***

 城下の繁華街で、騒動があったようだ。
 罵声と、物の割れる音。流蝉(るせん)は、騒ぎの聞こえる飲み屋を覗きに行った。
 野次馬の人だかりをかき分けて店に入ると、若い男が数人の酔っ払いに袋叩きにされているのが見えた。
 若い男は、反撃する力もなく背中を向けてうずくまり、酔っ払いたちのされるがままになっている。
「なんだこいつ、ぜんぜん弱いぞ」
「生意気な口ばかりたたきやがって、なさけねえ男だぜ」
 酔っ払いは下卑た笑いを浮かべながら口々に言う。
 若い男が肱をついて起き上がろうとすると、後ろ頭を踵で蹴り落とした。
 若い男は叫び声ひとつあげすに、地べたに転がった。
 流蝉はハッとした。鼻血を流し、いたるところに痣をつくっているにもかかわらず、男の顔は端正だった。
「奉孝さん!」
 給仕の娘が悲鳴をあげる。
「うるせえ、女どもはすっこんでろ。最初に絡んできたのは、こいつのほうなんだぜ。ったく、最近の女どもときたら、やさ男と見りゃあ目の色を変えやがる」
 吐き捨てるように、酔っ払いのひとりが怒鳴った。
「旦那方、喧嘩ならよそでやってくれませんかねえ」
 店主が出てきて、溜息混じりに言う。
「おう、おやじ、迷惑かけるな。弁償なら、こいつにさせればいいぜ。なんせ、こいつは朝廷のお偉いで、銭ならあり余っているそうだからよ」
「奉孝さんはここんところ、ツケばっかりですよ」
 呆れたように、店主。
「ケッ、どこまでも胸クソの悪い男だぜ」
 酔っ払いは、若い男の顔に唾を吐きかけた。
「はいはいはい。旦那方、ちょっとどいておくんな。ああ、やっぱりこの男だよ」
 流蝉は、パン、パン、パン、と手を打ち鳴らしながら、倒れた男のほうに近寄った。
「な、なんだおめえ」
 突然割り込んできた女に、酔っ払いが気の抜けた声をあげる。
「この男に金貸してるんだよ。はやいとこ返してもらわないと、にいさんたちがうるさいからね。悪いけど、この男は連れていくよ」
 呆れ顔の酔っ払いたちをよそに、流蝉は男を抱き起こす。
「立てるかい」
 男は鼻血を手の甲で拭うと、よろよろと立ち上がった。
 流蝉は肩を組んで男を支えて歩いた。野次馬たちがゲラゲラ笑いながら道をあける。
「ちょっと、お客さんお勘定は」
 店主が大声で、男の背中に呼びかける。
「ツケ」
 男は振り返らず、ボソリとした声を返した。

「あんた、名前なんていうの」
 冷たい井戸水に濡らした布で、腫れた顔を拭ってやりながら、流蝉は男に話しかけた。
 陽は傾き、井戸のわきに建てられた掘っ立て小屋の長い影のなかに二人はいた。
「郭嘉」
 男はボソリと応えた。
「字は奉孝」
 こめかみの切り傷に布を当てると、郭嘉はうっと顔をしかめた。
 流蝉の手から布を受け取り、片手で傷を押さえる。
「奉孝さんかい。ちょっと名前負けしてるねえ。おっと、気を悪くしないでおくれよ。あたしは流蝉。流れ者の流蝉っていうんだ」
 郭嘉は流蝉にけだるそうな一瞥をくれると、立ち上がった。
 流蝉に布をおしつけるようにして返し、足をひきずりながら歩いていく。
「あん」
 流蝉はあわてて郭嘉を追った。
「ちょっと奉孝さん、助けてやったんだからさあ、礼を言うとかなんとか」
 郭嘉は黙って歩き続ける。
「ま、いいけどさ。あんた、家どこ? 実はあたし、今夜帰るとこないんだ」
 郭嘉は立ち止まり、流蝉を振り返った。
「……うちくる?」

***

 流蝉を驚かせたのは、思いのほか立派な郭嘉の家の門がまえだ。
「へえー、あんた、もしかして本当に金持ち? なかなかどうして、へえー」
 しかし、中に入ると、なにかが違うなと感じた。
 家の中はガランとして人気がなく、暗かった。
 そこには、生活のにおいというものがなかった。
 灯りひとつない廊下を、流蝉は郭嘉の足音だけをたよりに歩かなければならなかった。
 辺りはすっかり闇だった。

 郭嘉がその部屋に入ると、様子は一変した。
 扉を開けたとたんに橙色の明かりのなか、にぎやかな光景が流蝉の前に広がった。
 まず目に飛び込んできたのは、床に敷き詰められた無数の竹簡だった。それは無秩序に、あるものは丸めたまま積み上げられ、あるものは広げられ絡みあい、複雑に折り重なり、まるで蛇の群れのように、ひしめきながらうごめいて見えた。
 その間を縫うように、色とりどりの着物がそこらじゅうにちらばり、帯が棚から棚へと立体的にひっかかり、垂れ下がっていた。寝台の上についたてが斜めに 倒れこみ、間からくしゃくしゃになった桃色の蒲団がのぞいていた。郭嘉は毎夜、あの三角の空間に身体を押し込めて眠るのだろうかと流蝉は思った。

「奉孝さんってさあ、……独身?」
 流蝉は部屋をぐるりと見まわしながら、ぼんやりとつぶやいた。
 これは部屋というよりも巣だな、と流蝉は思った。
「うん。よくわかったな」
 郭嘉は竹簡の山に分け入りながら言った。よく見ると、そこには獣道のような溝ができていた。
「……なんとなくね」
 てきとうに座っといて、と郭嘉は言って、反対側の扉を開けた。
「隷、帰ったぞ」
 奥の間に向かって呼びかけた。
 座っといてって言われても、どこにそんな場所があるっていうのよ。そう思うと、流蝉は苦笑した。
「あ、おかえりなさい、ご主人様。そろそろ帰ってくる頃だと思ってました」
 若い声がして、奥の間から少年がひとり出てきた。
 少年は郭嘉の姿を見ると驚き、器用に竹簡の間を点々と跳んで、主人のもとに駆け寄った。
「ご主人様、どうしたんですかその顔! また酔っ払いに喧嘩をふっかけたんですか!?」
「ああ」
 郭嘉はボソリと応えた。
「売った喧嘩で勝てたことないでしょう。ああ、こんなに腫れて……。薬をつけないと。すぐにお医者様を呼んできます」
「冷やしたから大丈夫」
「ダメですよ、ちゃんと診てもらわないとダメです。じっとしていてくださいね!」
 少年は前も見ずに数回の跳躍で出口までたどりつき、走り去る。
 出ぎわに流蝉を見て、
「あ、お客様、ようこそお越しくださいました。ご主人様をみていてくださいね」
 声をかけていくことも忘れなかった。

