11 書置き


「紗奈・・・・・・。どうしたの?」
 ドアを開けたハルトの対応に微かな拒絶を感じ取り、それを押し返すために、紗奈はことさらにハキハキとした口調で言った。
「お見舞いよ。サンドイッチを持ってきたの。いつもいつもカレーとシチューばかりじゃ、健康に悪いわよ。たまにはサンドイッチも食べなきゃ」
 そして紗奈は、サンドイッチを入れた大きな紙箱をハルトの前に差し出した。
「ありがとう」
 ハルトは箱を受け取り、入りなよ、と軽く顎をしゃくって、紗奈を部屋の中へと導き入れた。

 部屋は、前に来たときとは違っていた。前よりも、ずっと狭く感じられた。雑然として、生活の匂いが濃く立ちこめていた。狭く感じられるのには、 はっきりとした理由がある。前に来たときは壁に埋まっていた収納式のベッドが倒されていた。病院のような、真っ白い無地のシーツがかかっていて、上でユキ トが背中を壁にもたせ掛け、脚を投げ出している。毛布の端を踵にひっかけ、あとは床までダランと垂れ下げている。

「ちらかっててごめん」
 申し訳なさそうにハルトが呟いた。
「なぜ? ハルトが謝る理由なんて、これっぽっちもないわ。そんなこと気にしないで。勝手に押しかけたのは、わたしの方なんだから」

 本当は、紗奈は怖くてたまらなかった。ハルトに、「もう帰って」と言われること。そういう雰囲気になること。上手に部屋の空気に割り込めるよう、全身で 細心の注意を払っていた。昨日の電話から、自分がハルトたちに拒絶されているのではないかという恐れを、紗奈は抱いていた。

「ベッドを出すと、狭くて落ち着く場所もないだろ。ベッドに坐ればいいよ。どちらでも、好きなところに」
「ありがとう。そうするわ」
 紗奈は、ユキトとは反対側の空いた方のベッドに腰掛けた。

 確かに、部屋の大部分は二台のベッドで占められていて、床の上にベッドがあるというよりは、ベッドの隙間から床が覗いているといった具合だ。だがそれが かえって、遊戯施設のように楽しげでもあった。はじめてホテルの二人部屋に泊まった時のワクワク感にも似ていた。(大学受験で同級生の女友達と二人で宿泊 した時のことだ)

 ユキトの額が痛々しかった。眉のすぐ上から赤黒く腫れ上がって、ガーゼと絆創膏が幾重にも貼り付いていた。ガーゼは手のひらほども大きく、額の輪郭から ゴワゴワとはみ出している。端から覗いた皮膚には、熟れた柿のようなツヤと照りがあった。額だけではなく、頬や手の甲にも細かい傷があり、ぞんざいに貼ら れた絆創膏に血が滲んでいた。

「まあ、なんて重傷なの。可哀相に」
 紗奈が身体を乗り出し、傷に手を伸ばすと、ユキトは顔をしかめてその手を払い落とした。

「サンドイッチを食べよう」
 ハルトが大皿に綺麗に並べて運んできた。三人で食べるには多過ぎるくらいの量があった。ちゃんと、クレソンも、上手い具合にふんわりと添えられている。
「美味しい」
 一口食べて、ハルトが微笑んだ。
「美味しいね」
 紗奈も静かに微笑み返した。
 ユキトも、次々とつまんでは、美味しそうに頬張っていた。

「だれか、絵を描くの?」
 いつもチェストに立て掛けられている画板を見て、紗奈はふと聞いてみた。
「ああ、あれかい」
 ハルトはつまんでいたサンドイッチのかけらを口に放り込み、立ち上がって画板を取った。
「見る?」
 紗奈は、手渡された画板を両手に持って、そこにある絵をじっと見詰めた。大きなコルク製の画板には、ケント紙が挟んであって、そこに奇妙な家が描かれていた。鉛筆だけで描かれたらしいモノクロームの家。精密な深海魚を思わせる画面には、不思議なくらいの奥行きがあった。

