コグマ




 アクマに魅入られてしまった。
 最初に気づいたのは、洗面所で化粧を落としていた時。半開きのアコーディオンカーテンがかすかに揺れて、なにかいるなと思った。顔を洗い終っておそるおそる振り向くと、そこにアクマが立っていた。
 アクマは一見人間の赤ん坊に似ていた。ふっくらと白い頬、栗色の髪。うすい眉の下のつぶらな瞳。ただしその瞳は血液のような深紅で、首から下はムクムクとした黒い毛で覆われている。ぬいぐるみじみた質感の毛だ。
「俺はアクマだ」
 アクマは自分から名乗った。外見に似合わず、アクマの声は中年男のそれだった。
 最初はぞっとしたが、恐怖よりも戸惑いのほうが勝っていた。しばらく茫然とつっ立ったのち、判断を保留にしてお風呂に入った。髪を洗っている間にいなく なってくれないかな。けれどアクマは、わたしが浴室から出るまでそのままじっと待っていた。すりガラス越しに、そこにいるのが見えていた。
「いい気なもんだな」
 お風呂からあがると、アクマは片頬を持ち上げて言った。どうしてもつねりたくなるようなほっぺただ。わたしは考えた。こういう場合、無視するに限るのではないだろうか。スパムメールよろしく。
 ベッド。座椅子。窓。冷蔵庫。1DKのこの空間で、アクマは常にわたしの先回りをする。コンパスの短い脚で前を歩くので蹴飛ばしそうになる。わたしはで きる限り彼を無視した。彼がいないかのように振舞おうとした。けれどそれは無理だった。蹴飛ばさないようにしなければならないし、いないかのように振舞お うとする時点で、わたしは彼を無視できていない。そうしているうちに、彼がわたしの目に映ろうといちいち先回りしていることに気がついた。わたしは思わず 笑ってしまった。
 アクマはその深紅の瞳でじっとわたしを見詰めている。口元に冷ややかな笑みを浮かべながら。
「なぜアクマがわたしのところに」
「知っているだろう」
 中年男の声で言う。
「知らないわ。そもそもわたしはクリスチャンでもないのよ」
「クリスチャンかどうかは関係ない」
 それもそうだな、と思った。人の心の魔はキリスト教だけのものではない。
「おまえには俺が必要なのさ」
 いい加減なことを。アクマの言葉に納得などするな、自分。
「ねえ、どうしてアクマなの。名前はないの。サタンとか、ベルゼバブとか」
 アクマは深紅の瞳を見開き、それから細めて、
「ない。アクマはアクマだ」と言った。三月のぼんやりとした夜のことだ。

 その日の仕事を終えてビルの裏口を出ると、お酒と料理と人と衣類のにおいが入り混じった『金曜日のにおい』がした。単純に浮かれているというよりは、浮かれなければならぬ、という義務的な感じのするにおい。今日は明日菜と食事の約束をしている。
 待ち合わせの店は、最近できた若者向けダイニングバーだ。カウンター席で待っていた明日菜が、ヨ、しのっち、と細身のビールグラスを持ち上げた。おつかれ、とわたしは彼女の横に座る。
 大学からの友人である明日菜とは、最近しばしば仕事帰りに会う。恋人ができて一ヶ月そこそこの明日菜は恋話をしたいさかりであり、別れて半月のわたしは人恋しい。利害が一致したのだ。
 わたしはジントニックと和風きのこのパスタを、明日菜は蓮根のサラダと二杯目のビールを注文した。
「次はいつ会うの?」
「日曜」
 明日菜は嬉しそうな表情をする。そこにわたしに対する遠慮や気遣いが微塵も感じられないから、わたしはこの子が好きなんだなあ、と思う。
 明日菜は今の彼と、インターネットのSNSサイトで知り合ったという。
「そのストラップ、彼から?」
 大事なお守りのように手元に置かれた明日菜の携帯に、新しいストラップが結ばれていることに気づいて、わたしは訊ねた。
