熱源 〜曹操と袁紹〜 自分が差別されていると知った時のことを、曹操(そうそう)はよく覚えている。 豪邸で大家族に囲まれ何不自由なく育った。あえてそのことを口にする者はなく、幼い頃は思いもかけなかった。 人に蔑まれる、ということを。 九つの時、父に従い赴いた都 洛陽(らくよう)で、名門の子弟ばかりを集めた学舎に一年ばかり入れられた。 人見知りということをしなかった曹操は、屈託なく周囲の学友に話しかけたが、ことごとく無視された。 学友たちは曹操を遠巻きにし、何やら囁きあっては、家畜でも見るような目で見て笑うのだ。 幼い曹操は父の前で涙をこぼし、そのことを告げた。父は溜息をつき、 「吉利(きつり※曹操の幼名)よ、それはいたし方のないことなのじゃ」 と言った。 祖父が宦官であることは、知っていた。父がその養子であることも知っていた。 だがその意味するところを、曹操はその時生れて初めて、身に沁みて知ったのだった。 宦官は男根を切り落とした痕の発する腐臭から、『腐れ者』と呼ばれ忌み嫌われていた。 その孫である曹操もまた、名門の子弟からは『腐れ者』同然に見られ、蔑まれていたのである。 「口惜しゅうございます父上。私はもうあのような所には行きたくありません。ひとりで学問するのではだめなのですか」 曹操は懇願したが、父は首を横に振った。 「これからの人生、おまえはあの者たちと付き合っていかねばならぬのだ。今引き籠もっては、一生引き籠もることになるぞ。口惜しいのはわかるが、あの者たちとの付き合い方をこそ学ばねばならぬ。その為に父はおまえを学舎にやったのだ」 お家の跡取り息子である曹操は、屈辱に耐え学舎に通うしかなかった。 ある日、教室で先生が来るのを待っていた時のことだ。 曹操が論語の教科書を開くと、そこには、切り取られた腐った獣の男根が、一緒に巻かれていた。 腐臭が立ち昇る。 視線を落としたまま、竹簡を持つ曹操の手が震えた。 「あー、臭っせえ。宦官は自分のイチモツを箱に入れて取っておくと聞くが、こんな所にまで持ってこられたんじゃ、臭くてかなわねえや」 ひとりが言い、教室がいっせいに笑いの渦に包まれる。 曹操は、必死に涙を堪えていた。 泣いてはだめだ。ここで泣いては、自分は腐れ者だと認めることになる。お祖父様にも、申し訳が立たない。 「何だ、宦官かと思ったら、猿か。顔を真っ赤にした醜い猿が一匹、神聖な学舎に紛れ込んでいるぞ」 「やめろ!」 その声は、毅然として高らかに響いた。 「何ということをするのだ! 論語にこのようなことを……貴様、孔子様を愚弄する気か!?」 「え、袁兄、別にオレは……」 「腐っているのはおまえらの方だ……! 行こう、曹操」 強く手を引かれ、外に連れ出された。形のいい、大きな手だった。 学舎裏の桑の木まで行ったところで、その人は手を離した。 「あ、あの……ありがとうございます、助けていただいて。袁……」 「袁紹(えんしょう)だ。袁兄と呼んでくれていい」 知っていた。子弟の中では一番年長で、曹操より五つ年上の十四歳。皆に慕われいつも学友たちの中心にいた。名門中の名門袁家の御曹司で、自分には手の届かない人と思っていた。 「袁……兄……」 「曹弟、おまえも大変だな。生れたくて、宦官の家に生れたわけじゃないのにな。オレも庶子だから、おまえの気持ちはよくわかるよ」 形のいい大きな手が、やさしく髪に触れる。 「う……」 涙があふれた。止まらない。どうしようもなかった。スラリと背の高い袁紹の体が、包み込むように抱きしめてくる。その広く温かな胸のなかで、曹操は洛陽に来て初めて、大声を放って泣いた。 それ以降、学舎での曹操いじめはピタリとおさまる。袁紹が常に曹操を傍に置き、睨みをきかせていたからだ。そうでなくとも、人気者の袁紹が弟と呼んで親しんでいる曹操をいじめようという者は、ひとりとしてなかった。 それどころか、学問のできる曹操は秀才として一目置かれるようになる。 洛陽での一年間、袁紹のおかげで曹操はのびのびと過ごすことができたのだった。 次に曹操が袁紹に逢ったのは、それから三年の後。 曹操十三歳。 若くして母親が死んだ後のことだった。 曹操を産んでからは病がちだった母は、その冬、風邪をこじらせてあっけなく逝った。 葬儀の後、喪に服すはずの曹操は、ふらりと家を出て、洛陽の袁紹のもとを訪れたのである。 既に悪名高い不良少年だった曹操を、誰もまともに捜そうとはしなかった。ただ、曹家の放蕩息子はやはり不孝者だったか、と陰口をたたかれただけだ。 なぜ袁紹のもとに走ったのか、曹操は自分でもよく判らなかった。 ただ、逢いたかった。今すぐに袁紹に逢わなければ、燃え落ちる木の葉のように自分が消えてしまいそうだった。 洛陽で役人になっていた十八歳の袁紹は、何も言わずに曹操を舘にかくまった。 「オレの字(あざな)は本初(ほんしょ)になったよ。曹弟、これからは本初と呼んでおくれ」 精悍な顔を微笑ませ、袁紹は言った。 「本初。本初。ほんしょ。ほんしょ。ほんしょ。ほーんーしょ……ほーんー……」 壊れたように、曹操は袁紹に抱きついた。 まだ誰も触れたことのない、まっさらな曹操の体を、袁紹は少しずつ解きほぐすようにして、抱いた。曹操がまったくの初体験だったことが袁紹には意外だっ た。十三歳にしては幼い、未発達な肢体。絶頂まで感覚を受け流すことさえ、その小さな少年は知らなかった。