「不思議な絵ね。不思議な家。でも、とても上手よね」
「ユキトが描いたんだ」
 紗奈の肩越しに絵を覗き込み、ハルトが言った。紗奈の首筋に、微かにハルトの息がふりかかった。
「まあ。ユキトさんがこれを?」
「うん。これは建築のイメージ画なんだ。これをもとにして図面を起こすのさ」
「ユキトさんは建築家だったの」
「まさか。親父が建築家なのさ。ユキトの図案は独特だから、そのイメージを親父が買うんだよ。いいものを選んでね」
「ふうん・・・・・・。知らなかったわ。すごいじゃない。図案でお金をもらっているのなら、ユキトさんだって立派な建築家だわ」
「そんなことはないよ」
 そう言った割には、ハルトの声はひどく得意げで、自分のことを誉められたみたいに嬉しそうだった。少しはにかみながらの笑みが、余計に純粋に喜んでいるように見えた。

 紗奈は画板を膝に載せて、絵の家に見入った。見れば見るほど、吸い込まれるように惹きつけられた。家のデザイン自体は斬新なくらい近代的なのに、どこかが胸を打つほどに懐かしかった。

「あったかい春の日だったんだ」
「え?」
 ハルトはベッドにあがり、紗奈の横で膝を抱えた。膝に顎をのせ、そしてゆっくりとまばたきをした。

「ユキトが言葉を失ったのは、とても気持ちのいいお天気の日だったんだ。桜が咲いていて、息をしているだけで眠くなってくるような、そんな日さ。母さんは ベランダでシーツを干していた。窓を開け放して、カーテンが微風に吹かれてゆっくりとふくらんでいた。春休みでさ、ぼくはパジャマのまま居間でファミコン をしたり、ゴロゴロしてたんだ。ユキトは友達に電話をかけて、遊びに行く計画を立ててるみたいだった。何の予感も前ぶれもない平和な朝だったよ。それなの にさ。ユキトは受話器を下ろすと、そのままの姿勢で一言『あれ』って言ったんだ。ぼくはユキトが電話の用件を言い忘れたのかと思って『どうしたの』って聞 いた。それだけだよ。ユキトは椅子から立ち上がれなかった。振り向くことさえできなかった。そして変な喉の声を出したんだ。ぼくはユキトがふざけているん だと思った。だから『なんだそれ』って言ってゲームを続けた。母さんがユキトの傍に行って『どうしたの』って言った。『どうしたの、どうしたの、どうした の、どうしたの、どうしたの・・・・・・』それからは、あまり覚えていない。何度思い返しても、いきなり救急車のシーンに記憶が飛んでしまうんだ。サイレ ンや、担架が重みで軋る音や、中のカーテンの揺れ具合なんかさ」

 淡々とした話し方だった。まるで昨日観た映画の内容を語って聞かせているかのようだった。膝を抱えた腕の中に半分口を埋めているので、しゃべる言葉は少 しくぐもって聞こえた。瞳の中には悪戯っぽい小さな光がひとつずつ宿っている。とてもわたしと同い歳の大学生とは思えない、と紗奈は密かに胸の内に呟い た。もっと、ずっとちっちゃな男の子みたいだ。

 こういうハルトを見るのは初めてだ、と紗奈は思った。思い出を語って聞かせているというよりは、自分でも消化しきれない記憶のイメージをたぐっているよ うだった。普段は奥の方に沈みこんでいる記憶の泉みたいなものがあって、それが今こんこんとあふれだしているかのようだった。

 ハルトは、ひとりしゃべり続けた。

「少し落ち着いてから言葉を失ったユキトを見ているとね、もうどうしようもない気分になった。悲しみとか、同情とか、そういうたぐいの感情じゃないよ。な んていうのかな、感情じゃないんだ。それは、本当にただの『気分』なんだ。ユキトの命は助かったんだからいいじゃないかって自分に言い聞かせてもだめなん だよ。ああ、もう、手が届かない。ユキトはぼくの知らない遠くに行ってしまった。そんな考えばかりが、妙な確信をもって浮かび上がってくるんだ。ユキトの 本質は変わらないのにね。でも、ちょっと待てよ。ユキトの本質ってなんだ? 本質に言葉はいらないのか? じゃあ、ユキトが失ってしまった脳のかけら、あ れはいったいなんだったんだ。あの脳は、ユキトそのものじゃなかったのだろうか。あのかけらを含めたバランスみたいなものが、ユキトだったんじゃないだろ うか。だとしたら、今ぼくの目の前にいるユキトは、ぼくの知っているユキトとは別の人間だということになる。でも・・・・・・ だとしたら・・・・・・  そういうふうに考えが止まらなくなっていく。どんどんわからなくなっていく。いくら言葉で探ってみても、手がかりがないんだよ。それでぼくは、なんでもい いから手がかりがほしくて、言葉をしゃべることができた頃のユキトを思い出そうとするだろ。でもだめなんだ。思い出せないんだ。なんとか思い出せたとして も、まるで実感がないんだよ。小さなテレビの映像をフィルターかけて見てるようなもんだ。声だって、ずっと遠くの方で木魂してるみたいにしか蘇ってこな い。ぼくは唖然としたよ。どうしても記憶がほしかった。そんなフィルター越しの景色なんかじゃなくて、頼りない木魂でもなくて、確かで鮮やかなユキトの記 憶が。ぼくは感覚をたぐりよせるようにして、一生懸命ユキトの記憶を探した。そこでたったひとつのシーンに辿り着くことができたんだ。それは火事だった」

