レスリング・ショー

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《五分経過、five minutes past ファイブ・ミニッツ・パスト》
 デビュー十年目の中堅レスラー、ボンバー松尾はかすむ耳の奥で場内アナウンスの声を聞いた。
「ギブ・アップ? ボンバー、ギブ・アップ?」
 甲高い声でレフェリーが訊く。
 ――ギブ・アップするわけねぇだろ、こんなしょっぱい技で。
「ヘイ、ボンバー?」
 ――うるせえな、おまえも段取り判ってんだからいちいち訊くなよ。
 そもそもボンバー松尾というリングネームで呼ばれることが彼にとって恥辱だった。bombの発音が「ボム」であり、bomberなら「ボマー」と読むべきだと知ったとき、このリングネームはただダサいというだけのものではなくなった。馬鹿の名札を付けて歩いているのに気付いたときのような、消え入りたい気分にさせるのだ。
 ――それにしてもちょっとしつこすぎるんじゃないか?
 ボンバーは彼の頭蓋骨をヘッドロックで締め付けている対戦相手に窮屈な視線をやる。今日がデビューの対戦相手・杉原コウは、もう一分近くこうやって締め上げているのである。
 ヘッドロックは極めて古典的で地味な技だ。だからといって効かないわけではない。肉体を鍛え上げた男がぎりぎりと力を込めて頭を締め上げているのだ。見栄えがどうこうでなく、やはり痛いし苦しいのだ。
 何だかイヤな予感がした。ボンバーは杉原の身体ごとロープ際に押し込み、ワイヤーの入った太いロープに手を伸ばす。
「ブレイク、ブレイク」
 レフェリーに声をかけられて、ようやく杉原は技を解く。
 何やってんだよ、とボンバーは杉原に怒鳴りつけたかった。これはおまえのデビュー戦だぞ、ちんたらした試合するんじゃねえよ。段取りどおりきちっとやれよ、そう怒鳴りたかった。だがここはリングの上、四万余の観衆が彼らを注視しているのだ。そんなことを言えるわけがない。
 ボンバーがプロレスラーになってから十年、練習生時代を含めればもう十二年になる。だがいまもって彼はプロレスファンの心理が理解できない。巷間で噂されているとおり、プロレスには筋書きがある。各団体によって差違はあるが、基本的に勝ち負けはあらかじめ決まっていて、レスラーはそのとおりに試合をする。勝敗とフィニッシュの技だけ決めて、あとはレスラー同士のアドリブに任せることもあれば、試合展開の初めから最後まで台本がある場合もある。
 つまり芝居だ。架空の闘争だ。最強の男を決めるなどというお題目はファンタジーなのだ。ただし普通の芝居と違うことは、技を受ければ本当にダメージがあるし、下手をすれば本当に死ぬ。だからそうならないためにレスラーは受け身を練習し、身体を鍛える。試合は作りだが、レスラーの技術、肉体は本物なのだ。
 観客はそういう事実を踏まえてプロレス興行に足を運んでいるのかといえば、どうもそうは思えないふしがある。レスラーの一挙手一投足に興奮し、熱戦の末の決着に大歓声を送る。それらが皆、裏事情を知らないうぶな素人ばかりかといえばそうでもなく、長年プロレスを見てきて、ある程度は事情を察している様子のファンですら、やはり熱狂しているのである。
「ファイっ!」
 レフェリーに促されて我に返る。余計なことは考えるな。今はこの試合に集中しなければならない、ボンバーは己に言い聞かせる。何せこの杉原コウは金の卵、団体を挙げてバックアップせねばならない期待のルーキーなのだ。前回のオリンピック、アマレスの日本代表、フリースタイル97s級で6位入賞。ルックスも体格も見栄えがするし、父親は往年の名レスラー、グレート杉原とくれば申し分がない。
 そのデビュー戦に彼が選ばれたのは、ひとつにボンバーが会社の方針に従順であり、なおかつ彼がファンの間で実力者と目されていることが起因している。トップとはいかないまでもかなりの実力を秘めたボンバー松尾をデビュー戦で鮮やかに下す、それが杉原コウの仕事であり、ボンバーの仕事は杉原をリードしつつ、見せ場を作ってやり、最後は見事に負けてやることである。
 ――だが。
 どうもさっきから変な具合だ。台本どおりじゃない。もちろんプロレスのお約束、たとえばロープに振れば走っていき跳ね返って戻ってくるとか、倒れている相手を踏みつけるとき、殊更に自分が跳ね上がって派手に踏むふりをして、その実、相手にほとんどダメージを加えないといった基本的な動きは忠実に実行しているのだが、試合開始から動きがちぐはぐでもたもたしている。