袁紹の腕の中で、曹操は幾度となく果てた。 狂おしい一ヶ月が過ぎる。 別れの時は唐突にやってきた。 その朝、曹操は袁紹に接吻すると、 「帰るね」 と言った。 「そうか。帰るのか。次はいつ逢えるかな」 「また逢ってくれるの?」 「あたりまえだ。おまえはオレの弟じゃないか」 曹操は本当に嬉しそうに笑うと、もう一度、大好きな兄に―― *** 「ぼんやりと何を考えている、孟徳(もうとく)」 幕舎で夏侯惇(かこうとん)が話しかけた。 曹操は瞬きをし、その最も近しい武将である従弟を振り返った。 「何も」 「嘘をつけ」 曹操は笑った。 「うん。ちょっと昔のことをな、元譲(げんじょう)」 その年、曹操三十五歳。字は孟徳。 洛陽で暴虐の限りを尽す董卓(とうたく)から逃れ、挙兵。 袁紹を盟主とする反董卓連合軍に、奮武将軍(ふんぶしょうぐん)として参加していた。 夏侯惇(字は元譲)は、曹操より六歳年少の、二十九歳。 幼い頃より曹操を慕い、その挙兵に真っ先に駆けつけた、逞しい青年である。 曹操が昔のことを思い出すのは、洛陽が気になるからだ。 間者の報告では、董卓は洛陽を捨て、幼い帝を長安に移す。つまり遷都するということである。 暴挙だが、考えられぬ話ではなかった。曹操が気になるのは、董卓がその後の洛陽をどうするか、ということだ。 「もしや……」 そのことに思い至った曹操は、夏侯惇を連れて大急ぎで本陣営に向った。 本陣営では、盟主袁紹をはじめとする名のある将軍たちが、軍議と称した酒盛りをしている。 「将軍方、今すぐ酒盛りをやめたまえ。董卓は洛陽を焼くつもりですぞ!」 一瞬の沈黙の後、笑いが巻き起こった。 「孟徳、まあ座れ。何を根拠にそのようなことを言うのか、教えてもらおう」 袁紹が自分の横に席をあけ、腕を広げる。 「座っているヒマなどない! 董卓は洛陽の民と財をすべて長安に移し、誰も帰れぬよう洛陽を焼くに違いない。民に洛陽に帰られたら、長安の都築城に差し障るからです。ただちに全軍で撃って出るべきです!」 曹操の熱弁を真面目に聞こうとする者は、誰ひとりとしてなかった。 洛陽の方角から真っ黒い煙が揚がったのは、午後のことだった。 やぐらに登って目を凝らす。 遠目にもわかるほどの焔。洛陽が燃えていた。 曹操は再び袁紹に出撃を要請したが、袁紹は首を縦に振らなかった。諸侯は誰も動かない。 かくて曹操は五千の手勢を引き連れ、単独で出陣する。 結果は、惨たんたるものであった。 無惨な敗北。 軍は壊滅。生き残った兵も散り散りとなり、曹操自身も肩に矢傷を負い、命からがらどうにか逃げのびた。 みじめな姿で本陣営に戻ってきた曹操を、諸侯はうわべだけ労うふりをして、冷笑した。 傷ついた体で、なおも董卓攻略の策を打ち出す曹操を、相手にする者はない。 兵を失った曹操にできることは、もはや何もなかった。 洛陽は未だ燃えている。 城壁を溶かす勢いの火力だった。 もはや城内には家畜一匹、生き残ってはいないだろう。 「孟徳、孟徳を知らないか」 その夜、夏侯惇は一晩じゅう曹操を捜していた。 「夕べから姿が見えないんだ。怪我をしているのに……」 幕僚の曹洪(そうこう)らと共に、陣屋をひとつずつ訊ねてまわる。 広大な陣営に手がかりは見つからず、曹操の行方はようとして知れなかった。 「――オレの私的な幕舎だ。ここなら誰の目も届かぬ」 小さく灯をともし、袁紹は寝台に横たわる曹操に向って言った。 「傷が開いたな。血が滲んでおるぞ。……孟徳? まったく、無茶をやりおって」 「本初……洛陽が……洛陽が……も、燃えてしまう……ホン……アァ……!」 「何だ。うなされておるのか」 袁紹が冷たい布で曹操の額の汗を拭うと、曹操はハッと正気を取り戻した。 「待て、待て。起き上がるな。今包帯の替えを持たす」 離れようとした袁紹の袖を、曹操の手がグイと掴んだ。 「本初、お願いだ、兵を……。おまえが出る気がないのなら、オレに兵をかしてくれ。策があるんだ。今なら……オレを打ち負かして油断している今こそ、董卓を……!」 「さっきから何度も言っておるだろう孟徳。それが指揮のとれる体か? まずは傷を癒せ。兵などかせぬ」 「お願いだ本初……!」 袁紹は腰をかがめ、曹操に顔を近づけた。 「ならばオレの願いも聞いてもらおうか。兵をかせば、我が軍門に降るか?」 「そ、それは……」 曹操は顔を背けた。 「なぜだ。悪い話ではなかろう? 我が将になれば、兵などいくらでもくれてやる。ふさわしい官位にもつけてやる。何だ奮武将軍って。無位無官のくせに、勝手に名乗りおって」 「無理だ本初。気持ちはありがたいが、オレを信じてついてきてくれた者がいるのだ」 「だから、そいつらごとまとめて面倒を見てやろうと言うのだ!」 「それでも……ダメだ……」 「ハッ!」 袁紹は体を起こし、上から曹操を睨みつけた。 「自分を見てみろ! 兵もない。官位もない。領地も何もない。こたびの挙兵で私財とて尽きたのであろう? おまえひとりで何ができる? 自惚れるのもいい加減にしろよ」 曹操は唇を噛んだ。背けていた顔を戻し、袁紹に視線を向ける。 「何だその反抗的な目は。昔はそんな目はしなかった」 「ハーッ、ハーッ、ハァーッ、ハァー……」 曹操の呼吸が荒い。肩の傷から、新しい鮮血が滲み出した。 「曹弟……」 袁紹は曹操の顎を掴んで口を開けさせると、おもむろに唇を重ね、舌を挿し入れた。 