陥陣営 かんじんえい 〜張遼と夏侯惇〜 あの頃オレは二十九歳で、夏侯惇(かこうとん)という男が嫌いだった。 オレの名前は張遼(ちょうりょう)。字(あざな)は文遠(ぶんえん)という。 都よりはるか北方、辺境の生れだ。 子供の頃から武芸を磨き、十九歳の時に主の命で当時の都 洛陽(らくよう)に赴いた。 そこで新たな主に河北(かほく※黄河より北の地域)で兵を集めるよう命ぜらた。任務を遂行し、兵を連れて都に戻ると、主は殺されていた。 やむなく、オレはその頃都の実権を掌握していた、董卓(とうたく)という男の配下になった。 また、新しい主。 数年の後、その董卓も暗殺された。 オレは董卓を殺した呂布(りょふ)という男の配下になった。二十三歳の時だ。 どうしてこう、オレの主は次々と殺されるのだろう。 最初の主も殺された。しかも笑えることに、今の主である呂布に殺されたのだ。 いったいオレは、主が殺される星の下に生れたのだろうか。 まあ、いい。とオレは思っていた。 主なんか誰だってかまわないさ。 オレの武勇が発揮できて、武人として食っていければ、それでいい。 だが奉先(ほうせん※呂布の字)様は強かった。 まるで武神のように強かった。 強い者が好きなオレは、初めて自分の主を誇らしく思った。 そしてこの呂布陣営で、オレはあの人に出会ったのだ。 あの人の名前は、高順(こうじゅん)。 オレの親父はオレが幼い時に死んだが、生きていれば、親父と同じくらいの年齢だ。 強い人だった。 奉先様のような華々しい輝きはなかったが、彼が鍛えあげた直属の兵は群を抜いて強く、統制が取れていた。 彼はその精鋭で攻撃した敵を必ず打ち破ったので、陥陣営(かんじんえい※敵陣を陥落させる者)と呼ばれていた。 陥陣営。 この言葉に、オレの胸は今でも奮い立つ。 六年間。 オレは呂布軍の将として、彼……陥陣営とともに過ごした。 若かったオレは、自分の武勇を誇るところがあった。 陥陣営は、そんなオレに稽古をつけて、打ち負かした。 悔しかったっけ。 「見所はある」 彼は静かに笑って、言ったものだ。 「自分に驕らず、稽古にはげめ。おまえはまだ、若いんだから」 彼は、本当に親父のような存在だった。 オレの親父であり、奉先様の親父のようでもあった。 清廉な人だった。物静かで、いっさい酒を飲まなかった。 どんな高価なものでも、またささやかなものでも、贈り物は受け取らなかった。 鎧や武器は、すべてよく鍛えられ手入れがゆきとどいていた。 オレがちょっとでも手入れを怠けると、「おまえの命を守ってくれるものだぞ」とひどく怖い顔で説教されたものだ。 主の奉先様は武の天才だったが、統率者としては幼く駄々っ子のようなところがあった。 陥陣営はそんな主に口を酸っぱくして説教をした。 奉先様は、陥陣営の前だと叱られた子供のように黙り込んでしまう。 それが可笑しくて、士卒と一緒になってからかったりもした。 楽しかったのだ。 拠点を持たない放浪の軍であることが多かったけれど、呂布陣営は、今思い起こしても不思議なほどに、楽しかった。 口うるさい親父のような陥陣営を、奉先様は煙たがっていた。 奉先様は陥陣営から彼の手足である直属の兵を取りあげて、別の将に与えた。そしていざ戦となると、わざとその将の配下として、陥陣営に指揮させた。くだらない嫌がらせだ。 オレは憤ったが、それでも陥陣営は、恨みがましいそぶりひとつ見せなかった。 後にオレの主となる曹操(そうそう)は、あの頃まだ割拠する群雄のひとりに過ぎなかった。 オレが二十五歳の時、奉先様は曹操の留守をついて内通者と共謀し、曹操の拠点であったエン州に軍を入れた。 仲間の将が、曹操の留守を守っていた夏侯惇(かこうとん)という将軍を攫って人質にした。 夏侯惇は配下によって奪還されたが、エン州のほとんどの城は呂布軍に呼応し、陥ちたも同然かに思われた。 彷徨える軍が、ようやくひとつの州を手に入れた。 呂布軍は、沸きに沸いた。 夏侯惇……。 彼の名を聞いたのは、その時が最初だ。 とりたてて気になったわけではない。 人質にされ部下に助けられるなんてまぬけな、なさけないやつ。頭の片隅で、そう思っただけだ。 ……後に、呂布軍の流れ矢に当たって左眼を失明したと聞いた。 それほど強い将ではないのだろうとオレは思った。 いったん陥ちたかに思えたエン州は、曹操に奪い返される。 呂布軍と曹操軍は、一年以上に渡って激しく戦った。酷い年だった。蝗害で麦は枯れ果て、人間同士が喰いあうほどの飢饉だった。一時は曹操に重傷を負わせるまで追いつめたが、次第に劣勢となり、エン州を捨て再び放浪の軍となったのだった。 オレは放浪の軍にいることが嫌いではなかった。 むしろそのほうが呂布軍らしさを覚えて安堵したほどだ。 拠点拠点に将が散らばるより、傍に陥陣営がいてくれたほうがよかった。 