令君の抱擁

「すこし、お痩せになりました」
　荀彧が言うと、曹操はきょとんとした顔で自分の頬を手のひらで触った。「そうかな？」
「そうかもしれぬ。呂布にも同じことを言われた。対呂布戦は根気の勝負だったし、その後もゴタゴタ続きで、結局一年以上許都には帰って来れなかっただろ。のんびり飯を味わって食べる気持ちの余裕もなかった」
「しばらくはこちらで体を養われるがよろしいでしょう。戦の疲れをゆっくり落として」

　常にはっきりとした光を宿す荀彧の双眸だった。
　その瞳が、未だ戦の埃をまとった奸雄の姿を映して、やさしげにほころんでいる。
「うむ」
　曹操は真面目な調子で頷くと、
「おまえがそうさせてくれるならな……文若」
　一転、おどけたような笑顔で付け加えた。

　彭城から下ヒへと撤退した呂布軍を包囲すること三ヶ月、曹操は敵城の周囲に塹壕を掘りめぐらせ、シ水・キ水の堤を切って水攻めにすることによって宿敵・呂布を降した。
　建安三年十二月のことである。

　曹操軍が許都に帰還したのは翌年九月。
　袁紹配下との小競り合いが続き、黄河南の官渡に対・袁紹戦に備えて砦を築いたのちの遅い凱旋となった。

　城外まで軍を迎えに出た荀彧は、許都から一番近い宿営地で曹操と合流した。そこで一夜を明かしたのち、ともに許都への帰路に立つこととなる。

　荀彧は指折り数えて考える。

　――十三ヶ月。
　十三ヶ月、自分はこの人に会っていなかった。

　許都での生活は慌しく、時は短かったようなのに、曹操と再会して改めてその歳月の重さに気づかされる。

　思えばこの年月の間、我が主は呂布を屠り、遠く黄河を渡って袁紹傘下であった射犬城を包囲、陥落させて河内を押さえ、官渡に大規模な砦を築かせつつ、青州に兵を入れて斉・北海・東安を撃ち破らせたのだ。

　遠征先で何かあるごとに、曹操は必ず手ずから書簡を書いて、許都にいる荀彧のもとにやった。だからほとんどの戦で留守番を任されている荀彧も、まるでその場に立っているかのように細かく、曹操とその周辺の動向を知ることができた。

　実際、曹操の書簡は驚くほど細かいところまで、それでいて簡潔に必要な事項が記されているのが常であった。時折自身で決められない迷いごとや、個人的な感想や疑問、更に個人的な感情の機微なども交えて。

　荀彧はこれまでに数え切れないほど、そういった曹操の書簡への返書で彼を助けてきた。ともすれば弱気になりがちな主君を励まし、許都にいながらにして、行動面でも精神面でも、曹操にとって欠かすことのできない支えとなってきたのだった。

　十三ヶ月ぶりに見る主君・曹操は、いっさいの無駄が削ぎ落とされたような姿をしていた。
　もともと肉の薄い男だった。
　小柄で色白で、全体的に骨格も細い。いかにも無害そうな人当たりの好い笑顔とあいまって、とてもではないが当代第一の戦上手とは思えない。
　出会った最初から、曹操は荀彧にそんな印象を抱かせた。

　が、あの頃はもう少し、体の端々にやわらかな曲線が含まれていたように覚えている。鎧を脱いだとたんに、鎧のかわりに戦とは無縁の都の風流人を思わせる涼やかな衣を纏うようで、そんな主君を目にするたびに、荀彧は幾度も、（ああ、人は見かけによらぬものだなあ）と感慨深く思ったものだった。

　ところが今は、先程の例えで言うと、鎧を脱いでも鎧を着ている。
　衣服の上からでもわかる硬い筋肉と、それ以外の肉がわずかも赦されないかのような張り詰めた輪郭が、そう思わせるのかも知れなかった。