「おそろいなの」
 ストラップはちりめんの黒猫で、首のところに小さな鈴がついている。明日菜が携帯を振ると、ちりころとかわいい音が鳴った。
「彼も猫好きなの。一緒に住んだら絶対猫飼おうねって」
「そう。素敵ね」
 明日菜の前には、未来が広がっている。閉じることのない、かがやかしい海のような未来。それを疑いもしない、果敢な明日菜。以前はわたしもその海の前に立っていたのだろうか。そんなことはないだろう。わたしは、いつだって。
「道夫くんとは、もう、ぜんぜん?」
 ふいに心臓を抜かれた心地がして、わたしはイメージのなかで、ぎこちなく脈打つそれを所定の位置に戻す。そうなふうになるなんて驚いた。もう気持ちは凪いでいると思っていた。
「連絡は、取ってない。会ってもいない」
「さみしい?」
「うん」
 アクマ。
 さみしさというものを浮かべると、それはわたしの部屋で、そこには小さなアクマがいた。
「でもさあ、それって」
 明日菜はそう呟くと、続きは言わずに黙ってビールを飲んだ。

 道夫くんとは、古本屋で出会った。わたしが二十二歳の時。すなわち、今から四年前。わたしは大学を卒業して今の会社に勤めはじめ、わたしよりふたつ年上 の道夫くんは、その古本屋でアルバイトをしていた。道夫くんの本業はコンピュータソフトのプログラマーで、古本屋のアルバイトは、時々頼まれてしていた程 度だった。だったのだが、わたしと道夫くんの遭遇率は高かった。たまたまか、なんらかのシンクロがあったのか。わたしたちはもちろん、後者を信じた。
 何度目かのシンクロで、道夫くんに声をかけられた。他にひと気のない古本屋で、レジを挟んでわたしたちは立ち話をした。わたしが選んだ本の話からはじまって、今度食事でもどうとなるまで、五分だったか、三十分だったか。ぎこちない話し方のわりには、積極的だった。
 中途半端な長さの黒い髪。顎に集中してあるにきびのあと。ゆっくりとした仕草。話す時も斜め下を見ている黒目勝ちの瞳。本を丁寧に扱う、節の目立つ長い指。
 畳と喪服がよく似合いそうな風貌だと思った。親戚の集まりに必ずひとりはいる、物静かであなどれないタイプの青年。
 それからほどなくして、わたしたちはつきあいはじめた。
 道夫くんは実家住まいだったから、ふたりで過ごす場所は、いつもわたしの部屋だった。時には外にも遊びに行ったが、わたしたちは部屋の中で過ごすほうが 好きだった。道夫くんのこの部屋で過ごす時間はしだいに長くなり、半同棲ということになった。休日は昼間から一緒にお風呂に入って、気がのったらお風呂あ がりにセックスをして、夕方になってからコンビニや公園に小さなお出かけをした。わたしたちはいつも手をつないで歩いた。つないだ手から伝わってくるの は、いつだって高揚とは正反対の安らぎだった。道夫くんはわたしのことを「しいさん」と呼んだ。必要以上に、しょっちゅう呼んだ。わたしたちは、セックス がゆるされているだけの、幼い兄妹のようだった。

 部屋に帰ると、アクマは、座椅子に座ってテレビを観ていた。ドーナツをふたつ組み合わせた形の、オレンジ色の座椅子。汚れて黒ずんだところが、なおさらドーナツっぽい。
「ただいま」
 とがった耳がわずかに動いたが、アクマはわたしの挨拶を無視した。わたしはそおっとアクマの後ろにまわり、左右から頬をつねってやった。手足を泳ぐようにばたつかせ、アクマはわたしの手を振り払うと、燃える瞳で睨みつけた。
「きれいな瞳」
「死ね、バカ」
 アクマのことがいとしくなったのは、この時が最初だ。死ね、バカ。なんて可愛らしい響きだろう。
