昔の光


 袁紹(えんしょう)が死んだ。
 建安(けんあん)七年、夏の盛りの暑い日のことだった。

 その頃曹操軍は君主曹操の故郷ショウに駐留していた。夕刻、赤銅色の陽光が部屋に満ちるなか、曹操(そうそう)はその知らせを受け取った。
 袁紹は病死したのだった。官渡での敗北より、心身ともに衰弱していき、死に至った。最期は大喀血し、無残な死に様だったという。

 すぐさま主要な将軍参謀が召集され、軍議が開かれた。父の死で袁紹の息子たちがどう動くかによって、曹操軍の出方が決まる。それが議題の中心となった。
 軍議が解散になった時は、すっかり夜も更けていた。

 幕僚たちが次々に立ち去った後、軍議の間には曹操が取り残された。独りではない。月光も届かない片隅に、もうひとり佇んでいた。

「奉孝(ほうこう※郭嘉の字)、帰らぬのか」

 その声が届いたか届かなかったか、影はじっと黙っている。
 蛙の鳴き声がすごい。地鳴りのように響いている。

「どうした奉孝。なにか話したいことがあるのか」
「なんでもありません」
 郭嘉(かくか)がそっけなく言った。
「ならばもう帰れ。わしを独りにしてくれ」
「わかりました」
 扉の閉まる音がした直後、曹操はその場に膝をついた。
「本……初……」
 自ら死に追いやった宿敵の字を呼び、むせび泣く曹操の声が無数の蛙の声にかき消される。

 ……ったく。まだあんな男に心を残していたとは。

 無性にムシャクシャする気持ちを抑えきれずに、郭嘉は側に垂れている帳を力まかせに引っ張った。ブチブチッと濁った音を立てて帳が天井から外れる。

「なにかお気に障りましたか」
 郭嘉の唯一の従者である少年 隷(れい)が、心配そうに訊ねた。
「暑くてイライラするんだよ。こう蒸し暑くちゃあ、夜も眠れやしない。もうボクは寝るっ」
「お休みなさいませ、奉孝様」
 言葉の矛盾に苦笑しつつ、隷はひとつだけ点していた灯りを吹き消した。

 ***

 翌朝、キリキリと締めつけられるような胸の痛みで郭嘉は目を覚ました。
「やべ…… やらかしたか……」
 意識ははっきりとしているが、体を動かすことはできない。助けを呼ぶこともままならず、歯を喰いしばって襲い来る痛みの波をやり過ごすしかなかった。

「あれ……?」
 いきなりスッと、苦痛が引いた。
 いつになく体が軽い。郭嘉は寝台からひらりと跳び下りた。

「あちゃ〜」

 郭嘉は肩をそびやかした。振り返ると、そこに目を閉じて横たわったままの自分がいたのだ。あれが肉体とすれば、今の自分は、ただの霊魂というわけか。道理で体が軽いはずだ。
「するとボクは死んだのかな」

 幼少の頃から長生きはできないと言われ続けて、一種刹那的な生き方をしてきた郭嘉だが、死について恐怖がなかったといえば嘘になる。自分がこの世からいなくなるということを考えて眠れない夜もあった。だがいざ死んでみると、こんなものかというくらいあっけない。

 特に迎えも来ないようなので、郭嘉はふらりと外に歩き出した。

 城下町は、キラキラしていた。
 郭嘉は不思議に思った。ショウの町はこんなに綺麗だったろうか。長年乱世の風に曝されたこの土地は、すっかり疲弊して荒ん でいたはずだ。ここは違う。徴兵でいなくなってしまったはずの若い男たちが、露天の店で楽しそうに談笑している。この世となんら変わることはないが、平和 な町。これが死後の世界というものなのだろうか。

 だとしたら死ぬのも悪くない。

 心を洗うような朝の光に目を細めながら郭嘉が街路を歩いていると、
「おい、おまえは幽鬼か」
 背後から声をかけられた。
 振り向くと、そこにひとりの小柄な少年が立っていた。

「おうよ。よくわかったな小僧」
「体が半分透けているからな」
 小僧と呼ばれたことに少しムッとしながら、少年は言った。幼い声だ。歳の頃十二・三といったところか。ざんばら髪だが顔立ちは良く、凛々しい少女のようにも見える。
 それにしてもこの顔、どこかで見たような……。

「あーっ!」
 思わず叫んでしまった。

「あんた、曹公の隠し子だろ! 絶対そうだ、そうに違いない。親戚にしては顔が似過ぎてんだよ。やっぱりなあ、あっちこっちに子種をバラまいてやがんだから。ましてここは主公の生まれ故郷、隠し子のひとりやふたり……」
「隠し子とは無礼な! オレはれっきとした曹家の嫡男、曹操であるぞ」

 は……?