彼はいつだって物静かで清廉な、同じ彼だったから。 呂布軍は劉備(りゅうび)を頼って徐州(じょしゅう)に落ちのびた。 しばらくは徐州領内の城に駐屯していたが、奉先様は陥陣営の部隊――そのなかにオレもいた――を派遣して劉備を撃破。小沛(しょうはい)を陥落させた。 劉備は曹操を頼り、曹操は小沛に援軍として夏侯惇を派遣したが、これも陥陣営が撃ち破った。 ……また、夏侯惇だ。 その頃になるとオレはもう、夏侯惇という将は敵ではないなと思っていた。どうして曹操が何度も彼をつかわすのか、不思議だった。ただひたすら強い陥陣営に憧れていた。 曹操自身が出てくるとなると話は違った。 彼の戦は、明らかに他の将に比べ、ずば抜けていた。 軍の動きはきびきびとして無駄がなく、変幻自在で先が読めなかった。 曹操の率いる軍はたちまち呂布軍を包囲し、我々は下ヒ(かひ)の城に籠城せざるを得なくなった。 曹操は奉先様に降伏をすすめる書状を送ってきた。奉先様は降伏しようと考えたが、もとは曹操の臣下で裏切った謀臣の陳宮(ちんきゅう)が反対した。奉先様は自ら兵を率いて出陣したが、曹操にさんざんに撃ち破られ城に逃げ帰った。 曹操軍の包囲はますます厳しく、城から一歩も出ることができなくなった。 籠城は長引いた。曹操は城の周りに塹壕を掘りめぐらせると、河を決潰させて水を引き入れ、城を水攻めにした。残り少なくなっていた兵糧は水に浸かり、兵たちの心は荒んだ。 そして将のうち数名は、陳宮を縛りあげ、彼の身を手みやげに曹操に降伏したのだった。 内より開かれた城門から、曹操軍は整然と入ってきた。 奉先様と我々は白門楼(はくもんろう)に登ったが、逃げ場はなく結局下りていき降伏。全員が生け捕りにされた。 我々の処刑は、白門楼上で行われた。 そこでオレは初めて、曹操という男を間近で見た。 小さな男だった。 目鼻立ちにあまり特徴はないが、どちらかというと柔和な印象の顔。 聞いていた年齢よりも若々しい。 愛らしい、とすら思える風貌だった。 鎧の下の体は、貧弱そうだった。 この男に負けたのか……。武神のような我らの奉先様が、この男に……。 どうしても、そう思わずにはいられなかった。 裸の上半身に鉄鎖でグルグル巻きにされた奉先様は、曹操に命乞いをした。 曹操は迷うそぶりを見せたが、横にいた劉備が耳打ちすると、決心したように頷いた。 「やれ」 曹操の号令とともに、奉先様はくびり殺された。 そして、順々に罪状が読み上げられ、高位の者から斬首されていく。 曹操がそのたびに、いちいちためらい、自軍に編入する気がないか訊ねるのがこっけいだった。 オレのひとつ前が、高順、陥陣営の番だった。 曹操はやはり、かなり長いこと自軍に降る気がないか、熱心に説得を試みた。 だが陥陣営はいっさいの命乞いをせずに、静かに曹操を睨みつけ「殺せ」とだけ言った。 彼が首斬り台に頭をのせる、その少し前のことだ。 陥陣営は突然振り返り、オレを見た。 まっすぐに。そしてちょっとほほ笑んで。 声は聞こえなかった。わざと出さなかったのかもしれない。 だが彼の口が動き、オレに何か言ったのだということは判った。 彼は執行人に押さえられて台に頭をのせ、抵抗はせず、鎌のような斬首刀で、あっけなく首を落とされた。 そこから先、白門楼でのオレの記憶は、ほとんど飛んでしまっている。 曹操が近寄ってきて、オレの縄を解いたのだけは、おぼろに覚えていた。 *** 気がついたら、オレは曹操陣営で食事とあたたかい寝床を与えられていた。 食事はうまかったし、寝床はありがたかった。 だがオレは混乱していた。 白門楼でのことが、途中からほとんど思い出せないのだ。 陥陣営が首斬り台に向うところまでは覚えている。 その先が、思い出せない。 オレは曹操に降るつもりはなかった。 陥陣営の後姿を見たあの時までは、確かに自分も死ぬつもりでいた。 当たり前ではないか。 それなのに、オレは今、曹操に降った将ということになっている。 寝床に横になった次の瞬間、朝になっていた。ぐっすり眠っていたらしい。 曹操陣営と言っても、そこは下ヒ城の一室だった。どこか、見覚えのある部屋。 誰かが入ってきた。背の高い男だ。左眼を黒布の眼帯で隠している。 男はオレを見てほほ笑み、 「よく眠れたかね?」 と言った。 「……あんた……夏侯……?」 「よくわかるね。オレの名は夏侯惇。字は元譲(げんじょう)だよ。張文遠殿」 「……眼で」 「ああ、これね」 夏侯惇は、はにかんだように左眼の眼帯を指で撫でた。 「本来なら孟徳(もうとく※曹操の字)自身が挨拶に来るべきなんだが、今ちょっと手が離せないらしくてね。オレが代理で来たんだ」 「あんた、若いな。オレは、もっとじじいかと思っていた」 夏侯惇が声をあげて笑った。 「我が軍は、文遠殿を歓迎する。戦勝の宴には是非出席してくれ。明日使いの者をよこす。