「かわいい子ね。しっかりしてそうだし」
「うん」
 郭嘉は寝台に倒れこんでいるついたてを反対側に蹴倒すと、あいた場所に流蝉を座らせた。
「そこにいて」
 そう言って、自分は奥の間へと消えた。
 そのまま、流蝉は放っておかれた。
 そして流蝉は、やることもなくて、ぼんやりと座っていた。
 これ以上ないくらい雑然とした部屋は、しかし奇妙な居心地のよさがあった。
 このままだれも帰ってこなくて、ずっとここに座っていることになっても、それはそれでかまわない。
 なんとなく、流蝉はそんなことを考えた。
 突然、郭嘉が去っていった奥のほうから、すさまじい音が響いてきた。
 鍋を棚から引っぱり出したら床に落ちて、その拍子に棚ごとひっくりかえって、並べてあった陶器が連鎖的に割れた。
 そんな音。
 驚いた流蝉が、音のした場所を見にいくと、そこに郭嘉がつっ立っていた。
 そして、聞こえたままの惨状が広がっていた。
「こんなところに台所があったのね」
 陶器の破片に気をつけながら、流蝉は郭嘉に近寄った。
「あ」
 郭嘉は頭をかきながら振り返った。
「湯を沸かそうかと思って」
 ボソリとつぶやいた。
「あぶないわよ。じっとして」
 流蝉は慎重に郭嘉の着物についた破片を手で払い落とした。
「はい、どいていいわよ。箒は……、ああ、あそこね。まかせといて。長年飲み屋で働いてたんだよ。こんなのは日常茶飯事さ」
 呆然とした表情の郭嘉を見上げると、流蝉は笑いがこみあげてきた。
 湯を沸かしてどうするのか。自分をもてなそうとしてくれていたのだ。
「本当に、どんくさい男ね」
 思わずそう言うと、郭嘉は一瞬心底傷ついたような顔をして、それから「どうせ」と言って部屋に戻っていった。

 しばらくして、少年が医者を連れて帰ってきた。
 背の高い初老の医者は、郭嘉を見るなり「よお」と言ってズカズカと寄ってきた。二人は顔見知りらしい。
「なんだ、また殴られたのか軍祭酒」
 郭嘉は、ちらりと医者の顔を見ると、横を向いた。
「だれだこのじじい」
 不機嫌そうに低くつぶやく。
「失敬だな。せっかく売れっ子名医の華佗先生が診にきてやったというのに」
「隷! このじじいだけは連れてくるなと前に言ってあっただろ」
 郭嘉は少年を見て怒鳴った。
「王先生がお留守で、偶然そこの道でお会いしたものですから」
 少年は苦笑しながら応える。
「いいから顔を見せろ」
 医者は、郭嘉の顎を人差し指で引き寄せ、真剣な眼差しを向けた。
 そして、持っていた包みから薬を取り出し、布に染まして傷口に丁寧に当てていった。
 薬がしみるのか、郭嘉は顔をしかめて逃げ腰になる。
「コラ、逃げるな軍祭酒。ちゃんと処置しておかないと、傷口が腐って見られない顔になるぞ」
「おおきなお世話だよ」
「またアイツが悲しむ顔を見るのか……」
 隷と呼ばれた少年は、心配そうに黙って主人を見詰めていた。
 流蝉も、その横に立って治療の様子を見守る。
 顔の手当てを一通り終えると、次に打撲の治療にかかった。
 郭嘉が着物を脱ぐと、流蝉はすこし切なくなった。
 郭嘉の肌には、背中にばかり傷があった。喧嘩ではいつも負けて逃げていることが、その傷からうかがえた。
 最後に、脈をとった。
 医者はひどく深刻な表情で、長いこと郭嘉の脈をとっていた。

 医者が帰ってから、隷が遅い夕食を作ってくれて、三人で部屋で食べた。
 台所の惨状は、隷にはショックだったらしい。
「ご主人様、なにかしようとされましたか!?」
 そのありさまをひとめ見ると、隷は主人に問いただした。
「湯を……」
 郭嘉が言いかけると、
「ご主人様は家のことはなにもしなくていいんです! なにもしないでください!」
 ピシリと言ってテキパキと片付けにとりかかり、流蝉が名乗り出ても、決して手伝わせなかった。
 そして、ちらかった部屋の思い思いの場所で、思い思いの格好で、三人はささやかな食事をとった。

***

 夢も見ずに、ぐっすり眠ったのは何年ぶりだろう。
 ふと目を覚ますと、寝台で夜具にくるまって、流蝉はその部屋にいた。
 辺りは、ほんのりと明るい。
 横には、郭嘉が眠っていた。殴られた痣が痛々しかった。睫毛が長くて、寝顔はどこかあどけない子供のようだった。
 昨夜は、なにもなかった。二人は、ただ姉弟のように共に眠っただけだ。
 隷は台所で眠っている。自分はいつも台所で眠るのだと隷は言った。
 この広い家で機能しているのは、台所とこのちらかった部屋だけだ。
 まるで小鳥の巣みたい、と流蝉は思った。
 木の上の、まるい小鳥の巣。

 そして、いつの間にかまた眠ってしまったらしく、気がつくと正午近くになっていた。

 流蝉は起き上がり、伸びをした。
 ふわり、いいにおいがする。
 郭嘉の姿はなく、台所に行くと、隷の後姿が見えた。
 隷は鍋の前で、匙で汁を掬って味見をして、それから振り向いた。
「あ、流蝉さん、おはようございます」
 そう言って、白い歯を見せた。
「おはよ。いいにおいね。芋汁?」
「もうちょっと待ってくださいね。いま最後の仕上げを」
「奉孝さんは?」
「ご主人様は、出仕されました」
 へえ、あいつ、勤めに出てるんだ。流蝉は、少し意外に思った。
「奉孝さんって、どこでなんの仕事してるの?」
「ご主人様は司空府に行かれました。お勤めの内容は、ぼくはよく知りませんが」
「へえ」
 隷があまりにさらっと言うので、流蝉はその言葉の意味がなかなか思い出せなかった。
 司空府? 司空府ってなんだっけ。
「ええっ、じゃあ奉孝さんって、本当に朝廷のお役人なの!?」
 流蝉が叫ぶと、隷は、キョトンとした顔で振り返った。
「朝廷といっても、ご主人様は曹公の直属ですよ。軍祭酒というお役職です」
「はあ……」
 曹公の直属。曹公といえば、今をときめく成り上がりの宰相だ。曹公といえば、あの男のことだ。
「芋汁、楽しみにしてるわ」
 うわの空で、そんな言葉がこぼれる。
 流蝉は部屋に戻り、竹簡の山のなかにへたりこんだ。

 白い湯気。芋汁の匂い。朝ねぼう。きままな部屋と、きままな食事。じだらくな主人と、幸せな奴隷。
 そんな家に生まれついた夢を見る。
 そう、きっとこれは夢だ。
 流蝉は、ぼんやりと天井を見上げた。手足をほうりだし、ごろんと仰向けに寝転がる。
 隷が、芋汁を持ってやってくる。
 流蝉を見て、できましたよ、また眠くなっちゃったんですかと言う。

 焼け野原になった徐州が見せた白昼夢だ。

***

 司空府は、許城の東の外れにある。
 許都の実権を握る司空曹操(字 孟徳)と、尚書令の荀イク(字 文若)をはじめとする幕僚たちは、戦のない時期、一日の大半をそこで過ごす。郭嘉も、昼間は膨大な量の政務をかかえ、幕僚たちと司空府で過ごすことが多い。