「ウ……ゴホッ……ゴフッ……ハ…ッ…」 「なあ孟徳……覚えているか? おまえがまだホンの少年だった頃、洛陽までオレを頼って来たよな。あの日々のことは忘れられぬ。おまえは全身全霊でオレを求め、受け入れてくれた。再び受け入れてくれぬか。あの時のように……」 「い……や……ッ……本初……傷が……イ……ッ……!!」 袁紹は鎧を着たまま、無防備な曹操に跨った。 もがく曹操の頭を寝台に押さえつけ、下半身を露わにしてやる。 「いや……いやだ……! やめて……袁兄ゆるして…… イヤ……」 知り尽くした体。 最初にその感覚に導いた この手が指が 覚えている どこをどうすれば 開かせることができるかを。 「愛されたかったのだろう? 小さな曹弟……皆に蔑まれ独りぼっちで。オレが愛してやる。一生愛してやるから」 袁紹は押し拡げていた指を引き抜くと、曹操の膝を割って担ぎ、その柔らかな部分に自分の全体重を―― 「他のことなど忘れてしまえッ……!」 曹操の掠れた悲鳴は、長く尾を引いて幕舎の外にまで漏れ響いた。 「――孟徳? 孟徳……!!」 早朝。 朝もやのなかから現れたその姿に、夏侯惇は全力で駆け寄った。 「ああ、キミは確か孟徳の将だね」 共に現れた思わぬ人物に身構える。曹操は包帯の上から陣羽織を着せられ、その男に抱きかかえられていた。 「袁紹、貴様、孟徳に何をした……!」 掴みかかる勢いで詰め寄った夏侯惇に、袁紹は笑顔を作って見せた。 「失敬だな。彼は自分から私の陣屋に来たのだぞ。話をして、傷の手当てをしてやっただけだ」 「孟徳が自分からだと……? 嘘をつけおまえが拐かしたのだろう!」 「……怒るな元譲。本当だ」 曹操が薄目で夏侯惇を見て言った。その顔は蒼白だった。 「彼は昨夜興奮して傷が開いてしまってね。もう少し我が陣営で養生させたかったが、キミらのもとへ返さねば舌を噛むと言いだしたんだ。ハハハ、もちろん冗談だよ」 曹操がもがき、袁紹は抱えていた体をそっと地面に降ろした。 「孟徳……!」 すかさず、夏侯惇が支える。 「元譲」 曹操は弱々しく笑ったが、すぐに口を覆って膝をついた。 「……気分が悪い」 「吐きたいのか? 曹弟ここで吐いてしまえ」 袁紹が背中をさすり、曹操はその場で嘔吐した。 「ぜんぶ出してしまえ。そうだ、そうすれば楽になる」 袁紹の声も仕草もひどくやさしく、吐き気を催した人への対処としては完璧で、夏侯惇の入る余地はなかった。 ひとしきり吐き終えると、曹操は立ち上がり、ふわふわと自分の幕舎の方へ歩きだした。 夏侯惇が抱きあげようとすると、曹操はその腕を振り払う。 「やめろ元譲。自分の脚で歩きたい」 「だが、孟徳……」 袁紹には抱かせたではないか、という言葉を夏侯惇はぐっと呑み込んだ。 背後で袁紹が腕を組み、薄い笑みを浮かべてずっと見ている。 「帰ろう、元譲。なるべく早く、郷里へ……」 「孟徳……?」 「もうこの陣に用はない。元譲、我らは……反董卓連合軍は……」 曹操は夏侯惇を振り返ると、不思議な透明感のある笑顔で言った。 「負けたんだ……もうできることは何もない」 *** 袁紹に言われたことは、悔しいが事実だった。曹操には、何もなかった。兵もない。官位もない。領地もない。名族の血筋も、他を威圧する体躯もない。頼みにしていた財力も、今やない。袁紹はそのすべてを持っている。 だが曹操は諦めなかった。 夏侯惇と共に方々へ頼み込み、兵をかき集めた。それは途方もない苦難の連続だった。素寒貧の一男子に過ぎない曹操がどんなに熱く志を語っても、兵を与え ようという人間はほとんどなかった。やっとのことで借り受けた兵は、食わせることすら困難で、反乱を起こし曹操の命を狙う始末だった。 そんななか、曹操は袁紹と再会する。 「孟徳、傷は癒えたか」 袁紹は、相変わらず親しく曹操に接した。 だが袁紹を見る曹操の目は、以前と同じではなかった。 「ああ、本初」 曹操は精一杯背筋を伸ばし、影のある鋭い眼差しをかつての朋友に向けた。 「痩せたな。骨ばかりじゃないか。ちゃんと食っているのか?」 頬をなぞる袁紹の手を、曹操はきつく打ち払った。 袁紹はやれやれと微笑むと、言った。 「実はな、孟徳。おまえに話がある」 「――何……だと……!?」 「そういうことだ。今の帝はもう殺されたも同然だ。我らは北に新しい帝を立てる。さすれば董卓の暴政だ、西の長安は遅かれ早かれ自滅するだろう。新帝擁立にはおまえも一役買ってもらいたい」 曹操は愕然とした。頭を抱え、背中を丸めて黙っている。 が、突然狂ったように笑いだした。 「どうした孟徳。何がそんなにおかしい」 「どうやら、本当に袂を分かつ時が来たらしい」 「何……?」 「さらばだ本初。おまえは北を向くがいい。オレは西を向いていよう」 曹操はクルリと踵を返すと、袁紹のもとを去った。 「孟徳、また手をつけていないじゃないか」 「食べてくれ、元譲。オレは要らない」 深夜の幕舎。 曹操は書簡に筆を走らせながら、肘で食事を夏侯惇の方に押しやる。 夏侯惇は曹操の手首を掴むと、筆を取り上げ、無理やり飯(※低発酵のパンのようなもの)を握らせた。 「――! 何をするッ」 「ここのところ、ぜんぜん食っていないじゃないか。孟徳、大将がこんな細い手首で、兵がついてくると思うか?」 「う、うるさい。