それまでゆっくり戦の疲れを癒されるがいい。オレはとなりの部屋にいるから、何かあったらいつでも遠慮なく呼んでくれ。すぐに朝食と水を持たす」 「……いたれりつくせりだな」 オレは笑って言った。 夏侯惇はサッとこぶしを併せて礼をすると、部屋を出ていった。 「戦勝の宴だと……? くだらねえ……オレにとっては敗北の宴じゃねえか」 ぼんやりと寝台に座っていると、兵卒が食事と水瓶を運んできた。 顔を洗い、食事を噛んでいると、唐突にオレは思い出した。 「そうか……。陥陣営は、死んだのだな」 脳裏に、彼の首が転がり落ちる場面が蘇った。 オレは立ちあがった。 首……。そうだ、彼の首は……。 「どこへ行く?」 部屋の前に立っていた夏侯惇が問うた。 「厠へ」 「厠なら、こっちだ。ついて来い」 なるほど。夏侯惇は、見張りというわけだ。当然か。 厠を出てから、そのまま部屋に帰らずに外を見渡していた。 「何かさがしているのかい」 すぐに夏侯惇が察してきた。 「いや……」 オレは口ごもり、しばらく沈黙してから、 「首を……」 と呟いた。 夏侯惇は頷き、先に立ってオレを導く。 首台は、市街の目立つところにあった。 まだ新鮮な首。奉先様と、陳宮。陥陣営のものも、もちろんある。 それらをオレはじっと見詰めて、 「わかった。もういい」 と言って夏侯惇とともに部屋に引き返した。 深夜、寝たふりをして、俺はそっと部屋を抜け出した。 背後を振り返りつつ、月明かりをたよりに首台のところに行く。 舌が、だらしなく垂れていたのだ。 陥陣営の舌が。 だから、それを口の中におさめてやりたかったのだ。 ゆるされる行為ではなかった。 だがそれで罪に問われるのなら別にかまわないし、むしろ死に損ねた自分が深夜にこっそり来て見張りを気にしていることの方が、おかしいような気もする。 手こずったが、何とか見苦しくない程度にはおさめることができた。 オレはしみじみと陥陣営を見詰めた。 「なかなかの男前だぜ……親父……」 その時だった。頭の中で声が聞こえた。 そうか……。そうだったんだ……。 あの時首斬り台に向った陥陣営は、振り返って、オレにこう言ったんだ。 「生きろ」……と。 だからオレは死ねなかった。 オレに対しても熱心に帰属を請う曹操に、オレは黙って頷いたんだ。 思い出した。 曹操は嬉しそうにやって来て、手ずから縄を解いて、オレの両手を握りしめたのだった。 部屋に帰ろうとして振り向くと、近くの塀に寄りかかる人影があった。 人影はオレを見ていたふうだったが、すぐに廻りこんで裏の暗がりに姿を消した。 あれは、夏侯惇だったと思う。 *** 呂布を破った曹操は、はやくも河北の袁紹(えんしょう)のほうを向いていた。 「慣れるまで、夏侯惇についているように。任地が決まったら沙汰を出す」 曹操はオレを呼んでそう言った。 体力はすっかり回復していた。はやく任地を決めてほしかった。 夏侯惇が、何かとうるさかった。 やれ宴に出ろだの、うまい果物が手に入ったから食えだの、熱があるようだから休めだの。 兵法書をどっさり持ってきてオレの部屋に置いていった日には、殺意を覚えたほどだ。 夏侯惇の顔を見ると、オレは苛立った。 眼帯のいやに似合う男前で、若いくせに老成した目をしていやがる。 先輩面してあれこれ指図されるのはうんざりだった。 だいたいオレの知っている彼は負けてばかりいる将だ。 すました顔で小難しい書を読んで、肝心の戦には負ける。 そんな奴は虫が好かなかった。 オレははやく武功を立てたかった。 武功を立てて、曹操軍の将として認められたかった。 敵は誰でもよかった。 主も、誰でもよかった。 戦いさえすれば、オレは勝てると思っていた。 負ける気がしなかった。 そのチャンスがやってきた。 一年間、曹操はオレに騎兵の調練をするよう申し渡した。 最速最強の軽騎兵にするように、と曹操は言った。 オレははりきって仕事に臨んだ。 その成果が試される時が、ついにやってきた。 オレが曹操軍に降ってから、一年と少し。 三十一歳になったオレは、自軍の騎兵を引き連れ、曹操に従って黄河ほとりの白馬(はくば)に向っていた。 袁紹に先に黄河を渡ると見せかけて、白馬の敵拠点を突く陽動作戦。 曹操軍は、駆けに駆けた。 疾風を切り裂く走り。 白馬に到着するや、曹操はオレと関羽(かんう)を先鋒として解き放った。 オレが鍛えた最速最強の騎兵が、白馬の敵陣営に斬り込む……! ――それに先立つこと数ヶ月。 反乱を起した劉備の討伐に赴いていた主曹操が、官渡(かんと)の砦に帰還したのは、その年の正月のことだった。 その時、曹操は、彼を連れて帰ってきた。 彼の名は、関羽。字は雲長(うんちょう)。 名にし負う勇将。劉備の義弟にしてその右腕である漢。 その関羽が、戦に敗れ我が曹操軍に降ってきたというではないか。 オレは好奇心をかきたてられた。 