 道夫くんもよくこんなふうにテレビを観ていた。このドーナツみたいな座椅子で。わたしひとりだと、めったにテレビをつけることはない。
 アクマはまたテレビに顔を向けた。瞳に画面が反射して、万華鏡のようだ。
 それにしても、アクマはこの部屋にすごく馴染んでいる。まるで道夫くんがそこにいるみたいに。帰ったのではなくて、ずっといたみたいに。道夫くんが抜けてできた穴に、まんまとおさまっている。奇妙だった。道夫くんとアクマの、姿かたちはまるで似ていない。
 さほど強くではないが、わたしはアクマがアクマらしいふるまいを見せることにおそれを抱いていた。いまかいまかと、おそれていた。ところが、わたしが就 寝の準備を終えるまでの間、アクマはただテレビを観ているだけだった。そして本末転倒なことに、わたしは自分から訊ねた。
「わたしの魂が欲しいの?」
 アクマは、なにをバカなことをと言わんばかりに、歪めた顔で振り返った。
「まったく、人間の魂なんかもらって、どうしろって言うんだい」
 そう言ってせせら笑う。どうって、それはこっちが訊きたい。アクマというのは人間と契約を結んで、魂を欲しがるものではなかったか。
「じゃあ、あなた、どうしてここにいるの。テレビを観るためじゃないでしょうね。まさか」
「アクマってのは、欲望に形を与えるために来るもんだ」
 アクマはリモコン片手にチャンネルをかえながら、くぐもった声で答えた。
「なにそれ。どういうこと」
「だからあ、俺はあんたの欲望に形を与えて、そこに住んでるんだよ」
「ぜんぜんわからない」
「頭悪ぃな」
 腹が立った。わたしはもやもやと理解できないことがあると、腹が立つのだ。これならさっさと魂でもなんでもかけて契約を交したほうが、どれほどすっきりするか知れない。
「いつまで居座る気よ」
「季節がかわるまで」
「春が終るまでってこと?」
「ひとつの欲望がしまいになって、次の欲望の準備期間に入ることを、季節がかわるって言うんだ」
 それだと、人間には欲望と欲望の準備しかないみたいだ。それもそうかもしれないと思い、大真面目なアクマの紅い瞳を見ていると、返す言葉をさがす気も失せた。
「まあ、いいわ。ずっといるんじゃなければ」
 テレビを一晩じゅうつけっぱなしにしないでね、と言おうとして、やめておいた。アクマは、食べ物などはいらないようだ。
 次の日は休日だった。休日だったことが、たぶん関係しているのだろう。わたしはひとつ、やらかしてしまった。
 声を発してから、十秒以上も気がつかなかった。アクマが大袈裟な笑みを浮かべたのを見て、はっと気がついた。
「道夫くん」
 テレビを観るアクマの背中に向かって、そう呼びかけていたのだ。しかも何度も。床にノートパソコンを開いて見ていたせいもある。つい無意識に引きこまれた。
「はーい、僕道夫くんでーす」
 なんという嫌味ったらしい声。そしてアクマは、ゆっくりと甘えるように「しいさん」と呼んだ。わたしは頭に血がのぼり、なによふざけないでよと叫んでアクマに殴りかかった。
 アクマの体は、微妙に伸び縮みした。どうしてもパンチにセーブがかかってしまう。ムクムクのお腹にこぶしがぶつかる感触が気持ちよくて、わたしはふいに混乱した。怒りと気持ちよさと道夫くんとアクマがごっちゃになった。
「ほら、もっと殴りなよ。殴りたいだけ殴りな」
 アクマがそそのかす。痛いのか、平気なのか、どっちつかずの表情でわたしを見詰める。
「もう絶対言い間違えないから」
 わたしはそう言い放つと、ベッドにもぐりこみ、その後少し泣いてしまった。

 あれは日曜の夕刻、小さなお出かけから帰ってきてすぐのことだった。
「好きな人ができたんだ」突然そう打ち明けられた時、わたしは「ふうん」とそっけない返事をした。冗談でなく、漫画かアニメの登場人物のことかと思ったのだ。道夫くんはけっこうオタクだったから。