威厳がないのは生れつきだッ」 曹操は勢い飯を夏侯惇に投げつけた。 「……孟徳。兵を募るのに神経を擦り減らしているのはわかる。だが今のおまえを見ていると……まるで不貞腐れた子供だぞ」 「髪に触るな……ッ!」 夏侯惇は無意識に曹操の頭を撫でようとしていた自分に気付く。 「わかった! もうこれしかないな。孟徳、頼むから飯を食ってくれ! おまえに飢え死にでもされたら、オレも死ぬしかないんだ!」 そう叫んで、夏侯惇は地面に平伏した。 「……フン」 曹操は飯を拾うと、口に入れ、咀嚼もせずに呑み込もうとする。 あの頃の曹操のことを、後の夏侯惇はよく思い返す。 夏侯惇がいなければ食事をとらず、夏侯惇がいなければ、睡眠もとろうとはしなかった。 募兵の書簡から引き剥がし、じっと抱き締めていると、ようやく少しウトウトしだす。 寝入りばなに幾度か曹操が、 「本初……」 と呟くのに、いちいち傷ついている余裕はなかった。 そして、転機が訪れる。 袁紹は新帝擁立には失敗したものの、領土を広げ以前にも増して力をつけていた。 一方の曹操は。 辛苦の果てにようやく動かせるようになった数千の軍勢で、北方を脅かしていた賊軍を次々に撃ち破り、その功労から東郡の太守に任命される。 帝に上奏して曹操を推挙したのは、他でもない、袁紹であった。 そのことについて、曹操はあまり考えなかった。哀れんだのかも知れぬ、とは思った。だが感謝の気持ちはおろか、何の感慨も湧いてこなかった。 曹操は、先のことで手一杯だった。 東郡で息を入れる間もなく、エン州の救護に出撃。 敵は青州黄巾賊。その数、百三十万。 曹操を主と定め駆けつけた荀イク(じゅんいく)を参謀とし、 多数の犠牲を出した激戦の末。 曹操は黄巾賊が要求する宗教の自由を許諾。盟約を交し、その降伏を受け入れる。 降兵三十余万人。 男女あわせて百余万人。 そのうち精鋭を旗下に編入し、これを「青州兵」と呼んだ。 「魏武(曹操)の強、これより始まる」といわれる。 快進撃が、始まった。 曹操は、流民に荒地を開墾させる屯田制を開始して、兵糧の問題を解決。 董卓が謀殺された後混乱極まる長安を脱出し廃墟洛陽に滞在していた帝を保護。 自らの本拠である許昌(きょしょう)に帝を移し、都(許都)とする。 次々に強敵と激闘するさなか、夏侯惇は流れ矢に当たって左眼を失明。 曹操は長男の曹昂(そうこう)を戦死させる。 苦戦に次ぐ苦戦。 それでも最後には必ず敵を打ち負かし、曹操の勢力は着実に大きくなっていった。 そしてこの日。 旗下の参謀と将軍のうち揃うなか、曹操は広げられた地図に一本の矢を突き立てる。 「袁紹を、討つ……!」 この時、曹操は四十四歳。 宦官の孫とバカにされていたかつての幼さは、その面差しには見つけられなかった。 *** 北に袁紹。南に曹操。 黄河を挟んで、中原の二大勢力である両雄は対峙した。 袁紹の軍勢、十余万。 曹操の軍勢、一万。 圧倒的な袁紹軍の有利であった。 曹操は騎兵隊を率い、巧みな陽動作戦で袁紹の出鼻を叩く。 だが十倍の兵力差は歴然としており、黄河を渡河した袁紹軍はじりじりと力押しで曹操軍を圧倒。 曹操は最後の砦である官渡(かんと)まで軍を後退させた。 袁紹は前線にずらりとやぐらを造り、曹操陣営内に矢を射掛けさせた。連日連夜の矢の雨に、曹操軍は苦戦。 そんなさなか、曹操が頭痛の発作に襲われる。 曹操の病はごくわずかな人間以外極秘とされ、陣中は息を詰めたかのようになった。 「策……は……持ってきたか……ゴフッ……この状況を打開する……策は……」 夏侯惇が居室に入ると、曹操は寝台で、嘔吐していた。侍従が桶を持ち、軍医が背中をさすっている。 「いや。様子を見に来ただけだ……孟徳」 「何だ……元譲か。参謀の誰かかと思った」 オレで悪かったな、とはさすがに言う気になれない。 「外の様子はどうだ」 「相変わらずさ」 もう胃液しか出ないのに、曹操は嘔吐し続けた。頭痛が酷い時のいつもの症状だ。 「ハァ、ハァ、ハァ、もう、いい……ハァ」 桶を押しやると、曹操は頭を抱えてうつ伏せになった。 ギリギリと歯を食いしばる音が、夏侯惇の立っている所にまで聞こえてくる。 「おい、何かないのか。根治できないまでも、何か苦痛をやわらげる方法は……」 夏侯惇の言葉に、軍医は暗い顔で首を横に振る。 「余計なことは……言わんでよろしい……元譲……用がないなら……帰れ……」 「……」 夏侯惇は一礼して退った。居室を出たところで、参謀長の荀攸(じゅんゆう)と出くわす。 「こんなもの、今の状態の孟徳に見せられるわけがないだろう!」 思わず声を荒げてしまった。 気配に振り向くと、ものすごい不機嫌な顔の曹操が後ろに立っていて、掠れた小さな声で 「うーるーさーいー」 と言った。 「す、すまん孟徳……つい」 「何だ、それは」 「ああっ! それはダメなんだ孟徳っ」 曹操は夏侯惇の手からその書簡をひょいと奪うと、頭痛に顔をしかめながら文面に目をやった。 「本初がバラまいた檄文じゃないか。あまり気にしていなかったが……ふうん……」 曹操は書簡に目を落としながら寝台に戻ると腰を下ろし、口の中でブツブツ言いながら、最後まで読み耽った。 「これは本初が書いたものではないな。これを書いたのは誰だ?」 「袁紹旗下の陳淋(ちんりん)と申す者でございます」 荀攸が応えて言った。 「オイ、曹操というやつは実にけしからんな」 曹操が顔をあげて言った。 