「火事?」

「うん。あれがどこの場所の火事だったのかは覚えていない。自分の家でなかったことだけは確かだけど。多分、ぼくはとても小さかったんだと思う。前後のこ とは、まったくと言っていいほど覚えていない。ただそのシーンだけが、とても鮮やかに脳裏に焼きついているんだ。冬の夜でね。ぼくは毛糸の帽子をかぶって いた。横にはユキトがいた。父さんも母さんもいなくて、周りはみんな知らない大人たちばかり。ぼくらは道路に並んで立って、他の野次馬にまじって目の前の 火事を眺めながら、手をつないでいた。ユキトの手の感触を、今でもはっきりと思い出すことができるよ。それはとてもしっかりとしていて、それでいて、仔猫 を触っているみたいに気持ちがいいんだ。ぼくは力いっぱいその手をつかんでいた。ちゃんと握るのが難しいほどに、自分の手が小さかったんだ。ちょっと気を 弛めただけでも手が離れてしまいそうな気がして、怖かった。ユキトはちゃんとぼくの手を握っていてくれたのにね。火はとっても明るくて、噴射するみたいに たくさんの火の粉が一度に夜空に舞い上がった。湧き上がるようにして昇った煙が白く発光して、だんだん濃紺の空に溶け入るように広がっていった。消防車ら しいものはまだ来ていなかったと思う。今思うと、あれは住宅の火事じゃなかったな。小さな工場かなにかだったんじゃないかな。それで風はほとんど吹いてい なかったけど、熱気はくるし、きな臭さがだんだんものすごくなってきて、息苦しかった。時折炎の中で爆音がして、煙の塊が一気に高く噴き上げられて、その たびに周囲の大人たちが低くどよめいた。炎は建物の輪郭からすごい勢いで溢れ出していた。熱気にあてられて顔がかっかするし、おまけに変な化学っぽい臭い までしてきてくさいし、なんでユキトがいつまでもそんな所にいるのか理解できなかった。だけど、ぼく独りでそこから逃げようなんてことは、まったく考え付 かなかったな。ぼくは本当に幼かったからね。身体の前面は焼けつくように熱かったけど、背中には冬の気配が迫っていた。すさまじいきな臭さが蔓延している にもかかわらず、ちゃんと冬独特の匂いを感じ取ることができた。手をつないだまま、ユキトはぼくを見て『熱いか』って聞いた。本当は、逃げ出したいくらい 熱くて仕方がなかったのに、ぼくはブンブンと首を横に振った。そしてユキトは、すぐまた前に向き直って、『すげえな。まるで原爆キノコみたい』って言った んだ。周りは騒々しかったし、ぼくはそのときまだ原爆っていう言葉の意味を知らなかったけど、その声はつないだ手を通してはっきりと聞こえたよ。まだユキ トは声変わり前だったはずなのにね。なぜか今思い出しても、ユキトが言った言葉だっていう実感があるんだ。それだけは」

 ハルトは急に言葉を切って、視線を心持ち下にやった。いっとき、深い沈黙が、紗奈たちの頭上に霜のように降りてきた。ハルトはそして軽い溜息をついた。

 ユキトはハルトを見守っていた。見守る、という言葉が本当にピッタリだった。その姿は完璧な沈黙と同化してゆるぎなく、安定していた。彼の周囲の空気ですら、剥製のように固定されて動かない。ただ彼の睫だけが、なにかを言いたげに、か細く震えているように見えた。

 自分が思っているよりも深い苦悩を、ハルトはかかえているのかもしれない。

 それを想うと、紗奈はハルトを抱きしめたくなった。彼の奥底に湛えられた、決して涸れることのない記憶の泉のところまで降りていって、それごとちから いっぱい抱きしめたいのだ。そうすれば、自分の中からもなにかが溶け出して、それまでどうしても見つからなかったわけのわからない恐怖の名前だって、いと も簡単に輪郭を現すかもしれない。