 郭嘉が怪我をしてくると、荀イクは気が気ではないし、曹操は機嫌が悪くなる。
 機嫌が悪くなるというのが、実は裏腹で、本当は心配でたまらないのを抑えているのだ。
 そんなとき、常に冷静なはずの謀臣荀イクまでもが、なにやらそわそわして落ち着かない。
 幼い頃から病弱だった郭嘉の才能に目をかけて、両親にかわって手塩にかけて育ててきた荀イクは、自分が郭嘉を殴るのは平気でも、他のだれかに郭嘉が殴られるのは我慢がならないのだ。
 機嫌の悪い君主と、うわの空の補佐のもとで、幕僚たちの間にはなんとなく「やってらんねー」という空気が流れ、政務ははかどらない。
 皮肉なことに、当の郭嘉だけが普段とかわらない様子で、淡々と仕事をこなしていくのだった。

 政務が終ると、郭嘉はひとりでさっさと帰ってしまう。
 曹操は目をこらし、必死に追いかけて、やっとの思いで郭嘉をつかまえた。
「おい、奉孝、ちょっと待て」
「なんスか、主公」
 曹操が呼び止めると、郭嘉はけだるそうに振り向いた。
「なんスか、ではない。どうしたんだ、その顔」
「顔?」
「痣だらけではないか。あきらかに、だれかに殴られただろう」
「ああ、まあ」
「どこのどいつだ、殴ったのは」
「文若にーさん」
 曹操の後ろで、荀イクがギョッとして言葉を呑んだ。
「……に、殴られたことならありますよ。何度も」
「まことか?」
 曹操が背後にいる荀イクを振り向く。
「昔のことです。その、男どうしの……」
 うんざりした様子で、荀イクは応えた。
「ふむ。昔のことはよい。その痣はだれにやられたのかと訊いておる」
「覚えてませんよ。飲み屋でたまたま居合わせた連中です」
「絡まれたのか?」
「おまえらの顔ムカつくっ言ったら、殴りかかってきたんです」
 曹操と荀イクは、同時に溜息をついた。
「わかった。絡んだんだな」
 曹操は眉間に皺を寄せて、じっとうつむき黙り込んだ。
 叱り飛ばすべきか、冗談のひとつでも言ってすますべきか、葛藤しているのだ。郭嘉にはそんな曹操の心情が手に取るようにわかった。郭嘉は黙って腕を組み、曹操の眉間をおもしろそうに眺めた。
 こういうとき、荀イクはたまらなく、郭嘉を殴ってやりたくなる。

「……奉孝、あまり孟徳さまを困らせるな。おまえはもうすこし自分の非力さを知るべきだ。いままでに一度だって、喧嘩を売って勝てたことはあるのか? い やしくも我が軍の参謀が、あまりにもなさけないぞ。そんなことを繰り返していたら、いつか本当に、だれともわからぬ輩に殺されてしまうぞ」

 荀イクの言葉は、郭嘉の右耳から左耳へと通り抜けた。
 郭嘉は、にやにやと曹操の眉間を見詰めている。
 と、曹操はパッと顔を挙げた。そして、郭嘉の目を見て言った。
「奉孝、いまからおぬしの家に遊びにいってもいいか?」

***

 なんにもしなくていい午後。
 流蝉は部屋から一歩も出ずに、ぼんやりと郭嘉の帰りを待っていた。
 午前中に家事をすませた隷も、午後は流蝉とともに部屋で過ごした。
 ねっころがって、そこらへんに落ちている竹簡を読む。
 流蝉は文字が読めないので、そんな隷を眺める。
 隷の髪は短く、肩の上で切りそろえてある。
 こまめに洗っているらしく、風が吹くと、サラサラと揺れてきれいだ。
「髪、のばさないの?」
 ふと、流蝉は隷に訊ねた。
「え?」
 隷は竹簡から顔を挙げた。
「髪ですか」
「そうよ。かわってるわね。短いままで」
「へんですか?」
「似合ってるけど」
 隷は微笑んだ。
「似合ってるなら、このままでいいです」
 そしてまた、竹簡の上に目を落とした。
 窓の外、ゆっくりと雲が流れていく。
「ねえ」
 流蝉は隷に話しかける。
「なんです」
「文字が読めるのね。奴隷のくせに」
 隷は顔を挙げて流蝉を見た。
「ご主人様には言わないでくださいね。ぼくが文字を読めるって、知らないですから」
「秘密なの」
「秘密です」
 そう、と流蝉は言った。
 空を見る。
 雲のかたちが、さっきとは変わっている。
「ねえ」
「なんです」
「本当の名前はなんていうの」
「本当の名前?」
「隷が本名じゃないでしょ、まさか」
 隷はぱちぱちとまばたきをして、うーんと考えた。
「そういえば、子供の頃は、ほかの名前で呼ばれていました」
「でしょう。なんて呼ばれてたの。教えてくれたら、あたしはそっちの名前で呼ぶわ。隷なんて、ふざけてるもの」
 隷は無表情で、ことさらにまばたきをした。
 そして、
「子供の頃の名前は忘れました」
 と言って、また黙って竹簡を読みはじめた。
 もしかしたら気を悪くしたのかもしれないな、と流蝉は思った。

 時はまどろむように過ぎ、夕方になった。
 隷は竹簡を置いて立ち上がり、夕食のしたくを始めた。
「手伝わせて。あたし、料理は得意なんだ」
 流蝉はそう申し出て、隷のとなりに立った。
 改めて見ると、台所は驚くほど整理整頓されていた。
 そこが隅々まで考えつくされ、あらゆるものが機能的に配置されていることが、 流蝉にはよくわかった。
 郭嘉の部屋とは、まさしく対照的だ。
「部屋は奉孝さんの場所。台所は隷の場所。はっきり分かれてるのね」
 野菜をきざみながら、流蝉はつぶやいた。
 あんなに嫌いだった台所に、あたしは自分からやってくるんだわ。
 あんなにも逃げたかった飲み屋で、ろくでなしを助けようとしたり……。
 思い出したくないものに触れそうになって、流蝉はタン!と野菜のへたを断ち切った。
 隷が台所と部屋に灯りをともし、やわらかな橙色がまるく広がる。
 野菜の入ったあつものと、鶏肉の蒸し煮ができあがったころ、足音と笑い声が近付いてくるのが聞こえた。
「奉孝さんが帰ってきたわ。だれか連れてきたのかしら」
 流蝉は、部屋を見にいった。
 笑い声。とても楽しそう。あいかわらず、きたない部屋だなあ。部屋というよりは、巣だなこれは。だが、掘り出し物はありそうだ。そう言って笑う。扉を開けると、向こうの壁に大きな影がみっつ映っている。
 ひとつの影がゆらりと揺れて、流蝉を振り返る。
 影の主は、小柄な男だった。緋色の着物。漆黒の髪。細い顎。すんなりとした首筋。
 目じりの皺も愛らしいような笑顔で、男はただ物音に振り向き、部屋に入ってきた流蝉を見る。
 灯台の炎が揺れる。
 炎が揺れる。