「わしは、贅閹の遺醜(ぜいえんのいしゅう※宦官の余った肉から生まれた醜い奴の意)なんだとさ」 「も、孟徳……!」 「そう書いてある」 曹操は再び書簡に目を落とすと、少しの間考え込んだ。 「よくできている……名文じゃないか。本初にはもったいない。陳淋か……覚えておこう」 そして曹操は、ぽかんとした表情で立ち上がった。 「頭痛がしない……治った」 「ええっ!?」 その場にいた一同が、声をそろえる。 「治った! 唄でもうたいたい気分だ……!」 曹操は夏侯惇と荀攸の手を左右に取ると、 「元譲ッ、公達(こうたつ※荀攸の字)ッ、今すぐ皆を召集するぞ。軍議だ!」 と叫ぶや、そのまま居室を走り出る。 軽やかに駆ける曹操に手を引かれながら、夏侯惇は思った。 孟徳、オレはごくたまに、いや時々、おまえのノリについていけない……。 にわかに活気付く曹操陣営。 曹操は発石車を造らせ、袁紹のやぐらに応戦。 袁紹は地下道を掘って曹操陣営に襲撃しようとするが、曹操はすぐさま陣内から長い塹壕を掘ってこれに応戦。 奇襲部隊を派遣して袁紹の輸送車を襲撃、その食料をことごとく焼き払った。 しかし長引く戦況に曹操軍の兵糧は次第に枯渇し始めた。 連日袁紹軍の猛攻にさらされるなか、軍内には投降を考えて袁紹と内通する者が続出。 弱気になった曹操は、許都(きょと)で留守を任せている荀イクに、撤退を希望する書状をしたためる。 書状を持たせた伝令が夜陰に紛れるのを見届けると、曹操は、 「しばらくひとりになりたい」 と居室に籠もった。 とうに夜半を過ぎ、小さな灯ひとつともした居室は、不気味なほどの静けさである。 これでよかったのだろうか……。 暗澹たる気持ちで、曹操は荀イクに送った書状の写しを手に取った。 丸めた竹簡をパラリと開くと。 中から、腐った獣の男根がまろび出た。 「……! ひっ……」 とっさに曹操は竹簡を男根ごと壁に投げつけ、後ろに手をついた。 「な、何だ……?」 胸を押さえ、怖る怖る投げた竹簡を引き寄せる。何も変ったところはない。 「見間違えか……。ハハ、ハハ……」 空笑いするも、動悸がおさまらない。額の脂汗がひどい。 袖で汗を拭い、深呼吸する。 ようやく動悸がおさまりかけた、その時。 「贅閹の遺醜!」 「なにやつ!?」 確かに聞こえたその声に、曹操は振り向きざま抜いた剣を大きく横に払った。 誰もいない。剣はそこに澱む暗闇を切り裂いただけだ。 「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」 曹操は剣を持ったまま後ろに両手をつき、瞼を閉じた。 「ハァ、ハァ、ハァ、ハハッ、……ハハハハッ……」 生唾を飲み込む。呼吸が整わない。 「子供だ……子供の声だったぞ! アハハ……どうして子供なんだ……!」 曹操は四つん這いになり、のそのそと寝台に向った。 「幻じゃ……幻じゃ……疲れているんだ……もう、寝よう……」 夜更けだった。 夢もない眠りの遠い浅瀬から、声が聞こえた。 心細そうな、吐息だけのひそめた声。 オレを呼んでいる……? それから、体を揺さぶられる。 ……じょう…… ……んじょう…… げんじょう…… 「元譲」 「んっ……ああ? 孟徳か?」 夏侯惇は、寝台にガバと跳ね起きた。身につけたままの鎧がザラリと鳴る。 「こんな時刻にすまない……元譲」 「襲撃か!?」 「ちがうそうじゃない」 「何だ……」 思わず安堵の息をつく。 「どうした孟徳。怖い夢でも見たのか?」 冗談めかして夏侯惇が問うと、曹操は図星のように押し黙った。 「真っ暗だな。ちょっと待て、いま灯を――」 「いや、いい。用が済んだら、すぐ帰るから……」 「用、用って何だ?」 「話がある」 「話?」 曹操が息を吸い込む気配がした。 「元譲。この先もし、もしも我が軍が袁紹に敗れて」 「ちょっと待て孟徳。おまえの口からそんなこと――」 「聞いてくれ元譲。もし本初に敗れて、オレが敵に生け捕りとされるようだったら……」 夏侯惇の腕に曹操の手がそっと添えられた。 「その時は、おまえが一思いに殺してくれないか。オレがやつに捕えられる前に」 「なっ……!?」 目が慣れてきて、曹操の瞳に小さな光が入っているのが見えた。 ふたつの白い点は、まっすぐ夏侯惇に注がれている。 「真剣な話なんだ。こんなこと、おまえにしか頼めない。お願いだ。その時はきっと殺すと誓ってくれ」 「孟徳……孟徳……何を言っているんだ」 「お願いだ元譲」 「孟徳……で、できな――」 「お願い……!」 曹操の腕が首に巻きついてきた。やわらかい。寝巻きなのか。汗のにおいがする。 孟徳の汗のにおい。 「――震えている? 孟徳おまえ……」 「ああそうだ怖い夢を見た。突然目の前に敵兵がなだれ込んできて、戦おうとしたのに、気がついたらオレは捕えられていた。衣服を剥ぎ取られ、体じゅうにあ りとあらゆる枷をつけられた姿で、オレは本初の前に差し出された。あいつは、笑っていた。オレのことを曹弟と呼んで、あいつはこのオレを、な、なぐさみも のに……」 「――! 孟徳……!」 「舌を噛もうにも木棒を噛まされて、死ねない……! あいつはオレのことを…… 愛していると…… オレは…… あいつは…… あいつが……!」 「もういいもうしゃべるな!」 「――そんなことは絶対に嫌だ……!!」 