れて大きく丈夫なのを看て取って不吉な思いに駆られた。歯が丈夫ということは身体が頑健ということである。だが度を超せばそれは獣に近いということであり、しばしば乱暴な者に見られる人相だからである。しかしスネブトは常に礼儀正しく振る舞い、義理の父を尊敬し、年若い妻をいとおしんだので、次第に不安は払拭された。
スネブトの婿入りから二年後、妻アカツキが待望の赤ん坊を産んだ。男子であった。正嫡の誕生を大いに慶び、集落挙げての祭りが開かれた。その席で酋長アカウシから赤ん坊の名が公表された。ホオズキという名前は頬の赤い、丸々と肥え太ったその赤子に良く似合っていた。
ホオズキの誕生によって気が緩んだのか、酋長アカウシはそれから三月後、あっという間にみまかった。藁しべの炎が掻き消えるようなあっさりした逝去であり、臨終の苦しみさえもなかった。皆はこの慈愛溢れる酋長の死をひどく哀しんだが、幸いなことにスネブトという良い婿がおり、その上、未来の酋長たる嫡子を得ていたので哀しみが永く続くことはなかった。
新しく酋長となったスネブトは頼りがいのある指導者だった。勇敢であり剽悍であった。狩りの際には自ら槍を執り、大きな猪を、狂暴な熊を仕留めること一度ならずであった。彼の働きは、優に男三人分に過ぎていた。
誠にスネブトは有能な酋長だった。だがそれは穏健な性格のベニツツジ族には過ぎたものだった。彼は次第に本性を顕わし、婚礼の際に一部の人々が覚えた危惧が徐々に現実のものとなっていった。
まず初めに、スネブトは狩りの取り分を変更した。取り分はその働きに応じるというのである。事実彼は一番手柄があったので、酋長の取り分の他、常に三人分の分け前を取っていった。その一方、弓の下手な者は半分の分け前しか与えられず、いわんや獣に恐れて逃げ出した者に対しては、何も与えないばかりか、しばしば衆目の前で辱めた。
また彼は部族の掟に厳格な処罰を取り入れた。従来なら説教で済む程度の微罪でも鞭打ちに処し、それでも懲りずに再び罪を犯した者には石撃ち、更には追放処分を取った。たとえそれが過失であろうと、意図したものであろうと、犯した罪に違いはないというのがスネブトの持論だった。
酋長就任から二年目の春、先の酋長アカウシの甥が捕縛された。スネブトを追放し、自分がそれに替わろうと謀ったというのがその咎である。真偽の程は定かではない。いかにもありそうなことではあったし、再三穏やかならぬことを口走っていたのも事実だった。
部族の者は彼が重い罰――百叩きや追放といった処分――を受けるのは仕方がないと考えていた。だが酋長スネブトは彼等の予想を裏切った。広場の中央、衆人環視の中で反逆者の頚を斬り落としたのである。人殺しを犯した者以外で死刑を受けたのは今までにないことだった。しかもその死刑は闇夜こっそり執行されるのが通例で、公開処刑など前例がなかった。
苛斂にして残酷、そして罪人を必要以上に辱めるスネブトのやり方を見て、遂に部族内で彼を除こうとする気運が高まった。だが打つ手がなかった。何しろスネブトは強く、警戒心が強かった。そもそも分別を弁えた老人たちは、スネブトを暗殺するのは下策だと解っていた。スネブトを殺せばクマバチ族との関係が悪化するし、何より部族の歴史を遡っても、自分たちの酋長を我が手に掛けるなどという事件はなかった。もしこれが前例となれば向後の者に示しが付かない。
穏便に済ますべく、ある老人がスネブトの許を訪れ、酋長位を嫡子ホオズキに譲って、自分は隠退してくれないかと頼んでみたが、鼻で笑われたのみならず、顔に唾を吐き掛けられた。老人は恥辱のあまり、二日寝込んでそのまま死んだ。