 ――やべぇな。
 さすがに十年もやっていれば判る。杉原は台本を忘れてしまったのだ。そういうことはキャリアを積んだレスラーでもたまにある。特に試合の始めから終わりまで作っている場合など、一試合の間にいくつか忘れてしまうことはざらだ。だがキャリアを積んだレスラーなら適当にごまかすことができる。アドリブで動いてみたり、あるいは相手のアドリブに上手く合わせてみせる、それが上手いレスラーであり、業界内でも重宝されるレスラーだ。
 しかし目の前にいる杉原はこれがデビュー戦、そんな芸当は望むべくもない。さてどうしたものか、とボンバーは思案する。たとえばこれがどうでもいい試合なら、適当に殴り合って反則裁定なり両者リングアウトで引き分けにしてお茶を濁すこともできるだろうが、これは注目度の高い杉原のデビュー戦、しかもここは東京ドームだ。テレビ放映も決まっている。うやむやに終わらせていい試合ではなかった。
 杉原に組み付くボンバー。見れば杉原の目が泳いでいる。やはり段取りを忘れているのだ。ボンバーは杉原に訴えるように目配せし、リングの外へ視線を移す。ボンバーの意図を理解したのか、杉原も小さく頷く。その杉原の腕を取るボンバー。
「ふんっっ!」
 唸り声をあげ、杉原をロープに振る。律儀に跳ね返って戻ってくる杉原。とりあえずリング下に落とそう。で、場外乱闘のふりをしながら小声でこのあとのことを相談することにしよう。これからドロップキックをお見舞いするから、派手に仰け反りリング下に転落しろよ。
 だが杉原はキックが命中する瞬間、身を開いてかわす。空振りしてマットに落ちるボンバー。
 バカヤロウと言いかけたが、杉原が反対側のロープに走っていくのを見て一安心する。そうだ、そのまま戻ってきたらスライディングして俺を蹴り落とせ。おまえも案外わかってるじゃないか。
 そしてボンバーの期待通り、杉原はマット上を滑るようにしてボンバーに蹴りを見舞う。ボンバーの身体が転がりリング下に落ちた。さあ追いかけてこい、しばらくもつれ合いながら段取りを確認するからな。
 リング下のマットにうつぶせになるボンバーの耳に、観客の歓声が聞こえてくる。何をやっているのかと顔を上げれば、リング上では杉原が力こぶを作ったり腕を振り上げたりと観客にアピールしている。
 ――わかってねえのかよ!
 喉元まで出かかったのを呑み込み、急いでリングへ戻る。筋肉を誇示している杉原の背中めがけてドロップキックだ。観客の目には、余裕を見せつける杉原に怒ったボンバーが不意打ちを喰らわせたように見えるだろう。転落した杉原を追ってボンバーもリングを下りる。
 ようやく立ち上がった杉原に掴みかかる。すると杉原は人目もはばからず、
「何するんですかボンバーさん!」
 リングサイドの観客からどっと笑いが湧き起こる。ボンバーは冷や汗が吹き出るのを覚えた。
(バカ、声がでかいよ)
 かすれそうな声で囁く。
(おまえ、段取り忘れたんだろ?)
 囁きながら組み付く。顔と顔を突き合わせるような格好で続けた。
(とりあえずケツだけはちゃんとやれ。あとは俺が何とかしてやるから適当に合わせてみろ)
 ケツ、つまりフィニッシュ時の技である。
(ケツ、どんなでした?)
(それも忘れたのかよ?)
 ボンバーは杉原の髪を掴み客席へなだれ込む。パイプ椅子を蹴り飛ばして進路を確保。悲鳴を揚げて逃げまどう観客。そのままずいずい進んで入場時に通った花道に出る。
(おまえがジャーマン、俺がアームバーで切り返す)
 杉原の額を花道の床に打ち付ける。
(更におまえが切り返してもう一回ジャーマンでピンだよ)
(あ、思い出しました)
(じゃあおまえ先にリングに戻れ)
 はい、と言うや杉原はすたこらとリングに戻ろうとする。慌ててボンバーは杉原を捕まえる。
(そうじゃねえだろ。おかしいだろ、それ? 俺が先に帰るよ、もう)
 そう言ってボンバーは杉原の体をボディスラムで投げ飛ばし、二、三発蹴りを入れるふりをしたあと独りでリングへ戻る。さっきケツ以外は何とかしてやると言ったが、とてつもない不安がボンバーを襲う。

 

(2/2)へ続く

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