オレ自身降将で、まだ目立った功績をあげていなかったからだ。 曹操帰還と勝利に沸く軍中で、独り外れた場所に佇んでいた関羽に、オレは話しかけた。 美髯公の異名通りの見事な髯。オレよりだいぶ背が高い。切れ長の、涼しい目をしている。 「やあ……。初にお目にかかります、関雲長殿。私は曹操の将で、張遼と申す者です」 関羽は気さくな笑顔を作り、オレに応えて言う。 「存じております、張文遠殿。以前、白門楼でお会いしましたな」 オレの顔が、カッと熱くなるのを感じた。 そうか。彼は、劉備に付き従って、あの場にいたのだ。オレは周りが見えてなかった。 「……お恥ずかしいところを見られたのですかな」 「ん? いや、ハッハッハ。私も今はこのザマです」 関羽は笑って、オレの背中をどしんとたたいた。 彼がいつでも会いに来いと言ったので、オレはしばしば関羽の住居を訪ねていった。 そんなふうに人と親しくするのは、一年以上ぶりのことだった。 曹操軍で、オレは孤立していたのだ。 陣中の人々に邪険にされたわけではない。自分から、人との交流を絶っていた。 オレは最初、関羽が完全に曹操に降ったのだと思っていた。 てっきり、ずっと一緒にいてくれるものと。 曹操軍に蹴散らされ逃走した劉備の行方は知れなかった。死んでいればいい、とオレは思った。 オレが傍にいる時、関羽は劉備の話を出さなかった。 悩んでいるそぶりも見せなかった。 だからオレは、関羽はもう過去を吹っ切ったかと思ったのだ。 だって主なんて、ころころ変るものだろう? ある日、オレは主曹操に呼び出された。 「雲長と親しくしてるそうじゃないか、文遠」 曹操はオレを座らせるなり、そう言った。 珍しく、最初から険のある表情をしていた。 大抵曹操は、最初は笑顔で迎え、何か気に障ることがあってはじめて不機嫌な顔になるのだが。 「雲長はいいやつですよ。素晴らしい……」 「そんなことはわかっておるッ!」 曹操がバンッ! と机に手を打ちつけた。 「……」 「いや、すまん。雲長のこととなると、ついイライラしてな」 「用件は何ですか」 「実はな……」 さぐってきてほしいのじゃ、と曹操は言った。 関羽がこれからも曹操の下にいる気があるのか、もし劉備の行方がわかったらどうするのか、また、死んでいることがわかったらどうするのか。 「わしが訊いても答えてくれるとは思えぬからな」 曹操が、淋しげな表情を見せた。 オレは気が進まなかったが、 「わかりました」 と言ってその場は退室した。 本当に気が進まなかった。 冗談めかして一度だけ訊いて、お終いにすればいいか。……そのつもりだった。 関羽の返答は、明瞭なものだった。 劉将軍(劉備)の行方がわかったら、馳せ参じる。劉将軍が死んでいることがわかったら、自分も死ぬ。曹公(曹操)が厚遇してくれているのはよく知ってい るが、劉将軍とはいっしょに死のうと誓った仲だ。裏切ることはできない。自分は曹公の下には絶対に留まらないが、必ず手柄を立てて、恩返ししてから去るつ もりだ……と。 「だが……雲長……裏切ると言うが……。今のおまえの主は、曹公じゃないか」 「いいや、それは違うよ文遠」 関羽は力強い口調と眼差しで、言い切った。 「私の主は、劉将軍お一人だよ。今も、そしてこれからも」 「……」 オレが沈黙すると、関羽は重ねて言った。 「たとえ体ははなれていても、心は常にあのお方のもとにある。それが忠節ってものだろ?」 「……オレは忠節ってよくわからない……」 関羽は突然破顔すると、オレの頭を右腕に抱き、左手で髪の毛をわしゃわしゃわしゃっと掻き乱した。 「なっ、ちょ、雲長……っ、いきなり何を……ッッ」 「わかるって! おまえにもいずれわかるって! なあ、文遠……!」 関羽の言葉を曹操にそのまま伝えるべきかどうか迷った。 もしそうしたら、曹操は関羽を殺すかもしれないと考えたのだ。 迷ったが、主は主だ。いったん任務を引き受けた以上、正しく伝えねばなるまい。 そう結論し、関羽が言ったそのままを、オレは後日曹操に伝えた。 曹操は最後まで黙って聞き終えると、 「そうか。わかった。……大義であったな」 と言って、深い溜息をついた。 「なあ文遠。雲長は、天下の義士だな。そうは思わぬか」 オレはどう答えていいかわからず、黙っていた。 「雲長はいつごろ立ち去ると思うか?」 「必ず手柄をたてて恩返しをしてから、立ち去るでしょう」 「そうか。そうだな。もうさがってよいぞ、文遠」 オレは一礼して退った。 出際に、ふと振り返って曹操を見る。 ひどく淋しげで、普段にも増して、小さく見えた。 ……あの頃、毎晩のように見る夢があった。 迷子の夢だ。 最初、オレは呂布陣営にいる。 陣屋で、美しい奉先様を中心に、皆で騒いでいる。 将も兵卒もいっしょになって、こづきあいふざけあい、笑い声の渦のなかにいる。 