 ゆるぎないユキトの沈黙に見守られて。そうすれば安心だ。
 少し眠たくなって、紗奈は根拠もなしに確信した。

 そうすれば安心なのだと。

 ユキトの額の傷が熱を持っている。それが見た目にもわかった。まるで殴られたみたいな傷だ、と紗奈は思った。そこから先は考えたくなかった。本当は、なにかがわかりかけていたのだけれど。その答えに辿り着く前に、まどろんでしまおうと思った。
 ユキトが、美味しそうにサンドイッチを食べてくれた。
 ユキトが、美味しそうにサンドイッチを食べてくれた。


「わたし、眠ってしまっていたの」
 窓の隙間から、夜の匂いが酸素をたっぷり含んで滑り込んできた。それで紗奈はふと目を覚ました。やわらかなシーツの肌触りと、ほどよく沈み込んだ自分の 体重を感じた。ほのかな体臭が入り混じった羽毛の匂いを深く胸に吸い込んでから、紗奈はちゃんとベッドの真ん中で蒲団をかぶって寝かされている自分に気付 いた。

 ハルトは、音量をほとんど聞こえないくらいにしぼって、テレビゲームをしていた。あぐらをかいて、前かがみに背中をまるめて、画面を凝視する彼の後姿に 見覚えがあった。ほんの先端だけ顔の輪郭から覗いた睫が、モールス信号のようなリズムを刻んで、めまぐるしく動いていた。ツー・トン・ツー・トン・ツー ツー・トン・ツー・トン・トン・・・・・・

「おはよ、紗奈。よく眠っていたね。サンドイッチ、紗奈の分だけ残してあるよ」
 ハルトはコントローラーを持ったまま振り返り、幼児のようなあどけない笑顔で言った。
 紗奈も微笑んで、囁くような声で、おはよ、と言った。ほんのちょっと首を動かしただけでも、耳もとで髪と蒲団が擦れ合うカサカサッという音が響いた。

「夢を見ていたわ」
 紗奈はとても幸福そうな目をして、ハルトに話しかけた。
「ふうん。どんな夢?」
「ストーブの夢よ。冬の夜なの。外は真っ暗で、吹雪いているの。窓からは、雪の粉が朝靄のように暗闇に舞い上がっていくのが見えたわ。不思議な筋の模様を 描いて、雪は途切れることなく舞い上がっていたわ。大勢の人の呻き声のような風の音がひっきりなしに響いていて、それから逃れるようにみんなで寄り添っ て。でも、だれもしゃべろうとしないの。ひとつのストーブを囲んで坐っている人たちの顔には、どれも見覚えがあったわ。けれど、だれひとり、しゃべろうと はしないの。それは、闇や風の音が怖いからじゃないの」
「ふうん。だったら、どうして?」
「幸福だからなの。そのひとつのストーブのおかげで、みんな、なにもものを言わなくてもいいくらい、満ち足りた気分なの。飾り気のない円筒形のストーブの 真ん中には、あたたかなオレンジ色の炎がまるく燈っていたわ。みんな、穏やかな表情で、静かにその炎を見詰めていた。わたしもそのなかの一人だった。わた しも、みんなと同じようにオレンジ色の炎を静かに見詰めて、みんなと同じように幸福だった。夢の中でわたし、その幸福がいつまでも続くような気がしていた わ」
 ハルトは静かに微笑んだ。
「いい夢だね。とても素敵な夢だ」
「ええ、そうね」

 呟いてから、紗奈はにわかに不安な眼差しになり、部屋の中にユキトの姿を探した。ユキトはベッドとベッドの谷間にいた。額は真っ赤に腫れあがり、逆に頬 は、冷たく粉を吹いたように蒼褪めている。額の腫れは、さっきよりも酷くなっているみたいだった。狭い隙間に沈み込むように坐る彼の姿は重苦しく、息すら していないかのように見えた。