曹操の体を抱きしめる。思っていたよりも、やわらかい。震えている。どんなに強く抱きしめても、抑えられないほどに。 「わかった。大丈夫だ。そんなことには、オレが絶対にさせないから」 「ちゃんと殺してくれるか?」 「ああ。おまえがあの野郎に捕われそうになったら、例えおまえがどこにいようとも、オレは飛んでいって、できるなら、救い出したいが、救えぬ時は――」 夏侯惇は曹操の顔を両手で包み込み、自分に向けさせた。 「この手で息の根を止めてやる。絶対にだ」 「ありがとう元譲……!」 首に回されていた腕が、ぱらりと解けた。腕の中の小柄な体が急に重くなる。 「すまん元譲……。何だか突然……眠くなった……ものすごく眠い……このまま……寝る……」 そして曹操は、寝息を立てはじめた。鎧の胸にのせられた頭が、夏侯惇がちょっとみじろぎするたびに、首の座っていない赤子のように不安定に揺れる。 どうやらすっかり深い眠りに入ったようだ。 曹操の頭を手のひらに包むと、汗で髪までしっとりと濡れていた。 「孟徳よ……その発想は……ないぜ……」 夏侯惇は苦笑いした。混乱から来る笑い。 その時、夏侯惇の脳裏にあるものが閃いた。 ――ゲンジョウ、我ラは、……反董卓連合軍 ハ……―― 心臓が、一回跳ねた。 「何だ……!?」 ――負けたんだ……もうできることは何もない……―― 「なぜだ……なぜだ……なぜよりにもよって今、あの時のことを思い出すんだ……!? あの時の……」 ……力ない透明な笑顔。 一晩じゅう、捜して、捜して。でも見つからなくて。 生きた心地がしなかった。朝もやのなかにおまえの姿を見つけた時、本当に嬉しくて。 でも現れたおまえは、あの男に抱えられていて。 「孟徳……そうだったのか……? おまえ……おまえ……あの男に……」 夏侯惇は曹操の頭を胸にかき抱いた。涙が、勝手にハラハラと零れ落ちる。 「……辱めを……」 「……ン……」 曹操が、かすかにみじろいだ。規則正しい寝息は乱れない。よく眠っている。 「辛かったんだな。誰にも言わず……オレにも言えず……だからおまえがむしゃらに」 夏侯惇は唇を噛み締めた。血の味が滲む。 「赦さない……オレはあの男を……袁紹を赦さない……!」 陽がすっかり高くなっていた。 夏侯惇の寝台に起きあがった曹操は、茫然としていた。夏侯惇の姿はない。目覚めた時、見慣れた陣羽織が体にかけられていた。 「……寝過ごした」 荀イクからの返書を待つ間、南方で袁紹に味方した賊が許都近郊を荒らしたため、曹操は将軍の曹仁(そうじん)を派遣してこれを撃破。 荀攸の計略を用い、袁紹の輸送隊を攻撃し、数千台を焼き払う。 許都から補給部隊が到着。疲弊する補給部隊の兵たちを曹操は、 「あと十五日で袁紹を討ち破り、これ以上おまえたちに苦労はかけぬ」 と励ました。 だがそれは嘘だった。 曹操は、荀イクからの返書を待って、撤退する気でいたのだ。 補給部隊が一緒に運んできた返書を読んだ曹操は、期待に反したその内容に、愕然となった。 返書は、「必ず変事が起こり、袁紹に勝てます」と曹操を励ますものであった。荀イクは、曹操が官渡を放棄して許都に帰還することを、強く諌めてきたのである。 「文若(ぶんじゃく※荀イクの字)、おまえはオニか……! 兵糧はあと半月も持たぬのだぞ……!」 曹操は荀イクからの返書を繰り返し読んだ。 何度見ても、そこから具体的な策を読み取ることはできない。 荀イクは、ただ「変事が起こるから、我慢して待て」とだけ言ってきたのだ。 万事休す。 「土台無理だったのか? 十万の大軍に、一万で立ち向かうなど……だがこれ以上の大軍だと兵糧問題が更に深刻になるし……都の守備もあるし……だいたい本 初も本初だ何もオレごときに全軍向けてこぬでも……ああ〜もうっ! 具体策をよこせ具体策を……! 変事……! 変事って何だ……文若、その根拠を教えて くれ! カンか? ……イチかバチか、撃って出るか? 無益だ……。包囲されてたちまち勝負がついてしまう……負けだ……」 曹操は、もうどうしていいかわからなかった。 万策尽き果てた曹操は、ひとり居室で座していた。荀イクからの返書を、もう一度読み返す。 「変事……何かが起こる……何かって何が……? わしの気付かぬことがあるのか……? それを待っていれば何かが……」 起こるのか……? 曹操は瞑目した。辺りは暗闇だが、奇妙だった。撤退を希望する書状を荀イクに送ったあの夜、あの時に感じた恐怖を、今は感じない。困り果ててはいるが、恐怖はない。幻も訪れない。 「ああ、そうか。あの幻は、わしに間違いを教えにきてくれたのだ。逃げ腰になるから、幻など見る。今、幻を見ぬということは、間違ってはいないのだ」 曹操は、閉じていた目を静かに開いた。 「文若よ。よくぞ我が退路を断ってくれた」 これを境に、曹操軍の動きはピタリと止まる。 動きたくても動けぬのだろうと、敵も味方も思った。それは間違いではなかった。 一日、また一日と、兵糧は確実に枯渇していく。 曹操は待っていた。 鍛錬以外は鎧を脱ぎ居室に座して、その「何か」を待っていた。 来るかどうかもわからない機(チャンス)をじっと耐えて待つことは、撃って出るよりもはるかに苦しいのだと曹操は悟った。 兵糧の枯渇まで、もってあと二日。 曹操は、待っていた。 時に。 袁紹旗下の謀臣、許攸(きょゆう)は、膠着状態の前線を打開すべく、曹操の本拠である許都を奇襲するよう袁紹に進言した。 