 その後に続いた沈黙と、道夫くんの思い詰めた表情で、ようやくわたしは事態がリアルに迫っていることを悟った。
「じゃあ、もうこのままってわけにはいかないわね」
 そんなことないよ、という返事をどこかで期待していたが、道夫くんははっきりと縦に首を振った。
 話は簡単だ。ふられたのだ。
 ふられて最初に考えたのは、部屋のことだった。この部屋から道夫くんという存在が消えたら、どうなってしまうのだろう。道夫くんの本が本棚から消えた ら。道夫くんの背中がテレビの前から消えたら。道夫くんと出会う前、ここはどうだったか。どうしても思い出せないくせに、他のことは考えられなかった。
 けれど現実は待ったなしだ。翌日には道夫くんは去り、わたしはひとりの部屋に取り残された。
 どうということはなかった。わたしは悲しみに暮れたりはしなかった。朝起きて、会社に行って、帰って、寝る。日々の営みは着々とやってきて、淡々と過ぎ ていった。明日菜の恋話の聞き手になるのも、それなりに楽しかった。ただ、いく度か同じ、不安な夢を見た。どこかの無重力空間で、わたしはふわふわ浮いて いる。そこで握っていた命綱を手繰ると、先が切れてしまっているのだ。
 恋人にふられて見る夢としては、不安が勝ち過ぎているような。
 そんな日々のさなか、アクマは忽然と現れたのだった。まるで呼ばれたかのような顔をして。
 アクマは夜眠らない。一晩じゅうテレビを観て、昼間うとうとする。

「でもさあ、それって」
 そこでいったん区切り考えるのが、明日菜のクセだ。
「情だよね。恋というよりは」
「情?」
「そう。しのっちの話を聞いてるとね。しのっちのさみしいは、情からきていると思う」
 ああ、この前の続きか。
「恋と情の違いってなにさ」
「恋は病だけど、情は依存。恋はいつか終るけど、情は死ぬまで続く」
「なるほど」
 明日菜のなかにはいつも確固たる定義がある。いままさに恋している最中でも、それはゆるがない。
「情なのかなあ」
「情だよ」
 わたしのなかには、明日菜のようなくっきりとした定義がない。
 心象は、常に輪郭がぼやけている。
 それに形を与えるためにアクマはやって来たのだろうか。
 ねえ、道夫くん。
 ねえ。
 出かかった声を、喉元でのみこんだ。いけない、まただ。
 見えているのは相変わらずの後姿。テレビを観ているアクマ。くまみたい。小さな、絵本に出てくる、うそもののくま。
 ねえ、道夫くん。
 違うとわかっていても何度でも呼びかけそうになるから、かわりにわたしはこう言った。
「あ、くまのぬいぐるみ」
 道夫くんなら、「さむーっ」と雄たけびをあげたことだろう。我ながら陳腐だったもの。けれどアクマはわたしを睨みつけるなり、無言で飛びかかってきた。もうがむしゃらな感じで、体当たりをしてくる。
「ちょっと、どうしたっていうの」
「俺はぬいぐるみなんかじゃないッ」
 そうか。そこのところか。
 アクマはわたしの頭に歯を立ててがじがじと噛んだ。
「ちょっと、やめてよ。痛いじゃないの」
 笑いがこみあげる。ク、ク、ク、と喉が鳴る。痛いのに。アクマに食べられちゃうかもしれないのに。
「どうだ。わかったか」
「わかった、わかった。ぬいぐるみなんて言って悪かったわ」
「今回は手加減してやったんだからな」
「もう、ムキにならないでよ」
「ムキになどなっていない」
 アクマは眉を吊りあげると、憤然と腕組みをした。
 足が、つかない。
 体がどこにも触れていない。一本だけお腹に巻きついている、湿った綱。わたしはそれを手繰る。手応えに希望がみなぎる。ところが手応えはふつっと消え、手繰る先に切れた綱の端が見える。