「鬼、が……」

 喉から、勝手に言葉がこぼれおちた。
 突然、視界がねじれて、足もとがおぼつかなくなった。
 ひどく遠くに郭嘉がいるような気がした。助けを求めるよりも、とにかくこの部屋から出たいと思った。
 流蝉は踵を返した。時がひどく緩慢になり、なかなか一歩が前に出せない。
 影が覆いかぶさる。
 肩。熱。いきなり後ろから手をかけられた。
 それは三人のうち、一番背の高い男だった。
 振り返らなくても、気配でわかる。
 まるで後ろ頭にも目がついているようだった。
 小柄な男。背の高い男。そして、奉孝さん。
「女、さっきなんと言った」
 男が言った。
 流蝉はゆっくりと振り返った。
 表情が凍りついているのが、自分でもわかった。
「さっき、なんと……」
 背の高い男は、落ち着いた口調で繰り返す。
 流蝉は黙って、男を見上げる。声が出ないのだ。男は口もとだけで微笑んだような顔で、じっと流蝉を見詰めている。目鼻立ちが整いすぎて、仮面みたいな顔。
「よせ、文若」
 小柄な男が言った。
「女性を問い詰めるな。困っているじゃないか」
「孟徳さま」
 背の高い男は流蝉の肩から手を離し、小柄な男に対してうやうやしく一礼する。
「ご婦人、失礼した。突然来たから、驚いたのであろう」
 小柄な男は白い歯を見せた。思いがけず、子供じみた笑顔。

 流蝉は走り去った。

 廊下で、酒器を持ってやってきた隷が、突然走ってきた流蝉とぶつかる。
「おっと」
 反動でふらつき、酒器を落とさないようにバランスをとる隷。
「流蝉さん?」
 流蝉は振り向きもしない。
 そのまま、庭に走り出た。
 荒れた庭。空には満月がかかっている。
 走って、転んで、土の味。死んだふりをするんだよ。
 声が聞こえた。あの時、暗闇に、声が降ってきた。
 お嬢さん、死んだふりをするんだよ。
 あれは味方か、それとも敵だったのか。
 その次の瞬間、河に投げ込まれた……。

「なんだ、あの女」
 愉快そうに、荀イクは郭嘉を見た。
「さあ……」
 ぼんやりと応える郭嘉。
「さあって、おまえの女だろ。おまえの家にいたんだから」
「昨日飲み屋でボクを助け出してくれて、それから、なんだかついてきたんですよ」
「なんだと?」
 言ったのは、曹操だ。
「それでは恩人ではないか。奉孝、なにをぼんやりしておる。さっさと追いかけよ。なにがあったか知らんが、行ってなぐさめてやれ」
「ええ〜、なんでボクが……。だって、主公が原因ぽかったじゃないですか」
「だから、おまえが行くしかないであろうが。この部屋には連れ戻すなよ」
 あ、そーか、と言って郭嘉が重い腰をあげる。

「鬼が、と言いましたよね。あの女」
 荀イクが、手入れの行き届いた鬚をなでながら言った。
「そう聞こえたな。だが、聞き間違えかもしれぬ」
 曹操は郭嘉を見送ったまま、振り返らずに言った。その背中がどこか寂しげで、荀イクは「よしよし」となぐさめてやりたい気持ちにかられる。
「……」
 失礼します、と言って、隷が入ってくる。
「曹様、荀様、いらっしゃいませ。お酒をお持ちしました。なにかあったんですか? そこでご主人様と入れ違いましたが」
「なに。奉孝はな、好いた女性をむかえにいったのさ」
 曹操は、隷のほうを見てにこりとした。

 それほど苦労せずに、郭嘉は庭にうずくまっている流蝉を見つけだした。
「あのー、さ、どしたの?」
 郭嘉が声をかけると、流蝉はすっくと立ち上がった。
「なんでもないよ。ごめんね。あたし、出ていくよ」
「そう」
 郭嘉はボソリと言った。
 流蝉はそのまま顔を見せず、門のほうへと歩いていく。
「……あのさあ、べつに、出ていかなくてもいいんじゃね?」
 流蝉は立ち止まり、黙って郭嘉を振り返った。
「ほら、空いた部屋ならいっぱいあるから、さ」
 郭嘉はそっぽを向いて、頭をかいている。
「ごめんね」
 無表情で、流蝉はポツリとつぶやいた。
 本当は、ありがとうと言いたかった。

***

 鬼が来る。
 鬼は、集団でやって来る。
 白い服、白い旗をはためかせてやって来る。
 死体の山、血の河、そして炎でこの地を覆い尽くすために。
 鬼よ。鬼よ。
 徐州へようこそ!
 なかでもとびきりの空虚な眼をした鬼。
 おまえはあたしが呼んだのよ。
 さあ、あたしの周りのどうでもいいごたごたを打ち壊し
 この地をきれいさっぱりしておくれ。
 あたしは死体の山に隠れ
 炎を踏み越え
 血の河を泳いで解放されるわ。
 だから、ね。
 おまえの思惑通りには決してさせない。
 せいぜい殺すがいい。殺すがいいのよ。
 一度死ぬくらいなによ。なんともないわ。
 あの暗闇の向こう、
 あたしはどこへだって行けるんだから……!

 漏斗の穴に、渦を巻いて落ちてゆく。
 目じりから涙が一粒流れ落ち、くすぐったさに目を覚ました。
 もう明け方に近いのか、不均等な闇がやけに蒼い。
 さて、と流蝉は思った。
 ここはどこだっけ。
 あたしはだれだっけ。
 いまはいつだっけ。

 なんのためにここにいるんだっけ。

 横を見る。男が寝ている。
 ええと。
 奉孝さん。
 ふいに思い出し、口の中でコソリとつぶやく。
 だんだん目が慣れてきて、辺りの様子が見えてくる。
 小気味のいいほどちらかった部屋。夜の水面みたい、黒光りする竹簡。
 そう、あたしはまたこの部屋にいる。
 部屋を見まわしているうちに、流蝉は昨夜のことを思い出した。
 曹操が来たこと。
 その場から逃げ出したこと。
 郭嘉が迎えに来てくれたこと。
 郭嘉がいざなった、普段使われない物置のような部屋で、じっとしていた。
 少し離れた場所で、郭嘉は壁によりかかり立っていた。
 行かなくていいの? と流蝉は訊いた。
「べつに」
 郭嘉は応えた。
「べつに、あっちはあっちでやってるだろ。隷がいるし」
 それから、ひとことも言葉を交わさなかった。
 しばらくして、隷が顔をのぞかせた。
「お帰りになりますよ。いいんですか」
「ああ」
 と郭嘉は言った。
 それからまたしばらくして、「行く?」と郭嘉は言った。そうして二人で部屋に帰った。
 曹操と背の高い男の姿はなく、酒の残り香だけがただよっていた。
 流蝉はひどく疲れていた。
「ごめんね」
 そう言って寝台に腰掛けたところまで覚えている。
 おそらく、その後すぐに眠ってしまった。