 時計の針は深夜の二時を回っていた。

(休日の今頃じゃ、救急病院しか開いていないわね)
「え? なにか言った?」
「ううん、なんでもないの。ただの独り言」

 紗奈はユキトの鼻先にそっと指を近付けた。するとユキトは、閉じていた目をキッと見開いて振り向き、鋭い視線で紗奈を睨み付けた。拒絶。

 ああ、お腹がすいた。そう言って、紗奈は残りのサンドイッチをたいらげた。呑み込んだ先からしゅんと融けて、食道の粘膜に染み込むほどに美味しかった。

 三時を回った。

 国道を走り去る自動車の音もいっとき止んで、部屋の空気はしんしんと冷え込みを増していった。

 ス・・・・・・と、ハルトの気配が変わった。
 ハルトはゲームのコントローラーを握ったまま、突然眠りだした。そして、彼の身体はたわむように傾き、ベッドの裾に軽く寄り掛かった。ユキトも、狭い隙 間に身体を埋めたまま、いつの間にか、うつむいて眠っていた。彼らの寝顔はそっくりだった。起きている時よりもずっとよく似ていると紗奈は思った。

 紗奈はゲームの電源を切り、テレビを消し、二人の身体にふわりと羽根蒲団を掛けた。

 それから明け方まで一睡もせずに、紗奈は二人の顔を見ていた。
 二人は、ずっと深い眠りの淵に落ちていったようだった。固く閉ざした瞼をピクリとも動かさず、寝返りもうたなかった。部屋は深い静けさの中に沈みこみ、聞こえるものといえば、穏やかなハルトとユキトの呼吸音だけだ。

 じっとしていると、思い出したくもないのに、一昨日に電話をした時のハルトと自分の会話が、紗奈の脳裏に鮮明に蘇ってきた。

ハルト、今日学校休んだでしょう。寝てたの? 身体の調子でも悪いの?
いや、ぜんぜん・・・・・・ぼくはなんともないんだけど・・・・・・ユキトが・・・・・・。
ユキトさんがどうかしたの?
ちょっと・・・・・・転んで・・・・・・タンコブができて腫れてて・・・・・・病院に行くほどじゃないんだけど。
手当てはしたよ。ちゃんと。今はベッドで寝てるけど、目は起きてる。こっちを見てるよ。
いや、来ないで欲しい。ありがたいけど。ちょっと眠くて・・・・・・。ぐっすり眠りたいんだ。
うん・・・・・・。大丈夫だよ。ありがとう。

 紗奈はユキトの脳のことを想った。彼が抱いている言葉のない洞窟のことを想った。そして、その様子をイメージした。そこは予想していたほど怖い場所では なかった。真っ暗でなにも見えないけれど、ちょうど良い温度のやわらかな液体で満たされていて、浮かんでみると、心地の良い安心感に包み込まれた。それ は、もうここからどこにも行く必要がないんだよ、という安心感だった。ガランとした空の青も、その洞窟までは届かない。

「いったい、どういう転び方をしたら、こんなふうな傷ができるっていうの」
 紗奈はポツリと声に出して呟いてみた。だが、部屋を支配する濃密な静けさは、それくらいではビクともしなかった。

紗奈はそっと立ち上がり、携帯電話に付いているカメラの機能で、ユキトの顔写真を何枚か撮った。

 夜が白みはじめた。

 次に紗奈は、自分のバッグを手に持って、息をひそめて、ハルトの灰色のデスクの前まで歩いた。そこに行き着くには、眠るハルトの身体を跨がなければなら なかった。デスクの一番上の把手を握り、慎重に引く。引き出しが音もなく開く。引き出しの中には、ゼロ戦のミニチュアやドイツ戦車のマニュアル、何枚かの 記念写真といっしょに、一枚のレントゲン写真が入っている。

 くっきりとした頭蓋の輪郭に包まれて浮かぶ、やわらかそうな白い繭。いいや、大人のこぶし大の欠損を抱いた、ユキトの大脳。

 紗奈はレントゲン写真を取り出すと、一度だけ蛍光灯にかざして、そこに写っている脳の形を確認した。それから軽く丸めて、バッグの中に滑り込ませた。

『―ハルトとユキトさんへ―
今朝は優花と待ち合わせがあるので、わたしは帰ります。二人ともよく眠っているので、黙って行きます。鍵を開けたままでごめんなさい。昨夜はとっても楽しかったです。ありがとう。
                        ―紗奈より―』  

 書置きを残して紗奈が部屋を出ると、辺りはもう仄かに明けていた。ベランダから望む街並みが、一夜のうちに海底に沈んでしまったかのように、一様に青く染まっていた。紗奈はその青へと続く螺旋階段を、足もとを確かめながらゆっくりと降りていった。











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