ちょっと離れたところから、陥陣営が静かにほほ笑んで見守っている。 明るい、なごやかな場面。 ところが、にわかに笑い声が遠ざかったかと思うと、オレはもう迷子になっている。 景色は、見知らぬ城の外。 オレは城門をさがしてひたすら歩くが、歩けば歩くほど、城壁は遠ざかっていく。 気がついたら、四方何もない、真っ暗闇な荒野にオレは独り佇んでいる。 途方に暮れていると、見覚えのある台を見つけて駆け寄る。 それは呂布軍の死刑囚がさらし首にされた、あの首台だ。 陥陣営の首を、オレはじっと見詰める。 すると閉じていた目が急に開いてオレを見て、 「生きろ」 と言う。 言って、また瞼を閉じる。 ――腐りかけた陥陣営の首は、やさしい目をしていた。 オレが鍛えた騎兵隊は、素晴らしい機動力で敵陣営に斬り込んだ。 襲い掛かってくる敵兵と矢を斬り払いつつオレが指揮していると、先鋒隊の一方の将である関羽が、 「ぬおおおおおおお!」 と叫びながら味方の隊を飛び出した。 「お、おい雲長! 大将がそんなに出過ぎると……!」 オレの声は届かなかった。届いたかもしれないが、無視された。 関羽は敵を薙ぎ払いながら、敵将顔良(がんりょう)の旗めがけてただ一騎、まっしぐらに馬に鞭くれ駆けた。そしてその車蓋に突っこむや、一刀のもとに顔良を刺し、首を斬り取ってゆうゆうと帰還した。 敵はおろか、味方も皆あぜんとなった。 顔良の兵は大慌てで白旗を振り、味方も『曹』の旗を掲げるのをうっかり忘れそうになるほどだった。 曹操は後から陣に入ってきて、まだ息の荒い関羽の肩を抱いて労い、軍をまとめて白馬を撤収した。 袁紹の援軍が、すぐそこまで迫っていた。 曹操は物見の報告を聞くや、騎兵に命じて馬の鞍をはずさせた。 白馬から味方の輜重隊(しちょうたい※輸送部隊のこと)が動いてきていた。 袁紹の騎将 文醜(ぶんしゅう)が五、六千の騎兵を率いてやってきた。 『文』の他に、『劉』の旗が見えた。 劉……? ――劉備……? 「馬に乗ったほうがよいと思いますが」 諸将が言うと、曹操は、 「まだだ」 と言って、目を閉じた。 地平が、袁紹の軍で埋め尽くされる。 袁紹軍は一部、分散して曹操の輜重隊に向いはじめた。 「よし」 と曹操が言うと、皆、馬に乗った。敵の騎兵は相当数が輜重隊に割かれている。曹操軍の騎兵は六百に満たない。 「行け」 曹操の合図とともに、味方の騎兵は放たれた。 機動力抜群の曹操の騎兵は、敵を散々に打ち負かし、文醜の首を取った。 敵の二大将軍の首を手に、曹操は無事官渡に帰還した。 「おまえが騎兵を鍛えてくれたおかげだ。文遠、よくやったな」 官渡に帰るなり、曹操はオレを褒めてくれた。 関羽よりも何よりも、真っ先に褒めてくれた。 「大将、顔が赤くなってますよ。湯気が出てらあ」 騎兵の部隊長にからかうように言われ、オレはどぎまぎした。 嬉しかった。 その夜、関羽は曹操陣営から姿を消した。 *** 関羽は脱走したのだった。 深夜の知らせに起こされた曹操は、寝巻きのまま諸将と面談した。 「既に最初の関所を突破したとの報告が入っております。脱走兵を見逃すわけには……」 「劉備が袁紹の幕にいるのなら、これは寝返りですぞ」 「ただちに関羽を追撃するべきです。ご主君、指令を……!」 諸将はいきりたったが、曹操は彼らを制して言った。 「仕方あるまい。顔良を斬って、雲長なりに恩返しを果たしたつもりなのであろう。劉備の生存がやっとわかったのだ。一刻もはやく駆けつけたかろうよ。顔良を討ち取った恩賞をすべて置いていった。見あげたものじゃないか」 曹操は少しの間顎に指をのせて考えると、また言った。 「文遠。騎兵隊のなかで最も速い者を選んで追わせろ。雲長を止めてはならぬと、各関所に伝達するのだ。大至急な。よいか、ゆめゆめ追撃などかけるでないぞ」 「……ははっ」 「もう、わしは寝る。疲れているのじゃ」 オレは慌てて騎兵隊の幕営に向った。 チラと振り返ると、オレの後から出て、あくびをしながら自室に向う曹操が目に入った。 それから黄河を渡河した袁紹は、前線にずらりとやぐらを造らせ、官渡の曹操陣営に矢の雨を降らせた。 兵たちは出歩く時は常に盾のかげに隠れ、息をひそめるように砦に籠るしかなくなった。 手詰まりなのか、曹操からの指令もぴたりと途絶えた。 なかには曹操は病なのではないかと言い出す兵もいて、噂を取り締まるために数人殺さねばならなかったほどだ。 オレはそんな状況でも怖くなどなかったが、せっかく仲良くなった関羽がオレに一言も告げずに去ったことが、想像以上にこたえていた。 白状しよう。 淋しかった。 オレは以前夏侯惇にもらった兵法書――ほとんど手付かずで書庫に投げていた――を紐解いた。 あまりに淋しかったので、気を紛らわせるものがほしかったのだ。 夏侯惇は同じ陣営内にいたが、もう彼と仕事以外で話をすることはほとんどなくなっていた。 