 そうして、さっき目覚めた。
 部屋は深い蒼に沈み、しんと静まり返っている。
 郭嘉は、流蝉に背を向けて眠っていた。
 流蝉は、その広い背中を見詰めた。
 ふいに、郭嘉は「うん」と言って寝返りをうち、流蝉と向き合った。その目は開かれていた。
 蒼が、少しずつ透き通っていく。
 鳥が鳴きだす寸前の、張り詰めた静けさ。
 郭嘉の手のひらが、流蝉の豊かな胸を包み込んだ。
 着物越しに、椀のかたちに丸めて強く押し当てる。
「大きな胸だね」
 郭嘉はささやいた。
「大きな胸が好きなの?」
 流蝉が言った。
「うん」
 郭嘉はコクンと頷いた。
「あたしは嫌いだな。なにかと邪魔なのよこれ。重いし」
「……」
 郭嘉の肩が、かすかに揺れたようだ。
「笑ってるの?」
「笑ってるよ」
 それから郭嘉は流蝉の上にのしかかり、勢いよく着物を脱がせた。
 自分の着物も床に脱ぎ落とし、両手を流蝉の乳房にかける。
 片手で太腿を持ち上げ、膝の後ろに舌を這わす。不自然な格好で空気にさらされたその場所に、驚くほど冷たい中指が忍び込み、ツンと挿し込まれる。中心付近で小さな円を描きながら、徐々に押し広げていく。
 流蝉は声をあげない。
 濡れた音が小刻みに響くほどに、息を詰めて声を押し殺す。
 冷たい指は中心の奥深くに小さな粒を探り当てると、指の腹で執拗に転がした。粘ついた音が立ち、吐息と共に声が漏れそうになる。身体の筋という筋が緊張し、軋んで悲鳴をあげはじめる。
「あ、ああ……」
 どうしようもなく声が漏れると、瞬間、身体の力が抜けた。
 そこを狙いすましたかのように貫かれた。
 つるりと入り、奥の硬い部分に当たる。
 後ろ頭が夜具と擦れてざらついた音が響く。
 郭嘉は流蝉の腰を持ち上げ、硬いものを打ち砕くように、繰り返し突き上げた。
 そのたびに流蝉の身体はガクンと揺れ、意思とは関係なく反対方向に揺れ戻した。

 空が明るみ、鳥がいっせいに鳴きはじめる。

***

 流蝉は郭嘉の家に居ついてしまった。
 昼間は隷とともにぼんやりと過ごし、夜郭嘉が帰ってくると食事をとり、眠った。
 二人が言葉を交わすことは少なかった。
 郭嘉は、まるで流蝉を無視しているかのように過ごすこともあった。
 夜帰ってこないことも多かった。
 明け方、ふらふらに酔っ払って帰ってきた郭嘉を介抱するのは専ら隷の役目で、流蝉は水を汲んでくるくらいで、あまり触らせてもらえないのだった。
 流蝉は暇で、かといって部屋を出て行く気にもなれず、寝台で膝を抱えて長い時間何もせずに過ごした。なぜか、一度家を出ていくと二度と戻れなくなるのではないかという怖れがあったのだ。
 そして郭嘉の情欲が高まったときにだけ、二人は寝台で交わった。

 郭嘉がなかなか帰ってこないある夜、流蝉は灯台の炎を見詰めていて、ふっと奇妙な気分になった。炎に指先をかざして、爪に火をともしてみる。
 爪はジリリと黒く焦げて、へんな臭いが立ち昇った。以前にもかいだことのあるその臭いを、流蝉はよく覚えている。
 もし次に曹操が来たら、いや来なくても、郭嘉が寝ているときに、部屋に火をつけてみたらどうだろう。大量の竹簡が広げられたこの部屋はよく燃えるだろう。
 そして二人で炎に巻かれて焼け死ぬのだ。
 郭嘉を殺せば、曹操はきっと悲しむだろう。
 隷を巻き込んだらかわいそうだから、使いに出かけたときにしよう。
 復讐を果たせるし、郭嘉と一緒に死ねて一挙両得だ。
 炎は美しく燃え上がり、夜空を朱く焦がすだろう。
 その炎が見てみたい。
 その炎を見せてやりたい。
 そんなうっとりとした妄想も、郭嘉が帰ってきてひとめその姿を見れば、嘘のように消えてしまうのだった。

 一昨日より昨日、昨日より今日と、空が高く透き通っていく。
 窓枠に四角く切り取られた空の色。
 郭嘉はいないし、隷は買い物に出かけている。
 流蝉は足もとに転がっている竹簡を一本手に取った。
 巨大なうねる大河のような渾沌の岸辺に、流蝉は立っていた。
 流蝉は竹簡を棚の中に差し込んだ。
 次に、流蝉は開きっぱなしの竹簡をくるくると丸めた。
 そうして何本かまとめて、棚にのせていった。
 郭嘉の部屋に、小さな秩序が生まれた。

「ただい……まっ、わ、流蝉さん、なにやってるんですか」
 正午過ぎ、買い物袋を両脇にかかえて帰ってきた隷は、部屋を見て目を丸くした。
「片付けてるのよ。隷も手伝って」
 流蝉は額の汗をぬぐいながら言った。
 部屋は昨日までとはかなり様相が変わり、長い間陽の目を見ることのなかった床面がところどころ姿を現している。着物や帯が無造作に押し込まれていた棚には、端から竹簡がきちんと積み上げられ、規則正しい幾何学模様を描いていた。
「流蝉さん……、いいんですかこんなことして。ご主人様に無断で部屋を片付けたりして、きっと叱られますよ」
「だってあまりにきたなすぎるんですもの。本人に片付ける気がないんだったら、あたしたちがやるしかないじゃないの。見違えるようにきれいにして、奉孝さんを驚かしてやりましょうよ」
 隷はしばらくうーんとうなりながら考えていたが、ぱっと顔を挙げて、
「そうですね。実はぼくも前々から、ご主人様の部屋はあんまりだと思っていたんです」
 と言った。
 隷が加わると、部屋の片付く速度はぐんと上がった。
 部屋の中が整頓されていくにつれ、空気まで澄んでいくようだった。
 二人は片時も休まずに働いた。
 それは光かがやく充実した時間だった。
 竹簡の最後の一本が収まるべきところにピタリと収まり、床の隅に吹き溜まった一握りの塵を掃きだすと、二人は同時に歓声をあげた。
 最後の仕上げに、両端から、せえので床に雑巾がけをする。
 高い窓に暮れかけた空を見ながら、流蝉と隷は祝杯をあげた。
 目の前には、空を映す平らな床が、遠くまでつやつやと広がっていた。

***

 流蝉は確かに酔っていた。
 酔った心に、郭嘉の姿を見つけることはできなかった。
 薄闇の中に、沈黙の洪水。
 それで一気に酔いが醒めた。
 醒めた目で部屋を見渡せば、がらんどうで、まるで乾いた死体のよう。
 確かに、そこに郭嘉の居場所はなかったのだ。
 部屋の隅、隷がすすり泣いている。
 隷を泣かせてしまった。幸せな奴隷を、泣かせてしまった。それがなによりも、一番取り返しのつかないことのように流蝉には思えた。
「ごめんね」
 流蝉は部屋を出た。

 夕陽の尾っぽが消えそうで消えない黄昏刻、郭嘉は部屋に帰ってきた。
「ただいま」と言って扉を開け、そこで立ち止まった。
 そのときの郭嘉の表情を流蝉は忘れない。
 まるで、ひとりぼっちで路に迷った子供のようだった。
 どんなに喧嘩で負けようと、戦場で窮地に陥ろうと、幕僚に悪口を言われようと、決して破れることのなかった彼の鎧が、ふいに脱がされ無防備になった。それが郭嘉にとって、どれほど耐えがたいことだったか。
 流蝉は酔っていて気付かなかった。
「おかえり、奉孝さん。どう、驚いた?」
 のんきにそんな言葉をかける。
 郭嘉は我に返ると、速足で流蝉に近寄り、突き飛ばした。
「余計なことするなよ!」
 流蝉の襟首をつかんで引き寄せ、右の拳を振りあげる。
 その拳を隷がつかんだ。
 抱きかかえるように。そして必死の声で叫ぶ。
「ぼくがやったんです。ご主人様、ぼくが片付けました。だってあまりにちらかっていたものですから、あまりにひどかったものですから、思わず」
 郭嘉は拳を下ろし、流蝉を放した。
 無言で、額を床にこすりつけている隷を見下ろす。
 そのままフイと背を向けて、出ていってしまった。