 いやだよう。いやだよう。
 だれかわたしに触れてよう。
 他人のように響く、わたしの細い泣き声。
 その時、空間から黒い手が伸びてきてわたしに触れた。わたしの視界に、見慣れたインテリアが広がる。アクマが、ベッドの下から背伸びしてわたしを揺り動かしていた。明かりも消さずに、わたしはうたたねをしていたようだ。
「連絡が来たぞ」
 アクマは、床に投げ出してあるわたしの手提げ鞄を顎でさした。
「え?」
 本当だ。マナーモードの携帯が鞄の中で細い振動音をたてている。
「メールだわ」
 着信表示を見てみぞおちが真空になった。道夫くんからだ。
 わたしは息を止めて受信ボックスを開いた。
『元気? もうすぐしいさんの誕生日だね』
 タイトルはなく、絵文字のない本文は簡潔だった。けれどそれは、簡潔だからこそ、わたしを底なしの深読み地獄に突き落とす。
 アクマが笑う。わたしのすぐ後ろで、サイレンのようにけたたましく。
 やめてよ。やめてよ。その笑い声、頭に響き過ぎる。どうして笑うの。からかっているの。
「どうした。これを待っていたんだろ。はやく返信しろよ。会いたいって送れよ」
 見ると、アクマの笑顔は無邪気そのものだった。
 わたしは打ちかけたメールの指を止め、えいやっと電話をかけた。
「やあ、しいさん」なんでもないふうな、道夫くんの声。わたしは深く息を吸い、はいた。胸の内がほっこりと安らかになっていく。そういうのは恋じゃないよと、明日菜なら言いそうな。
「会いたいの」わたしは言った。
「うん、いいよ」
「いまどうしてるの」
「苦戦してる」
 その言葉の意味が、わたしにはわかる。好きな人ができたと言った時、道夫くんは切実だった。
「告白したの」
 沈黙。
「まだなのね」
 瞳を伏せて言葉をさがす道夫くんの姿が、目に浮かぶようだ。
「とにかく、一度会いましょう」
 道夫くんがなにか言いたげた気がしたが、日時と場所を取りつけ、「じゃあね」とわたしは電話を切った。声にはまったく影響しないが、涙が生温かく、いく 筋も頬をつたい落ちていた。この先わたしを待つ決定的なことへの、予感の涙。それでも会えることが楽しみで、体じゅうの血が喜んでいる。

 待ち合わせ場所は、ふたりでよく行ったファミリーレストランにした。窓際の席、つるつるした黄色いソファに座り、外を見る。明る過ぎる照明と大きなガラス窓が、やけに懐かしい。
 少しすると、道夫くんがはにかみながら近づいてきた。時間通りだ。
「ひさしぶりだね、しいさん」
 そう言って向かいの席に座る。わたしは、もう涙が出そうだった。
「会いたかった」
「僕もだよ」
 屈託なく言ってから、にわかに困惑の色を見せる道夫くん。
 いいの。いいのよ。わかってるわ。困った顔しないで。
 わたしたちはメニューを選び、フリードリンクを取ってきて、改めて向きあった。
「これ、誕生プレゼント。まだちょっと早いけど」
 そう言って道夫くんがくれたクラフトの包みには、天然水晶のストラップが入っていた。
「ありがとう」
 水晶は、ひんやりと手に馴染んだ。
「最近どうしてる?」
「ぼんやりしたり、明日菜の恋話を聞いたり」
「ああ、あのキッパリハッキリの明日菜ちゃんか。恋人ができたの?」
「ええ」
 わたしは、アクマと暮らしてる。道夫くんになら言ってしまってもいいかなと、頭の隅で考える。かすかに身じろぎして、ほんのりとした笑みを浮かべる道夫くん。
 たぶん、わたしが求めているのは対等な関係ではない。わたしはこの人の付属物になりたい。この人に付属して、永久に停滞していたい。いつだって、それがわたしの最終的な願いだった。