かくして長い間平和と安寧の中で微睡んでいた幸せなベニツツジ族を混乱が襲った。若者たちは主張した。全員が武器を執ってスネブトを脅せば、剽悍無比のあの男といえど怖れをなして逃げ出すに違いないと。老人たちは諌めた。逃げ出したスネブトは必ずクマバチ族へ戻って、自分が如何にして辱められたかを言い触らすだろう。それは決して我等のためにならないことだ、と。
秘密裡に開かれた部族会議でも何ら良い案が浮かばず、人々はむっつり黙り込んでしまった。すると一人の若者が突然クスクスと笑いだした。その若者は数年前、蜻蛉に頭を齧られてからというもの、始終夢でも見ているかのようにぼんやりしているウスノロだった。そんな男のことだから、誰もまともに相手をしなかった。
だがウスノロは笑い続けた。あまりにしつこいので隣にいた男が叱ったが、ウスノロは横目で彼を見てにやにや笑うばかりである。男は怒り、何がおかしいのだとウスノロを殴り付けた。ウスノロの唇が切れ、赤い血が滲んだ。しかし相変わらずにやにや笑う。そんなウスノロの態度に男は薄気味悪くなって、その場を起った。
ある老人の脳裏に一つの案が浮かんだ。彼はそれをその場の者に話し、意見を求めた。ある者は果たして上手くいくだろうかと訝しんだが、何もしないよりはましだということで意見の一致を見た。
たゆまぬ努力と少なからず犠牲を払うに違いないこの計画は、部族挙げて一斉に行なわれねば意味のないものだった。よって皆は鉄の結束と石の忍耐をもって計画遂行に当たることを誓い合った。
翌朝、酋長スネブトは、村人の態度がいつもと違うことに気が付いた。いつもどおり、顔を合わせれば丁寧に挨拶をする。道で行き違えば相手が進路を譲る。だがその時、彼等は常に笑っている。俯き加減に微笑する者、面と向かって白い歯を見せる者、キャッキャと声を挙げる者、笑いの種類は様々だったが、皆、常に笑っているのだ。
村人の不可解な笑みはそれだけに留まらなかった。広場での集会の際、彼が何か発言するたびに、聴衆は言い合わせたようにどっと湧き、彼が口を噤むと目交ぜしては口元を歪めるのだった。道を歩けば物陰から哄笑の声、家にいれば囁くような忍び笑いが聞こえてくる。村人の誰かを捉まえて、何が可笑しいのだと訊いてみてもろくに応えず苦笑している。腹立ち紛れに殴り付ければ、さすがに笑うのをやめはするが、その代わり周りで見ている者が大笑いをする。怒り狂って追い掛けると、まるで鬼ごっこをしている子供のように、彼等は逃げながら嬌声を挙げる。
ベニツツジ族の老若男女が、スネブトの姿を見ては笑う。声を聞いては笑う。足跡を見ては噂し、笑う。しかし彼等はただ笑うだけで何ら悪事を行なってはいない。罰する理由がないのだ。怒りに駆られて拳を上げても、その下ろし場所がない。すごすごと拳を引っ込める様を見て、また笑い声が起きる。
ベニツツジ族が笑いに満たされてから半年、げっそりと痩せ細ったスネブトは病床に就いた。毎日引っきりなしに訪れる笑みを浮かべた見舞い客に、スネブトは後生だから自分をクマバチ族の許に帰してくれと哀願した。村人は満面の笑みを浮かべ、承諾した。
若者たちの担ぐ輿に載せられて、スネブトはクマバチ族の許へ送られた。新しい酋長には幼いホオズキが立ち、古老たちが後見人となった。かくしてようやくベニツツジ族は笑うことを止めた。
季節が替わると同じくして、クマバチ族の使者がやってきた。何故にスネブトを放逐したのか、その理由如何では戦争も辞さないという構えだった。
応対したのは村いちばんの長老だった。長老は年齢に相応しく、悠揚な態度で応えた。
「スネブト殿は勇敢にして聡明な方であり、誠に我々には勿体ないほどの酋長でございました。我々は如何にしてスネブト殿に感謝の念を伝えるべきかと相談した結果、常に友愛と信頼の情を示すべく、村人こぞって笑顔で迎えようと決めたのです」
使者は問責の手掛かりも掴めず、すごすごと引き返していった。事実スネブトからは、笑われた、ということ以外、何も聞いていなかったからである。
了