 流蝉に出ていけと言うかわりに、郭嘉は出ていった。
 醒めた流蝉には、そのことがよくわかった。
 あのとき流蝉は酔っていた。酒だけではなく、何かに。
 自分がなにをしたか、今でははっきりとわかる。
 一本の樹の上、たったひとつの巣を拠点に大空を飛びまわる鳥が、帰ったら巣がなくなっていたら。
 けどそれが?
 廊下の暗闇を歩き抜けながら、流蝉は考える。
 たったそれしきのことで、なぜああも揺らぐ。
 あたしなんか、故郷を焼かれたのよ。
 鬼よ。鬼よ。あたしの白い鬼。
 複雑に絡まった糸はきれいに燃やして。
 あたしに余計なことを考えさせないで。
 流蝉は舘を出、門を出たところで立ち止まった。
 星空を見上げ、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
 そして叫んだ。
「バッッッカヤローーーーー!!!!!」
 夜が揺らいだようだ。

 己の影が強く意識される夜更け。曹操は司空府の居室で泊り込みの政務をしていた。
 灯芯の焦げるジリリという音も聞こえるようだ。と、こつり、と音がして、帳に巨漢の影が映った。
「なんだ、虎痴」
 曹操は筆を止めずに言った。
 虎痴とは曹操の護衛、許チョのあだ名である。
「ご主君、郭軍祭酒がお見えです」
 抑揚のない声で、許チョが言った。
「なんだと、奉孝が。こんな時刻にか。すぐに通せ」
 曹操は筆を持ったまま立ち上がった。
 郭嘉は許チョに支えられ、曹操の居室に入ってきた。曹操の顔を見ると、郭嘉は許チョの腕を振り払った。といっても、郭嘉の細腕が逞しい許チョの腕を振り払えるわけもない。許チョが手を放したのだ。
 ひとりになったとたんに郭嘉はフラフラッとよろめき、曹操の前に倒れこむようにつっぷした。
「酔っているのか、奉孝」
 曹操はすぐさま郭嘉のもとに駆け寄った。
「酔ってないない」
「うそつけ。酔ってる」
 郭嘉はつっぷしたまま、ウフフと笑った。そして、
「女ってやつは」
 うなるような声で言った。
「ふむ。女ってやつは?」
「いともやすやすと骸骨と舞踏する」
 曹操が吹き出した。
「そりゃ傑作だ」
 曹操は髭をなでながら、ははーんと言った。
「わかったぞ。あの女だな。このわしを鬼と呼びおった」
 郭嘉は床に肘をつき、よいせ、と起き上がった。
 その勢いで、曹操の唇に軽く接吻。
 曹操、硬直。
「文若にーさんには内緒だよ」
 郭嘉は舌先で上唇をぺろりと舐めた。
 曹操はゆっくりと視線をあげる。
 脚。腰。胸。逞しい肩。そして許チョと目が合う。
「さがってよいぞ、虎痴」
 曹操が言うと、許チョは「はい」と短い返事をして、カキッと身体の向きを変えて出ていった。
「知性が筋肉に埋もれているんです」
 しれっ、とした顔で郭嘉が言う。
「怒るぞ。失礼なことを言うんじゃない」
 低い声で言うと、曹操は立ち上がった。
「酒臭いな。用がないんだったら帰れ」
 机の前に戻り、筆を取る。
「……」
 しばし、沈黙の間。郭嘉はキョトンと曹操を見ている。
「わしはお仕事してるのっ」
 沈黙に負けた曹操が大声で叫んだ。
 すると郭嘉はにぱっと笑い、ずるずると這って曹操のほうへ行く。
「しゅー、こー、うっ」
「のわっ、蛇かおまえは」
 机の下からにゅっと首をのぞかせた郭嘉に、曹操がのけぞった。
「こんな時間に仕事なんかしてたら、天下はとれませんよ」
「おおきなお世話だっ」
 郭嘉はずるずると机の下から這い出て、曹操の横に座った。ようやく落ち着いたのか、ほっと一息つく。
「主公、歌ってください」
 真面目な声で、郭嘉が言った。
「なんだ、突然」
「主公の歌が聴きたいんです」
「こんどな」
「今ここでぇ〜聴きたいんですぅ〜」
 郭嘉は駄々っ子のように身悶えした。
「こんな時間にか」
「いいんス。ボクは主公の歌が好きなんス」
 仕方ないな、と言って曹操は立ち上がり、壁に立てかけてある琴を手に取った。
 それは頸の長い、西域風の五弦琴。
「リクエストは」
 楽坐を組み、不敵な目の曹操が言った。
「はーい、戦の歌がいいでーす。なんでもいいから、戦の歌!」
 曹操の前で、郭嘉が元気に手を挙げる。
「了解」
 曹操はまず音取りをし、それから一呼吸置いて歌いはじめた。

 郭嘉は胡坐をかき、静かな表情で聴いた。
 やがて仰向けに寝転がり、頭の後ろで手を組んだ。
 彼は今、荒野で星を見あげている。
 上空を風が吹き渡り、ところどころでヒュルヒュルと舞っている。
 その音を聴いているうちに、いつの間にか郭嘉は、ちいさな子供の頃の姿に戻っていた。
「帰りたくないの」
 ちいさな子供の彼はぽつんとつぶやいた。
 そう、帰りたくないの
 風が言った。
「どこにも帰りたくないの」
 どこにも帰りたくないのね
「ずっと逃げていたいの」
 ずっと逃げていたいんだって……

 スッと空気の色が変わった。
 なぜかしらそれを肌で感じ取った曹操は、琴を弾く手を止めた。
 曹操は、息をひそめて郭嘉を見やった。
 琴を置き、羽織っていた上着を脱ぐと、ふわりと郭嘉のうえにかけてやる。
「戦の夢を見るか。おやすみ、奉孝」
 穏やかな寝息をたて、郭嘉は熟睡していた。

 さても百万の骸骨と踊る流蝉かな。

***

 そのまま司空府に泊り、政務を終えて郭嘉が家に帰ると、門の前に流蝉がいた。
 門柱を背に、膝を抱えて座っている。
 どうやら昨夜からずっと座りこんでいるようだ。
 郭嘉は一瞥もせずにすたすたと門をくぐり、すれ違いざまに
「バーカ」
 とつぶやいた。
 流蝉は言い返しも泣きもしない。
 門が閉ざされても、同じ格好でじっと座り続ける。
 郭嘉が部屋に帰ると、隷の喜びようといったらなかった。
「ご主人様、お帰りなさいませ。本当によく帰ってきてくださいました。きっと今日お帰りになると思って、ご馳走を用意してお待ちしていたんですよ。ご主人様の好物ばかりですよ」
 隷は仔犬のように郭嘉の周りをぐるぐるまわりながら言った。
 それなのに郭嘉はひとこと、
「いらない」
 と言って、広々とした部屋の隅っこの寝台まで行くと、勢いよく帳を閉ざしてしまった。