「飲めよ」
　久しぶりの主の姿に見惚れている意識の隙をついて、曹操が杯を持たせてくる。
　そして、すかさずなみなみと酒を注いでくる。
「おーっとっとっとっとっとお、こぼれる、こぼれる」
　わざとらしくふざけた声をあげながら、大袈裟に慌てた表情を浮かべ、その実杯の縁ぎりぎりのところでピタリと止めて見せ一滴もこぼしはしない。

「ふふふ」
　曹操は嬉しくてたまらないというふうに笑い、キラリと光るまなざしで苦笑する荀彧の顔を覗き込んだ。
「さ、飲め」
「もうずいぶんといただきましたよ」

　荀彧の他にも多くの人士が許都から曹操を迎えに来ていた。その夜、曹操は彼らのためにささやかな宴を催し、みずから各人の席をめぐってひと渡りの挨拶を済ませたのち、今は荀彧の横でひと息ついているのだった。曹操が本格的に酔うと収拾がつかなくなるくらいはしゃぎまわるので、少々ブレーキをかける意味も籠めて、荀彧は冷静にたしなめるように言った。

「孟徳さまったら、本番の宴は許都に着いてからでしょうに」
「ああ、宴な。この杯はそれとはまた違うんだ」
　曹操が悪戯っぽい仕草で肩をすくめて見詰めてくる。
「ほほう？　特別な杯なのですか」
　絶対何も考えずにしゃべっているなこいつと思いつつ、しかし、ちょっと面白いので敢えてのってやった。
「そうだ。ぜんぶ飲んだら教えてやる」
　荀彧が「やれやれ」と再び苦笑して見せ、手のなかの杯をくーっとひと息で干すと。

「文若とまた会えたのがうれしいからさ。個人的な祝いの杯だ」

　そう言った曹操のまなざしが真剣だったので、荀彧は笑って良いのか泣いて良いのか、わからなくなってしまった。

　そうだ。こういうお方だった。ずっとふざけているかと思えば、いきなり裸の気持ちを見せてくる。何の苦もなく――

　手のなかで未だ温かな杯を見詰めながら、曹操にまた生きて会えたのだという悦びを荀彧は静かに噛みしめていた。

　　　　　＊

　荀彧は「ゆっくり休め」と言ったが、実際に曹操が都でのんびりできたのは、最初の十日間程度のものだ。

　袁術が袁紹と手を組みつつあるという情報があった。その前に劉備と朱霊を派遣して袁術を撃たせようとしたら、袁術は病死したものの今度は劉備が反逆して徐州で独立してしまう。劉備が袁紹と同盟関係を結んだらやっかいである。袁紹は本格的に南下を開始する準備を整えたようだ。官渡から定期的にさぐりを入れさせている間諜からは、それを裏付ける報告が続々と上がってきている。

　情勢は急展開で袁紹との決戦に向けて動きはじめていた。天下の司令塔たる君主が『のんびり』などしていられようはずもない。

「だめだ……」

　対袁紹戦のおおまかな作戦はこうだ。
　まずは完成したばかりの官渡の砦に一万の精鋭を入れ、足場を固める。
　数では絶対に敵わないから、最初の前線となる黄河の渡し場まで軽騎兵を繰り出し、敵を分断しては撃つ陽動戦術を重ねて撹乱させつつ、別働隊に糧道を探らせこれを断つ。
　大軍が疲弊したころを見計らって、全軍で一気に本営に攻めかかり、袁紹を斬る。

　できれば前線が官渡まで後退する前に短期で決着をつけたかった。官渡は最後の砦である。官渡をとられたら、許都までもうあとがない。

「ムリだ……」

　出陣の準備はこの日でほぼ整ったといってよかった。
　既に兵糧は可能な限りの量を官渡に運び入れており、兵器類も緒戦に必要な分はすべて揃ったとの報告が来ている。
　遠征に選出された兵たちには、格将から隊長を通じて指令が行き渡り、いつでも北門に集結できるよう万全の態勢が出来あがっている。