袁紹は激怒し、 「わしはどうあっても先に孟徳を包囲してやっつけねばならぬ」 とこれを却下した。 また許攸は、家族が罪を犯し逮捕されたことを怨みに思っていた。 その夜、許攸は袁紹陣営を密かに脱出した。 軍の機密情報を手に、彼は曹操陣営に奔った。 夜更け。投降してきた許攸を、曹操は手ずから迎え入れた。 この時曹操は、裸足のまま外に飛び出し、手をたたいて喜んだという。 許攸の持ってきた情報とは、袁紹軍の兵糧が烏巣(うそう)に集積されており、しかも防備が手薄になっている、というものであった。 これを信じるか信じないか。 軍議はもめたが、曹操は幕僚たちに言った。 「これが文若の言っていた変事だとしたら、賭けるしかない……!」 曹操陣営の最後の兵糧は、粛々と配給された。それが最後の食料であることを、兵たちは知らない。 季節は冬。 凍てつく星空の下、曹操自身が率いる五千の兵は「袁」の旗を用いて袁紹の援軍に偽装し、烏巣に向かいひっそりと出陣した。 夜明け間近、敵陣営を発見。 曹操軍は静かにこれを包囲。 兵に一束ずつ持たせていた藁を積み、 曹操の合図とともに、いっせいに火を放った。 焔は瞬く間に兵糧庫全体にまわり、突然の襲撃に敵陣営は大混乱に陥った。 先陣切って敵陣に斬り込んだ曹操は、燃えさかる焔をかいくぐり幾多の兵を倒しつつ敵将を捜す。 「伝令! 袁紹の援軍が背後に近付いております!」 「今は放っておけ! 先にここを陥とす……!」 曹操の兵は皆、必死になって戦った。敵将を発見。首を刎ねる。 「勝ったぞ……! 曹の旗を掲げよ! 隊列を組め。取って返し本陣を救う!」 烏巣の勝利で形勢は一気に逆転。 袁紹は曹操不在の本陣を攻めさせるが、曹洪ら守城組が奮戦。 烏巣での状況を知るや、城攻め部隊の将軍たちはこぞって曹操に降伏し、袁紹軍は総くずれとなった。 袁紹は息子ひとりを連れて黄河を渡り、軍を棄てて自分の城に逃げ帰った。 「勝った……」 一昼夜明け。 官渡の城壁の上、眩しい朝陽が、血を浴びて真っ赤になった曹操の顔を照らす。 「このオレが本初に……奇跡だ……いや奇跡じゃない……勝ったんだ……」 振り返り見れば。 曹操を信じて付き従ってきた、仲間の顔がそこにあった。 どの顔も笑っている。涙ぐんだ目を陽の光に輝かせて。 曹操は握りしめていた剣を、空高く振りあげた。 「勝ったぞー!!」 曹操軍の勝ちどきは、大地を揺るがす勢いで真冬の空に響き渡った。 *** 袁紹を追おうとしたが、見失った。それ以上、追撃はしなかった。 十万の軍勢が壊滅したのだ。当分出てはこれないだろう。深追いすることに意味はない。 それよりも、曹操にはやるべきことが山積していた。 投降者の保護。 敵陣営と捕虜の回収。 功労者への叙勲と、軍の再編成。 兵と民への労いと慰撫。 戦後処理は忙しい。 その人がやって来たのは、そんな忙しい日々のさなかだった。 彼は自ら手を縛り、兵らに連れられて曹操のもとに帰順してきた。 陳淋と、名乗って言った。 「陳淋……。覚えがあるぞ。本初のために檄文を書いたな。わしを誹謗する……」 陳淋が、床に頭を打ち付けて平伏する。 「贅閹の遺醜……とな」 「はは……っ! 申し訳ござらぬ……!!」 曹操は陳淋の前に屈むと、その両手から縄を解いてやった。 微笑んで、言う。 「戦なのじゃ。敵を貶める檄文を書くのは、いたし方ないのう。だがどうして、わしのことだけではなく、父や祖父のことまで辱めたのかな? 悪を憎んでも、その人の身だけにとどめるべきであろう?」 「……一度引き絞った弓矢は、放たずにはいられないからです」 平伏したまま、陳淋は言った。 曹操は「うふふ」と嬉しそうに笑うと、陳淋の手を取った。 「お立ちください。陳先生、これからはこの曹操のために、その才を使ってはくださらぬか」 曹操はそれ以上陳淋をとがめず、記室(きしつ※今でいう書記官)として採用。 その才能を愛し、軍事と国政に関する文書や檄文を担当させたという。 敗残の将袁紹が棄てていった陣からは、いろいろなものが見つかった。 没収した袁紹宛ての書簡のなかには、許都の城下と曹操陣営の人からのものが、多数入っていた。 当時形勢不利だった曹操を見限り、袁紹と内通していた者たちの書簡である。 曹操はそれらの書簡にあえて目を通さず、一箇所にまとめさせた。 出てくるわ出てくるわ、内通者の書簡はすぐに、うず高い山積みとなった。 「……本当にいいのか? 孟徳。これらを焼いてしまって。おまえを裏切ろうとした連中の書簡だろう? 一応把握しておいたほうが、いいんじゃないか?」 荀攸とともに書簡の山に油をかけていた曹操は、後ろでそう呟いた夏侯惇に向って言う。 「よいのじゃ。もしもわしがこれを読んだとあらば、差出人は生きた心地がしないだろ? わしは読まぬよ。本初の強かったあの時は、わしですら不安に怯えていたのだ。まして他の人は……当然のことだ……」 曹操は立ちあがり、パンパンと手の埃を払った。 「さ、油が行き渡った。火をつけるぞ。松明をもて」 書簡の山は、あっけなく焔に包まれた。 夜闇を照らすかがり火のように。星のような蝶のような、煌めく火の粉を巻きあげながら。 曹操と荀攸と夏侯惇の三人で、しばし見入った。 焔と、その明かりに浮かびあがる曹操の後姿にひとつしかない目を細めながら、夏侯惇は思う。 