 かすかに、唐突に、わたしは自分がアクマに魅入られた理由がわかったような気がした。
「ねえ、道夫くん」
「なんだい」
「わたし、道夫くんが好きよ。道夫くんが好きな人ができたって言ったとき、信じられなくて、意味がわからなかったくらい好き。ずっと、ずっと、道夫くんと一緒にいたかった」
「うん。ごめんな、しいさん」
「いいのよ。仕方ないわ。でも、ひとつだけお願いがあるの」
「お願い?」
「道夫くんが好きになった人に会わせて」
 なぜ? と訊かれないことに、わたしは賭けていた。訊かれても、納得のいく答など持っていなかったから。ただ、わたしには必要な手続きだった。道夫くんの好きになった人を、ちゃんと思い浮かべられるようにしておくこと。
「いいよ。じゃあ、これから会いに行こうか」
 賭けは勝ちで、道夫くんは少し考えた後、迷いのない声でそう言った。その迷いのなさに、わたしは半分救われ、半分打ちのめされる。
 道夫くんはわたしを先導して歓楽街に入っていった。駅裏の、小さな歓楽街。
「夜しか開いてないお店なんだ」
 店はビルの二階、螺旋階段の上にひっそりとあった。エル、という名のスナックだ。店の黒い扉の前で、道夫くんは深呼吸をした。
「最初は、会社の人が面白半分で……ね」
 落ち着いたインテリアの店内では、数人の客がくつろいでいた。店員は、皆美人だった。美人で、そして、見事なほどに太っていた。そのなかでも、ひときわ美しくて重量感のあるママが、道夫くんの想い人だった。
「いらっしゃい」
 ママが、華やかな笑顔で道夫くんに話しかける。隣で道夫くんが、声も出せないほどにがちがちに緊張するのがわかった。
「あら珍しい、今夜はお連れさんがいらっしゃるのね。恋人? 素敵な方じゃない」
「いいえ」
 単なる社交に過ぎないママの言葉に対して、わたしはキッパリと否定した。
「いいえ、わたしと道夫くんは、仲の良いお友達です。恋人ではありません」
「まあ、そうなの」
 ママは聖母のように微笑んで、わたしたちにカウンターの席をすすめた。

 わたしが酔って部屋に帰ると、アクマは明かりもテレビもつけずに待っていた。
「改めて、ふられてきたよ」
 アクマの姿は半ば闇に溶け込んでいた。ふたつの紅い瞳は、またたかない暗い星のようだった。そのあやふやな影に向かって、わたしはダイブした。やわらか に広がり、アクマはわたしを受けとめてくれた。ぬいぐるみの肌触り。そうだ、これは子供の頃持っていたぬいぐるみと同じ肌触りだ。泣き虫だったわたしの涙 をたくさん吸ってくれた、くまちゃんのお腹。
 アクマの体は、前よりもいっそう伸び縮みしながら、わたしを包みこんだ。わたしは思い切り泣きじゃくりながら、そのお腹に顔をこすりつける。
 これがわたしの欲望だ。道夫くんに向けられていたけれど、道夫くんとは関係なくここに存在した、欲望。
 わたしの欲望は、こんな形をしていたのか。
 そのことに納得すると、わたしはどこか安心して、そのまま眠ってしまった。

 目覚めたのは、午前の四時だった。時計の音が耳につき、カーテンを開け放した窓に濃密な闇が迫っていた。夢は見なかったようだ。酔いも抜けている。
 明かりをつけてみても、部屋のどこにもアクマの姿はなかった。
 わたしは化粧を落として、シャワーを浴びて、歯を磨く、そのあい間あい間に、アクマが本当にいなくなっていることを確かめた。
 本当にいない。
 季節が、かわったのだ。
 夜が明け、辺りが白んでくる。
 わたしはベッドに腰掛け、そのまま横向けに寝転がった。だれもいない座椅子が目に入る。
「あ、くまのぬいぐるみ」
 と言ってみると、声はどこにも届かず、はっきりと終りが来たことがわかった。













戻る