　あとはもう、総大将である曹操から出陣の令が発せられるのを待つばかり――

「絶望だ……どうしたらいいんじゃ」

　――となっているはずだった。ところが、どういうわけか、当の曹操にまるで元気がないのである。

　朝からずっと自室に引き籠もり、独り頭を抱えて何やらブツブツと呟いている。
　もう午もずいぶんと過ぎたというのに、座敷の隅に追いやられた食膳には箸をつけた形跡すらない。

「うう……」

　といって、持病の頭痛発作が起きているわけではなさそうだ。曹操の被りものを見れば、それはすぐにわかる。頭痛が起きると曹操はその痛みゆえに簡単な頭巾しかつけることができないが、今は髪をきっちりと結わえた上に、簡便ではあるが一応公用でも使える革の冠をつけている。

　彼の前には黄河流域を中心とした大判の地図が広げられ、それにかぶさるように、山ほどの書簡が積みあげられていた。書簡の多くは広げられ、地図の要地をぐるりと取り囲むように配置されている。

　しばらくの間地図上に目を落とし、苦しげに低い唸り声をあげていた曹操だったが、やおら四つん這いになると、広げられた書簡のうちのいくつかを穴があくほど見詰めて比べ、今度はまた頭を抱えながら猛然と立ちあがった。

　そのまま歩きだして、心ここにあらずといった足どりで部屋のなかをわけもなく三周する。

「文若はどこか。誰か、文若を呼んで来てくれ。わしが、至急相談したいことがあると」

　突如足をとめ、大声でそう呼ばわった曹操の顔には、藁にもすがりたい者の表情がありありと張りついていた。

　　　　　＊

　情けない顔。
　時折曹操は、そんなふうになることがある。
　事実、普段は溢れるばかりの気概と陽気さで元気一杯な輝きを放っているのが、急転直下、立っているのも覚束ないほど情けなくなってしまう瞬間が、曹操にはあった。

　荀彧はじめ、曹操の最も身近にあって補佐にあたる謀臣たちは、主君のそうした状態を
「弱気の虫が騒ぎだす」
　と呼んでいた。
　もちろん本人の耳には入らないように、こっそりと、である。

　その日急な召し出しで司空府の曹操のもと駆けつけた荀彧は、主君の顔をひとめ見るなりそのことを理解した。
　つまり、ここに至ってまたもや、曹操のなかで「弱気の虫が騒ぎだした」らしいのである。