彼の目はいつも曹操のほうを向いていたし、そういえばここ最近姿を見ない。 ふと、今度はオレは袁紹に仕えることになるのかな、という考えが頭をよぎった。 ぼんやりと。何の感慨もなく。 曹操軍は袁紹軍に対して圧倒的に不利だったが、長引く膠着状態の後、敵の謀臣が裏切って投降してきたことをかわきりに、流れが変った。 曹操は彼の情報をもとに軍を二つに分け、半分を守城組として残し、もう半分を敵の食料集積地襲撃にあたらせた。 襲撃隊は、曹操自身が率いる五千。オレは騎兵隊長として、曹操の下についた。 この襲撃は大勝利をおさめた。 形勢は一挙に逆転し、官渡での戦いは大方の予想を裏切って、曹操軍の勝利に終ったのだった。 *** 官渡での勝利からすぐに、オレは別軍を率いて魯国(ろこく)を平定するよう、曹操に言い渡された。 かの地にオレは軍を進め、統治したが、東海(とうかい)の昌キ(しょうき)が反乱を起した。 曹操は将軍の夏侯淵(かこうえん)を派遣し、オレとともにあたらせた。 数か月に渡って包囲して攻撃したが、陥落できなかった。 兵糧が尽き、軍をひきあげ帰還することが論議された。 オレは包囲陣をめぐり歩き、敵を観察した。 昌キは城壁に現れると、矢を射掛けることなく、オレを見詰めていた。 オレはひとつの確信を得て、夏侯淵に申し出た。 「昌キの心はおそらく、ぐらついてます。オレはやつと話をしてみたいと思います。うまくいけば、味方にひきいれることができましょう」 オレは使者をやって「曹公から私を通じて話がある」と昌キに伝えた。 思った通り、昌キは城から降りてきた。 オレは昌キに、 「先に帰服する者は、曹公よりたんまり褒美をいただけるぞ」 ともちかけた。 嘘だった。本当は曹操はそんなことは言っていない。嘘も方便というやつだ。 果たして、昌キはまんまと乗っかってきた。 オレは「しめた」と思った。 ダメ押しに、オレはひとりで昌キの家に行き、彼の妻子に挨拶した。もちろん、いくらか金品も握らせてやった。 これを知ると昌キは歓喜し、曹公に感謝の念を伝えに目通りに行くと言い出した。 オレは笑いが止まらなかった。 数ヶ月包囲しても陥ちなかった敵が、ちょっとくすぐっただけでこれだ。 かくして、オレは昌キを伴い曹操のいる許都(きょと)に帰還した。 曹操に会うのは、九ヶ月ぶりだった。 謁見の間には、曹操の他に書記官と、夏侯惇がいた。 なぜ夏侯惇がいるのだろう。 先に書簡で説明していたから、曹操はことのいきさつを知っているはずだ。 オレが昌キとともに部屋に入った時曹操は、夏侯惇と向いあい何か話していた。 手には、オレが書いて送った書簡が広げて握られている。 曹操は昌キに会うと、ニコとも笑わずに、 「遠路ご苦労さまでした」 と言った。 今日は虫の居所が悪いのかな、とオレは思った。 曹操は、過剰なくらいの笑顔で来客を迎えるのが常だったからだ。 「せっかくですが、お帰りください。部屋を用意してありますから、今宵はるゆりと休まれて、明日お発ちください。必要な路銀はさしあげます」 曹操は従者を呼んで案内させ、昌キを部屋から出した。 少し、嫌な予感がした。 「あの……」 「文遠。何故このようなことを?」 曹操は薄く笑い、オレを見た。ヤバイ、とオレは思った。曹操の口元は笑っていたが、目が笑っていなかったからだ。 「わしがいつ、降伏した者に褒美をやると言った?」 カーッと頭に血が昇るのを、オレは感じた。 「公の威信で……帰服させましたら……その……昌キには再び反乱を起す勇気はないものと……」 「わからぬのか文遠……! これは大将のやり方ではないぞッ!」 曹操は大喝し、持っていた書簡を激しく床にたたき付けた。 「も、申し訳ございませんでしたッ」 オレは平伏すると、キッと立ちあがってそのまま部屋を出た。 前も見ずにずんずんと歩く。 叱られた。曹操にはっきりと怒鳴られた。 手柄をあげたのに。 褒めてくれると思っていたのに……! 「文遠」 追いかけてきた夏侯惇が、オレの肩に手をかけた。 オレは黙ってそれを払い落した。 「待て、文遠。孟徳は、ただおまえに……」 しつこく、手をのせてくる。 「うるさい! あの小男に何がわかる」 瞬間、体が浮いた。 次に何か重い破裂音が耳の奥に響いて、景色が大きくぶれて床が迫った。 「ア……ッ」 床にひじをつき、仰向けに倒れた上半身を支える。 左の頬におかしな感覚。 見あげると、夏侯惇が拳を握ったままオレを睨みつけていた。 彼に胸ぐらを掴まれて殴られたのだと理解するまでに、少しの間があった。 夏侯惇はオレに背を向けると、速足でその場を立ち去った。 ショックだったのは、夏侯惇のかげから曹操の姿が現れたことだ。 背後には、顔を蒼白にした書記官も立っている。 かすかに、心のどこかで、曹操が助け起こしてくれるのを期待した。 