「あんた……主公……? いや、ええと、もしかして、吉利(きつり※曹操の幼名)って呼ばれている?」
「よくわかっておるではないか。阿瞞(あまん※曹操の幼名)のほうが通りは良いが」
 ……本人だ。

「つかぬことを伺いますが、今年は何年の何月でしたっけ」
「幽鬼も暦が気になるのだな。今年は建寧(けんねい)二年の五月。霊帝(れいてい)の御世だ」

 ということは三十三年前。ゲゲッ、ボクまだ生まれてねーじゃん。死んで霊魂が抜け出しただけじゃなくて、過去の時間に迷い込んでしまったなんてこと……。

「ふふ」
 突然、曹操少年が笑いだした。含み笑いからいくつかの段階を経て青空に響く高笑いへと展開する。
「脈絡のない大笑い……紛れもなく主公だ」
「面白い。オレは幽鬼というものに会うのは初めてだ。おまえ、名はなんと言うか」
「あー、ボクは……阿蚕(あさん)」
 なぜか幼名を答えてしまった。

「よし阿蚕。オレについて来い。今日はある人物がショウに来ているから会いに行くんだ。そいつに阿蚕を紹介してやる。ふふ、面白いことになるぞ」
 果てしなく嫌な予感はしたが、好奇心も手伝って郭嘉は曹操について行くことにした。


 郭嘉を伴って曹操が訪ねたのは、重厚な門構えの館だった。大富豪の別邸というやつだ。
 曹操の顔を見止めると、門番は待たさずになかへと通した。郭嘉のことは見咎められなかった。

 そして客間で曹操を迎えたのは、郭嘉も知っている人物だった。郭嘉の思い描く顔よりは随分若いが……そう、嫌な予感は的中したのである。

「……来なきゃよかった……」

 郭嘉が後悔したのは、現われた人物が例のあの男だったからではない。その男の顔を見た曹操の瞳が、予想以上に喜びに輝いていたからだ。

「本初(ほんしょ※袁紹の字)……! 久しぶりだな! 元気にしていたか」
「おう。阿瞞、おまえは相変わらず……あまり背が伸びないな」
「ぬかせ。オレは伸び盛りだぞ。今に本初なんか追い抜かしてやるからな」
「ハッハッハッ。賭けるか? もしもおまえの背がオレを追い抜かさなかったら、おまえは一生オレのモノだ」

 ……笑う。ではなくて、まるで恋人同士の睦言のような会話など聞きたくもなかった。よりにもよって、曹操と袁紹の。
 しかし……、ちょっと待てよ。
 郭嘉はいつ袁紹が自分に声をかけるかと身構えていたが、いっこうに声をかけられないばかりか、視線すら感じない。それ以前に、紹介すると言っていた曹操も、まるでそのそぶりを見せない。

 と言うことは、自分は曹操以外には見えていないのではないか。そういえば、門番もまるっきり無視してくれていた。

 郭嘉がそのことについて思いを巡らせていると、曹操は伸び上がって袁紹の首筋に口づけし、あろうことかその体勢のまま郭嘉の顔を見てにやりと笑ったではないか。

 ……このクソ餓鬼。
 気づいている。このクソちび小僧は。
 曹操は自分にしか郭嘉の姿が見えないことに気づいていて、わざと見せつけているのだ。
 面白いことになるとは、こういうことだったか。

「アホくさ。帰ろ」
 将来自分の君主となるはずの、このクソ子憎たらしいちびすけを殴って押し倒して犯したい衝動をぐっと呑み込み、郭嘉はくるりと背を向けた。

 こんな場面には一時も一緒にいたくない。帰りたい。だが、いったいどこへ。
「あ、ちょっと待てよ阿蚕。これからが楽しいのに」
 曹操は郭嘉の着物の裾を掴んで引き留めた。見えるだけではなくて、触れることもできるらしい。