ああ、この焔は…… 何と美しい……。 そして夏侯惇は、当たり前過ぎてこれまでに一度も考えたことのないことを思った。 孟徳についてきてよかったのだ。 彼についてきてよかった。 自分は、間違ってはいなかった。 「どうした元譲。目から水がこぼれておるぞ?」 「――煙が沁みたのさ!」 ……今宵はいつになく、孟徳の姿がおおきく見える…… それからのち。 袁紹は自分の城に帰還すると、離散した兵を集め、反乱を起こした領内の賊を撃破してふたたび平定。 その後病の床につき、憂悶のうちに血を吐いて死んだ。 官渡での大敗から二年が過ぎた夏の日のことだった。 同年春、曹操は郷里に駐留。戦災、徴兵、飢饉などで荒れ果てた故郷のすがたに胸を痛め、救済の布告を出す。 同年秋、教育制度を整える布告を出し、各県に学校を造らせる。 南下して劉表(りゅうひょう)を討つ。 曹操は軍をひきあげて許都に帰還。 袁紹の二人の息子が後継者争いを始めたため、謀を用いて兄弟を戦わせる。 軍を出し、いがみあう兄弟を撃ち払うと、曹操はついに袁紹の本拠であったギョウ城を陥落させた。 曹操四十九歳。官渡での大勝から、四年の歳月が流れていた。 「――哭す?」 許都から赴いていた荀イクの言葉に、曹操はキョトンとして訊き返した。 「はい。主公には、袁紹の墓を祭り、墓前で哭していただきます」 「……ふうん」 どうも、ピンときていない様子の曹操である。 「して? 続けよ」 「はい。袁家は歴史ある名門です。河北(かほく※黄河より北の地域)を統治していた袁紹は懐の深い人柄で、領民から慕われておりました。主公がこの土地を平定するにあたりまして、人心 の掌握が急務です。反乱など起こされても困りますからね。ですから、主公には袁紹の墓を祭り、墓前で哭していただきたく――」 「わかった文若。わかったけど……」 曹操は小首を傾げ、ほろ酔いのような笑顔を浮かべて言う。 「涙が出るかな? 本初にはほとほと愛想が尽きたし、すっかり冷めちまったからなあ」 「嘘泣きでけっこうです!」 「……」 怜悧な美貌の荀イクが、眉ひとつ動かさずにイラついているのを見て取って、曹操は少し、可笑しくなった。 「ああ、じゃあさ、思い切り感動的なのがいいよな。晴れた夕暮れ刻がいい。わしは白い喪服をまとって、本初の墓を抱いて天を仰いで哭くんだ。おおそうじゃ、哀しい音楽も奏でさせよう。厳かにな。台詞も考えねばいかんな。劇作家を呼べ、劇作家を!」 「……主公」 完璧な麗しいかたちをした荀イクの眉が、片方だけピクリと吊りあがった。 「何をはしゃいでらっしゃるんですか?」 「……えっ」 それはある晴れた秋の夕べ。 曹操は真っ白い喪服をまとい、袁紹の墓前にひざまずいた。 傍らには荀イク。すこし控えて、夏侯惇や幕僚の面々。左右には楽隊が整列し、音取りの後、しめやかに奏で始める。 遠い秋空を、雁が列をつくって渡っていた。 「本初、そこにいるのかい?」 半円形の石積みの墓標に、曹操は手のひらをそわせた。 西陽を吸って、墓石は意外なほどあたたかい。頬をつけると、石の感触が心地好く眠気を催した。 「本初…… 袁兄……。おまえとは、いろいろあったな。ほんとうにいろいろ」 感情の抑制がきかなくなったのは、その時だった。 身の内から、わけのわからないものが、いっせいに溢れだす。 熱い。熱い。 涙が出る間ももどかしいほどの奔流。 これは何だ。 コレハ ナンダ。 「……ふっ……っ……!!」 曹操は、両手を地面についてうずくまった。 ぱた、ぱたと、涙がこぼれ落ちる。 「う、う、ううう〜っ…………」 曹操の冗談から駒が出て召しだされた劇作家が、荀イクの背後に近寄り、袖を引いて耳打ちする。 「文若殿、もっとこう、哭する、という感じにはなりませんかな。呻くのではなくて。あと、台詞はどうしたのですか。せっかく考えた感動的な台詞……」 「待て」 荀イクは、劇作家の口に指を当てた。 「――まことの涙を流しておられるのだ……」 誰かが、泣いている。 泣き声が聞こえる。 独りぼっちで、心細そうな声。 泣いているのは子供。 取り残された、ちいさな子供。 周りじゅうから無視されて。腐れ者と苛められて。泣くことすらゆるされなくて。 そんな子供にただひとつ差し伸べられた…… 形のいい、大きな手。 董卓に洛陽を焼かれたあの日、どうして曹操は、あんなにも必死になれたのだろう。 目に浮かんだからだ。 燃えさかる焔の街に取り残された、子供の顔が浮かんだからだ。 独りぼっちでなすすべもなく泣いているあの子は、幼い頃の曹操自身だった。 だから…… 『袁兄』に救って欲しかったのだ。 どうしてあの時袁紹は、曹操がどんなに必死に頼んでも。 泣いて訴えても。 願いを聞き入れてはくれなかったのか……。 ……洛陽が燃えている。今も、燃え続けている。 おまえとの思い出とともに。 この焔は消えない。 曹操が生きている限り、彼の胸で燃え続ける。 そしてそれは内なる熱源となり、 その後の彼を生かすだろう。 狂おしいほどに。 音楽は途切れ、曹操のすすり泣く声以外は、何の物音も聞こえなかった。 やがて陽は西の地平に沈み。 泣き声は風にのって高く運ばれ、一番星の光る夕闇の空へと消えていった。 おわり
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