だが曹操はくるりと踵を返すと、夏侯惇を追った。 オレの周りからは誰もいなくなった。 腰が抜けたようになっている。のろのろと立ちあがると、ふらつきながら、オレは外に向って歩いた。 殴られた頬の痛みが、だいぶ遅れて脈打つように襲ってきた。 口の中がとめどなく血の味で溢れた。 オレは何度もそれを呑み込んだ。 手当てをする気には、どうしてもなれなかった。 少し冷静になると、絶望が見えてきた。 よりにもよって、曹操を指して小男と言ったのだ。 口が滑った、そんなことを言うつもりはなかった、だって夏侯惇があまりにもしつこいから、つい……。 そんな子供みたいな言い訳が通用するはずもなかった。 曹操に聞かれた。書記官もいた。 このことは記録され、オレは処分されるだろう。 だってあれだろ? 奉先様に「バカ」って言ったようなものだろ? 無事で済まされるはずがない。 こんなことで死ぬことになるのかオレは……! そりゃ、敵を買収するあんなやり方、オレだって好きじゃないさ。 だがあんたの大好きな兵法書にだって書いてあるじゃないか。 戦わずに済むのなら、そのほうが良いって。 だからオレは……。 そうやっていくら自分の中で言い訳を重ねてみても、何も変りはしないのだった。 こんなことになるのだったら、白門楼で潔く死んでおけばよかった。 主を誹謗した罪で処刑されるくらいなら、戦で負けて敵に殺されたほうが、ずっといい。 そう考えると、陥陣営のことが恨めしく思えてきた。 何だって陥陣営は、オレにあんなことを言ったのだろう。 ずるいではないか。 自分はいっさい抗わずに死を受け入れておいて、オレにだけ生きろだなんて。 おかげでオレは死に損なった。 正直、逃げ出したかった。 逃げきれるわけがない。 あの曹操から逃げきれるわけがない。 雲長のときとは、訳が違うのだ。 ―― 一睡もできずに朝を迎えた。 頬の手当てもせず、顔すら洗わずに、オレが重い腰をあげて朝議に参加したのは、こう考えたからだ。 ここで曹操に処刑されたら、陥陣営に逢えるかもしれない。 同じ場所に行けるかもしれない。 少し遅れて、彼のもとへ。 だからオレは腫れあがった頬を隠しもせずに、曹操を親として集う群臣たちのなかに入っていったのだった。 頬は面白いくらい腫れていた。 群臣たちはオレの顔を見るとギョッとして道をあけた。 話しかけてくれる者は、誰一人としてなかった。 当然だ。 オレはこの軍に親しい友を作らなかった。 雲長以外は。 夏侯惇は曹操の傍にいて、オレの顔を見なかった。 始めから終りまで、完璧に無視してくれた。 朝議が解散になると、曹操はひとりでオレのもとに歩いてきた。――本当にひとりだった。夏侯惇も、護衛も、書記官も連れていなかった―― 「文遠、わしの車に乗れ。家まで送ってやる」 曹操はそう言って背中を押し、自分の車にオレを乗せた。 ついに来たかと、オレは覚悟した。 オレの横で曹操は気持ち俯き、長い睫毛のかぶさる目を瞬かせながら、 「いちど文遠と、ふたりきりで飲み交したいと思っていたが……」 と言った。 「オレは酒はやりませぬゆえ」 「そうか……そうだったな……」 曹操は微笑み、小さく吐息をついた。 「文遠。あのことは非公式にしておいた。記録には残らぬ」 「……」 「派手に叱って悪かった。おまえがよかれと思ってやったということは、よくわかっている。元譲も反省していたよ。思わず手が出た、大人気なかった……とな」 膝の上で結んだオレの拳がふるえた。 喉の奥に、熱い塊がこみあげる。 「――いいえ。……いいえ……! 大人気なかったのはオレです。オレのほうこそ……」 「よいなおまえは。武人らしい姿をしていて」 曹操がオレを見た。淋しげな笑顔。この表情を前にも見たことがあると思った。 ああそうだ……関羽の本心を、オレが彼に伝えた時だ。 「いいえ。そんなことありません。オレなんか……オレなんかぜんぜん…… ――ご主君……!――」 何が嬉しかったのか知らない。 だが曹操はその時、顔いっぱいに極上の笑みを浮べた。 笑うと目尻に細かな皺が寄って、よりいっそう愛らしい顔になる。 *** 想像よりもはるかに質素な家だった。 午後、夏侯惇の居宅を訪ねたときのことだ。 道行く人に尋ねつつたどり着いたのだが、それが曹操第一の将軍の家とは、にわかに信じられなかった。 降将だった関羽が曹操に与えられて住んでいた家のほうが、ずっとずっと立派だったくらいだ。 門戸をたたくと、可愛らしい中年女性が出てきてオレを中に入れてくれた。 「あなた、お友達がお見えになってよ。文遠さんよ」 そうか。この女性が夏侯惇の妻か。それにしても、取次ぎの従者もいないのか……? 「開けるわよ」 そう言って夏侯惇の妻はその部屋の扉を開けた。 中は書斎で、墨と竹簡の香りがした。机に向って何か書き物をしていた夏侯惇は、筆を置いて立ちあがり、オレを見た。 