 次の朝も、流蝉はいた。昨夜とまったくかわらない様子で、膝を抱えていた。
 郭嘉は無視して門を通り抜けた。
 政務を終えて帰ってくると、やはり流蝉はいた。
 そして郭嘉はその夕も、食事に手をつけなかった。
 三日目にもなると、司空府で噂がたちはじめた。
 普段から仲の良くない幕僚は、郭嘉を見ると後ろ指さしてヒソヒソとささやき合い、とりわけ生真面目な連中ははっきりと嫌悪の感情を示した。
「奉孝、そなたの家で門前に女性が閉め出しをくらっているそうだな。飲まず食わずで、かわいそうに。入れてやったらどうだ」
 噂の発信源がやってきて、郭嘉に訊ねた。
「主公、放っといてください。これは勝負なんだ。ボクと彼女との勝負なんです」
 郭嘉はギロリと己が主君を睨んで言った。
 郭嘉は少し痩せたようだ。頬骨の下に影が落ち、全体に鋭角で、そのぶん普段から鋭い眼光がいっそう炯々としている。
「あまり意地を張るなよ」
 そう言って曹操は若い軍祭酒の背中をぽんと叩くと、去っていった。

 郭嘉は意地になっていた。
 彼にしては珍しいことだ。
 門前に座り込む女を無視しつつ、まるで無視できていない。
 その証拠に、郭嘉は三日前から、いっさい食事をとっていないのだ。
 いまや郭嘉と流蝉は敵対関係にあり、先に食べ物を口にしたら負け。
 なぜか郭嘉はそう決め付け、受けて立っている。
 確かな理由もなければ根拠もない、それは正しく単なる意地だった。

 しかし三日目ともなるとちょっとキツい。
 家が近付くと、郭嘉はすぐに門に入らず、筋向いにとめてある荷車の陰から様子をうかがった。
 流蝉は相変わらず門柱の前で膝を抱えている。
 涙の跡すらない、むっつりとしてふてぶてしい姿である。
 だが、敵もそろそろ空腹がこたえているはずだ。
 郭嘉はじっと敵情観察。
 すると、予想だにしなかったことが起こった。
 流蝉は懐に手を入れ、包みを取り出した。膝の上で包みを開くと、中から赤いものが現れた。流蝉は赤いものをひとつつまむと、口に運んだ。
 干し肉。
「……撤退!」
 郭嘉は荷車の陰から後じさり、背後の狭い路地に退いた。

「あーおいしかった」
 流蝉は干し肉の包みを閉じ、懐にしまった。
 溜息ひとつ。
 いったいいつまでこんなことを続ける気なの。
 一番星を見上げ、流蝉は自問する。
 郭嘉が好き。郭嘉の顔が好き。子供みたいな寝顔が好き。冷たい指先が好き。喉仏と背中が好き。けれどここを立ち去れない本当の理由は、たぶんそれだけじゃない。一度ここを立ち上がったら、次の場所を見つけなければならないから。生活をはじめなければならないから。
 だからとりあえずここにいて、あげくに郭嘉を困らせてる。
 最低だ。
 郭嘉に抱かれたいな、と流蝉は思う。
 もう一度あのきたない部屋で郭嘉に抱かれたいな。
 じだらくと、隷という少年と、また三人で暮らしたい。
 この期に及んで、あの部屋が懐かしい。自分で壊したくせに、懐かしくてたまらない。
 懐かしくて恋しいよ。

 夜風が吹きはじめ、頸もとが冷たかった。
 流蝉は膝に顔を埋めた。
 足音が近付き、立ち止まった。
「……奉孝さん?」
 顔を挙げると、毛むくじゃらの脛が目に入った。
 視線を上げる。見知らぬ男が二人目の前に立ち、流蝉を見てにやにやと笑っている。
 ああたちが悪い。
 自分がね。
 流蝉はげんなりとしてうつむいた。
「おねーさん、どうしたの。寂しそうじゃん」
「俺たちがなぐさめてやろうか」
 男たちが言う。
「去れ」
 流蝉は顔を挙げずに言った。
「え?」
「行けよ!」
 流蝉は男たちをキッと睨みつけ、顎をしゃくる。
「なんだとこのアマァ」
 男たちはかがみこみ、流蝉の襟首を取った。
「ちょっと、汚い手でさわるな」
 流蝉は男の腕をひっかき抵抗するが、もう一人のざらついた手が襟の中に差し込まれる。
「や……っ」
 流蝉が悲鳴をあげかけた、そのとき。
 重い音がして、目の前の男の頭がガクンと下がった。
 もう一方の男が振り返ると、仲間の頭を足蹴にしている若い男の姿。
「奉孝さん!?」
 流蝉は我が目を疑った。
 郭嘉だ。郭嘉が助けに来てくれた。
「な、なにしやがる!」
 郭嘉に踏みつけられた男が一瞬遅れて振り返る。
「なにって、そこボクの家」
 しれっ、とした顔で郭嘉が言った。
「……んだとお」
 男は立ち上がりざま、大振りの拳で郭嘉に殴りかかった。
 郭嘉はスッと頭を下げてそれをかわした。
 そこまではよかった。
 もう一方の男が腹を蹴り上げると、もののみごとに郭嘉はよろめいた。
 前髪をつかまれ、頬に一発喰らわされる。
 細かな血の玉が飛び散り、郭嘉は吹っ飛んだ。
 男の手には郭嘉の髪が幾筋か残っている。
 流蝉はハッとした。郭嘉は腰に剣を帯びている。
「奉孝さん、剣をお抜きよ。こんなやつら、殺しておしまいよ」
 叫んだ。
郭嘉はゆらりと起き上がると、剣を鞘ごと帯から外し、流蝉のほうに放った。
「え」
 とっさに剣を受け取る流蝉。
「馬鹿にしやがって」
 男は、地面に唾を吐いた。
 郭嘉は走り、男の懐にとびこんだ。
 蹴り返される。
 もう一方の男が倒れこんできた郭嘉を背中から受け止め、羽交い絞めにする。
 そして身動きの取れなくなった郭嘉を前から、殴る殴る。
「かっこつけやがって。ぜんぜん弱いじゃないか」
 男はにやりと笑ったかと思うと、突然崩れ落ちた。
 背後から、流蝉が剣の鞘で力いっぱい殴ったのだ。
「そういうあんたらはちょっと卑怯だよ。二人がかりで」
「このォ〜」
 男は立ち上がる。が、足もとがおぼつかない。
 郭嘉は後ろの奴に肘鉄を喰らわすと、ふらついている男に殴りかかった。
 こんどはきれいに拳が入り、男はぱったりと倒れた。
「あ、兄貴……」
 背後にいた男が駆け寄り、抱き起こす。
「ああもう、馬鹿馬鹿しい。帰って一杯やろうぜ。こんな女、惜しくもねえや」
 男は頭をさすりながら重苦しそうに立ち上がった。そして男たちは、
「覚えてろよ!」
 お約束の文句を残し肩を組んで歩き去っていった。
「忘れたわ!」
 流蝉は声高らかに、勝利の雄たけびをあげる。
 はい、と言って、両手に抱いていた剣を返す。郭嘉は黙ってそれを受け取った。
「勝ったわ! 勝ったのよ奉孝さん! 二人を相手に、たいしたものよ。ひょっとして初勝利じゃない? かっこよかったわ。惚れなおしちゃった! 今夜は祝杯をあげましょうよ」
 嬉しさのあまり、流蝉は郭嘉の前でぴょんぴょん跳びはねた。
「……」
「あっと……ごめんなさい、まずは隷を呼んで傷の手当てを……」
 急に弱気になった瞬間、ぐいっ、と腕を引かれた。
 郭嘉は門を開くと、流蝉の腕をぐいぐい引っ張って家の中に連れて入った。
「えっ、なっ、ちょっ、奉孝さん……?」
 郭嘉はそのままの勢いで部屋に入り、寝台に直行。
 流蝉を押し倒し、帳を引いた。
「ご主人様、お帰りになったんですか?」
 隷の声が聞こえる。
 無視。