「おい阿瞞、おまえいったい誰としゃべってるんだ」

 袁紹が曹操の耳元に唇を寄せ、にやにやしながら言う。曹操の奇行には慣れているのだ。袁紹には郭嘉の姿も見えなければ、声も聞こえない。

「オレたちと一緒に幽鬼がいるんだ。おまえ、幽鬼とヤッたことあるか? 本初、奥の間に行こうぜ。おまえとオレと幽鬼と、三人で……。な、きっと楽しいぜ」
 蠱惑的な瞳をキラリとさせて、曹操は赤い舌先でちろりと唇を舐めた。
「お……。いいだろう。来いよ」
 袁紹には誘いの口実としか聞こえなかっただろう。
「……そういうつもりか。不良め。ようし、乗ってやろうじゃないの」

 はらわたが煮えくり返るとはこのことか。生きている間には感じたことのない激しい感情を、死後になって噛みしめることになるとは。などと自分で自分を皮肉りつつ、郭嘉は曹操に誘われて奥の間へと入っていく。

 若い袁紹は曹操を寝台に押し倒すと、執拗に長い接吻をした。曹操が息苦しくなって顔を背けても無理やり舌をこじ入れる。曹操は咳き込み、声変わり前の声で笑う。袁紹の手が曹操の着物を剥ぎ取り、しなやかな裸体のその深部へと指を進める。

「あ……ッ、本……、初……」
 曹操の体がビクンと跳ねる。そして荒い息を小刻みに吐きながら、曹操は郭嘉に腕をさし伸ばした。
「阿蚕……。来いよ……。阿蚕……。一緒に……。アァ……」

 阿蚕。それは本当に郭嘉の名前だった。布にくるまってばかりいる無口な子供につけられた幼名だった。大嫌いな名だから、主君には教えていない。

「わかりました。行ってやろうじゃないッスか」

 郭嘉は曹操に覆いかぶさっている袁紹に飛びかかると、髷を掴んで引き起こした。
(おっ、掴める)
 その勢いで思い切り腕をしならせ、袁紹の体を柱に向かって放り投げる。そ して曹操の両肩を支えて抱き起こすと、おもむろに唇を押し当てた。ゆっくりと。ゆっくりと。後ろで袁紹が起き上がろうとするたびに踵で蹴飛ばしながら。

 十四歳の曹操の小さな唇を大切に包みこみ、粘膜に丁寧に熱を押し入れるような、深い深い接吻をした。

「主公。覚えておいてくださいよ。ボクは未来にあなたに逢いに行きますからね。そしてあなたを、あいつの呪縛から解き放ってさしあげますからね。主公、ボクは……、ボクはあなたを愛……」

 そこで辺りが真っ白になり、意識が途切れた。

 ***

「奉孝……!」
 体のブレが乱暴に修復されたかのような衝撃とともに、郭嘉は目を覚ました。
 目の前には曹操の、少年ではない、おじさんの曹操の顔がある。
「主公……」
 郭嘉は微笑んだ。

「老けましたね……」

「なにを言っておる。今朝おぬしが目を覚まさないと隷に聞いて……。蒼褪めた顔が死体のようで。息すらしていないようで……。わしはもう、おぬしは死んでしまうのかと……」

 曹操の背後には、いろいろな顔があった。隷と、医師と、幕僚たち。どうやら本当にヤバかったらしい。今は何時だろう?

「ボクは死にませんよ。まだね」

 郭嘉は寝台に上半身を起こした。久しぶりに自分の体を動かすような気がする。ひどく重苦しくてギシギシと骨がきしむ。生きるということは、やはり、……ダルい。
「主公、唇が切れて血が滲んでますよ。唇をずっと……噛んでたんですね」
 郭嘉は曹操の顔をそっと引き寄せると、唇を重ねた。
 深く、ゆっくりと。
 曹操の息遣いと、周囲で幕僚たちが息を呑むのが感じられた。

「ほうこ……」
「懐かしいですか? この口づけ」

 あれは夢だったのかもしれないけれど。

「あんな奴のより、ずっとずっといいでしょう? このほうが。だからね、あんたはもうボクの君主なんだから……」
 まるで生娘のように首まで真っ赤になった曹操をじっと見詰めて、郭嘉は言った。

「袁紹のことなんか、もう忘れちまえってことッスよ!」



おわり





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