ハッとした。 夏侯惇は、眼帯をつけていなかったのだ。 彼の左眼は酷い傷痕になっていた。 眼球がないのか死体のように落ち窪み、周囲の肉はこそげ、失われた瞼から眼窩の暗闇が覗いている。 オレの愕然とした様子から夏侯惇はすぐに気付き、机の端に置かれていた眼帯を掴んだ。 「何か用か? 文遠」 馴れた手つきで眼帯をつけると、いつもの彼の顔になった。オレは少しホッとした。 「いや。用というほどのことではないが……昨日のことで」 「昨日のこと? オレは謝らないからな」 彼が即座に言ったので、オレは拍子抜けしてしまった。 「いや。謝ってほしいんじゃない。謝りに来たんだ。昨日オレはどうかしていた。無礼をどうぞゆるしてほしい」 「フン。謝る相手を間違っている。その科白は、孟徳に言うんだな」 「違いない……」 「ずいぶん腫れているじゃないか。手当てしてないのか?」 「あ……そう言えば忘れてた」 夏侯惇は妻を呼び、オレの頬の手当てをするように言った。 「いえ、いいんです。帰って自分でしますから」 オレが遠慮すると、夏侯惇が 「傷を甘く見て放っておくと、後でえらいことになるぞ。オレを見ただろ? 男前が台無しだまったく」 と言ったので、オレは思わず笑い声を漏らした。 鏡を見ると本当にどえらいことになっていたので、もっと笑ってしまった。 「珍しいな。何がそんなに可笑しいんだ文遠」 「いや……お互い、痛々しいなと思って」 「違いない」 夏侯惇が笑った。 彼の妻も笑って、部屋のなかが笑い声で満たされた。 その夜、久しぶりにあの夢を見た。 呂布陣営の幕のなか。 奉先様を中心に楽しげに笑いあう仲間たち。 彼らの間ではしゃぎふざけるオレ。 そんなオレを静かに見守る、陥陣営の姿。 途中から、いつもの展開と違った。 気がつくと笑い声は遠ざかり、オレは独り呂布軍から離れたところにいる。 そこまでは同じだ。 違うのは、奉先様や、陥陣営や、みんなが、オレの方を向いている。 「もう、いいんだな」 奉先様が、笑顔でオレを見て言う。 「うん。もう、いいんだ」 オレが答える。 「見つかったのか」 「ああ。見つかった」 「じゃあ、さよならだな」 幕舎から反対の方向に、黄金色の道が開ける。 オレは確信する。 これがオレの進む道。 もう、迷子なんかじゃない。 オレはその道に一歩踏み出す。 急に名残惜しくなって、一度だけ、振り返る。 「さようなら」 陥陣営が、静かにほほ笑んで、言った。 ――さようなら……。 オレはもう振り返らず、その道を真っ直ぐに歩いていく。 道の先に光は溢れ―― そこでオレは、目を覚ました。 夜明けよりだいぶ前に目覚めてしまい、もう眠れそうになかった。 オレは着替え、鎧を身につけて外に出た。 辺りは暗かったが、深い闇の底が仄かにあおい。 冬の初めの冴えた空気が、肺と頬の傷の両方に心地よかった。 騎兵を鍛えた広大な調練場にオレは赴いた。 そこでひとりで鍛錬していると、遠くから馬に乗って夏侯惇が現れた。 「文遠。早いな。チッ……今日は一番乗りができなかった」 夏侯惇が悔しそうに言う。 「盲夏侯(もうかこう※夏侯惇のあだな)には負けてられんからな!」 「おっ、言ったな! この武勇バカが!」 彼の矛とオレの剣で、数回刃を交えた。 「あれ? 元譲……」 「ん? オレの顔に何かついているか? 文遠」 「いや……」 陽の出前の淡い光に照らされた夏侯惇の顔を見て、オレはそのことに気がついた。 ――陥陣営に似ている。 若さと眼帯に惑わされてこれまで気付かなかったが、彼の面差しと瞳は、陥陣営のそれと雰囲気がそっくりだった。 彼の顔を見てオレが苛立ったのは、そのためだったか……。 「やっぱり眼帯があったほうがカッコイイなって思ったのさ」 「こいつ……!」 彼方から朝風にのって、聞き覚えのある声がした。 「アッ、大将じゃないですか! 張大将、おかえりなさい!」 オレが鍛えた騎兵隊の部隊長だった。別軍を率いてオレが魯国に行っている間、彼らは曹操直属になっていたのだ。 「おおーい、みんなあ、張大将のお帰りだぞ! はやく、はやく!」 部隊長の後ろから、なじみの騎兵たちが続々と集まってくる。 オレが手を振るといっせいに、地鳴りのような歓声が沸き起った。 ちょうどその時、東の城壁から陽が昇ってきた。 旗持ちが、空高く軍旗を掲げる。 『曹』の旗。それに並んで、『張』の旗も。 オレは目を細めた。 涙がにじんだのは、陽の光が眩しかったからだ。 ――あの人はオレに「生きろ」と言った。 だからオレは生きることにした。 そのことに悔いはない。 力強く軍旗を照らす、朝陽のかがやきとともに。 オレはようやっと、曹操軍の将になることができた。 そんな気がしていた。 おわり
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