 止まらない、勝利の興奮の続きで、オスの郭嘉はメスの流蝉と交わったのだった。

***

「向こう傷ができたね」
 流蝉は、郭嘉の胸にできた傷を指でなぞった。
 寝乱れた夜具に、二人は身体を並べて横たわっている。
「ごめ……ありがとう」
 流蝉はささやいた。
 郭嘉は小さな声で、うん、と言った。
「勝手に部屋を片付けたりしてごめんね。あたし、役に立ちたかったんだよ」
「あんた、徐州から流れてきたんだろ。難民?」
 郭嘉は流蝉を見詰め、ゆっくりとまばたきをした。
「そうよ。わかっちゃうかしら」
「言葉がすこしね。それに、主公を見て鬼と言った」
 流蝉は沈黙した。
「主公を憎んでいる?」
 郭嘉が言った。
 流蝉は宙を見ている。息を深く吸い、長い時間をかけて吐いた。
「わからないの」
 流蝉はつぶやいた。
「あたし、人づてに聞いただけだけど、曹操は徐州公に父親を殺されて、それで徐州を滅ぼそうとしたのよね。恨みがあったから、行く先々で領民を虐殺した。あたし、聞きわけがよすぎる気もするけれど、それでもわかるのよ。彼が自分を見失っていたってこと」
 流蝉は郭嘉を見た。
「あなたも、あのなかにいたのかしら?」
「ボクはまだ軍門に入っていなかった」
「そう……」
 流蝉はいったん深い沈黙のなかに沈みこみ、そしてまた語りだした。
「四年前のことよ」
 流蝉は夜具から出した左手を軽く握りしめた。
「あたしは小さな居酒屋の娘で、毎日毎晩酔っ払いの相手をさせられてた。父親は横暴で女なんか人間と思っていなかったし、仕事はきつくて楽しいことなんか ひとつもなかったわ。あたしは父が憎くて、そんな生活が憎くて……。こんな世の中は間違ってる、みんな死んでしまえ、滅びてしまえばいいと思っていた。そ うしたらある日鬼がやってきて」
 流蝉の眼差しの焦点が、スッと暗闇に吸い込まれる。
「本当に街を滅ぼしていった……」
「主公を見たの?」
「ええ、見たわ。見たのよ。あたしは焼け残った水瓶のなかにいたの。すぐに曹操軍の兵隊が来るから、瓶を出て焼け焦げた死体の山に隠れたわ。そうしたら、 馬に乗った男がやってきた。全体的に細くて、どこか少年みたいな印象の男だった。最初は、まさかそれが曹操だとは思わなかったわ。でも男が手をあげると、 おもしろいの。バラバラだった曹操軍の兵隊たちが、急に集まってきて、見る間に長方形の隊列を組んだの。それはもう見事な光景で、あたしはつい見とれてし まったほどよ。それで、あたしふっとわかったの。ああ、これが曹操なんだなって」
「主公は、鎧の上に白い服を着てた?」
「それはもう、曹操軍は全員、白い服を着ていたわ。あれは喪服ね」
「よく生き残れたな」
「我ながら、よく生き残ったと思う。あたしはギリギリまで死体に隠れていて、あるとき全速力で走ったの。世界の端まで走る気で、前も後ろも見ずに、とにか く走った。そしたら急に木の根っこかなにかにつまずいて転んだ。起き上がれなくて、目も開けられなくて、背後に影が迫っていることがわかって、ああこれで 死ぬんだと思った。そうしたら、声が聞こえたの。今でもはっきり覚えている。声はこう言ったわ。『お嬢さん、死んだふりをするんだよ』 次の瞬間水音がし て、身体が沈み込んで、それからたくさんの泡にゆっくりと押し上げられた。空が見えて、そのときやっと自分が河に投げ込まれたんだってことがわかった」
「助けてくれたんだ」
「そうよ。助けてくれたの。だれかが」
 流蝉はまばたきをして、息を吸い込んだ。
「生き残った連中はみんな南に流れていったけど、あたしはなぜかこの許昌に来て、城下をうろついたりして。まるで曹操のあとを追いかけるように」
「そしてボクと出会った」
「そうよ。そしてあなたと出会った」
「……」
「あたしは……」
 流蝉は、左手を高く持ち上げた。
 まっすぐに伸ばし、なにかをつかみ取ろうとするように手のひらを広げる。
「あたしのなかに白い鬼はいるわ。鬼は圧倒的で理不尽で卑怯で醜くて、あたしの運命を変えようとする。でもあたしは、やられてなんかやらないの」
 流蝉は、開いた手をぐっと握りしめた。
「逆手にとってやるの」
 それから、急に脱力して夜具の上にぱたっと落とした。
「失敗ばかりだけど」
 郭嘉は頭の後ろで両手を組み、仰向けになってじっと耳を澄ました。
 じっと、耳を、澄ます。
 なにか聴こえるだろうか。
「流蝉、結婚しようか」
 郭嘉がそう言ったのは、長い沈黙のあとだった。

***

 それからどうしたかというと。
 先ず、郭嘉と流蝉は寝台の帳を開けた。
 すると、二人の目の前にご馳走が広がった。
 部屋は料理の載った皿で埋め尽くされていた。二人を待ちくたびれた隷が、作れるだけの料理を作って、床にまんべんなく並べたてたのだ。
 三日分、腹を空かせていた郭嘉と流蝉は、むさぼるようにそれらをたいらげていった。
 翌朝、出仕した郭嘉は曹操の前に行き、頭をかきながら、ボソリとした声で報告する。
「あのー、主公。ボク、妻をめとることにしました」
 そのとき曹操よりも、曹操の後ろにいた荀イクのほうが驚いて柱にぶつかりそうになったことは内緒である。
「そうか。とうとう奉孝も所帯を持つか。いや、めでたい。めでたいなーっ」
 曹操はじわじわと喜色を示すと、満面の笑みでそう言った。
「おおい、皆の衆、奉孝が妻帯するそうだぞ。婚儀はいつがよいかのう」
 朝議もそっちのけに、幕僚たちにふれまわる曹操。
「あの、主公、どっちかというと内密に……」
 ちょっとあわてて、郭嘉は曹操を追いかける。
 無理な話である。
「めでたいなーっ」
 と言って曹操は笑う。
 身体いっぱいで感情を表現する、その無邪気な笑顔で。
 流蝉が見た、鬼は笑う。

 そのようにして郭嘉は流蝉と結婚した。一年後にはひとり息子の郭奕をもうける。
 それから郭嘉が逝くまでの十年間、風のように飄々として俗世に落ち着こうとしない彼を地上に繋ぎとめる、唯一のちいさな錨となったのだった。

 郭嘉とその妻流蝉の、これはなれそめの物語。






了.





しおり