「おお、文若……。よく来てくれたな。まあ、まずは入ってくれ。内密の事ゆえ二人きりで話したい。人払いはしてある」

　司空府の門の前でそわそわと待っていた曹操は、荀彧がやって来るとすぐさま手を引いて奥の自室へと導き入れた。

　荀彧が仕えはじめた最初のころは、よくそうして門まで迎えに出てくれたものだ。が、さすがに最近は部屋で待っていることのほうが多い。よほど待ちわびていたのだろう。

　部屋に入ってまずは荀彧を奥の席に坐らせ、それから自分もいつもの席に落ち着くと、曹操は少しだけほっとしたように眉根を広げてほほ笑んで見せた。

　しかしそれもいつもの彼からしたら、儚いほどに弱々しい微笑でしかない。

「遠征の手配は滞りなく進んでおります。このままいけば明後日、全軍予定通りに官渡に向けて進発できましょう」

「うん」

「宮中の董承まわりで不穏な動きがありますが、しばらく泳がせて尻尾を出させたいと思います。これまで以上に監視の目を張りめぐらせてありますゆえ、心配はいりません」

「うん」

「――孟徳さま……？」
　荀彧は、傍らに山と積まれた書簡と、床に広げられた地図にちらと目をやった。

「どうなされました。他に、何か心配ごとでも……？」

「うん。実はな――」

　曹操は一度こくんと頷くと、書簡の山のなかからひとつを取り出して来て、神妙な顔つきで荀彧の前に差し出した。

「今朝届いたばかりの密偵からの報告書じゃ。読んでみよ。士気に関わるゆえ、まだ誰にも見せてはおらぬ」

　書簡は河北の間諜からのもので、そこには現時点での袁紹軍の戦力が、かなり詳細に渡って書き記されてあった。

　全体の兵力と、前線に動員し得る将兵の数。兵馬の頭数。生産能力から概算される兵器の規模。秋の収穫高と、そこから予想される食料貯蔵量。

　……等々、どれも想定から大きく外れるほどの突飛な数字ではない。しかしだからこそ、その数字の連なりには嫌な現実感があった。

　想定から大きく外れてはいないが、問題なのは、かなり慎重に幅を持たせて想定していたその数値の、最も大きな域ばかりに書面の数字が当てはまっている、ということであった。
　どうやら袁紹の勢力は、こちらが思っているよりも相当に強大であるらしい。

「それで、じゃ」

　次に曹操は、下書き用の粗雑な薄い木板を何枚かまた荀彧の前に持ってくると、並べて床に置いていった。

　今度は曹操の手によるものだ。見慣れた特徴のある丸っこい字が、隙間を惜しむように細かく書き連ねられてある。ただし、そのほとんどが数字の羅列である。

「先の報告書の内容も含めて、今いちど自分で計算してみた」

　ここと、ここと、ここを見てくれ。あ、それからここと。
　呟きながら、木板のいくつかの箇所を順々に指差していく。

　荀彧はひそと眉根を寄せた。曹操に示されるまでもなく、それら計算式の解が物語るものを、彼は瞬時のうちに読み取っていた。

　木板のうちの一枚は、真ん中を横に線で区切られ、半分から上に袁紹軍、半分から下に曹操軍と、わかりやすくそれぞれの勢力比較が記されており、そこにはいかにも曹操らしい厳しい見様が張りめぐらされていた。厳しい、そして現実的な。

　荀彧は、それらすべての木板に目を通し終えると、出かかった言葉を呑み込んで静かに顔をあげた。

「計算の結果、どうがんばっても袁紹には勝てぬことが判明した」

　待っていたかのように、曹操がきっぱりと言い放った。

　　　　　＊

　ざけんじゃないよこのやろう。

　と、思ったか思わなかったか、荀彧の顔は一瞬だけ「ひくっ」と引きつった。

　しかしそこは冷静な尚書令、端整な面にはすぐに西王母を思わせる穏やかな笑みが湛えられた。
　同時に、親鳥が雛を見守るかのような慈愛溢れるまなざしが、半歩先の、何とも心細気に坐っている小さなおじさんの姿へと向けられる。

「たしか、以前も、同じようなことを話しましたね」
「以前も……？」
「ええ。呂布戦に向かう少し前です。あの時も、孟徳さまはひどく不安がられて……」

　曹操がきょとんとした表情をする。およそ覚えがないはずはないが、自分が弱気になった時のことはすぐに出てこないのだろう。曹操はわりとそういうところがある。都合の良いことを、都合の良いようにしか覚えていないところが。だから過ぎたことにはくよくよしないのだ。

「そうだったか？」
「ええ、そうですよ」

　曹操は、決してわかったふりなどしない。じっと眉根に皺を寄せて、相変わらず穏やかな荀彧の面を真っ直ぐに見詰めやっている。

「お忘れですか？　あの時たしか孟徳さまは、袁紹からのたいへん無礼な書簡に激怒なさって、けれどあやつには力ではとうてい敵わない、今は悔しさを忍んでこのような侮辱にも堪えるしかないのだ、と胸中を打ち明けてくださったのですよ。私が諭したら、すぐに立ち直られたかと思っていたのですが」

「ああ、あれは違う！　あの時はまだ、これほどの具体的な数字はわかっていなかったから……。ま、まさか、ここまで歴然とした戦力差を見せつけられようとは」

「孟徳さま」

　荀彧は身を乗り出し、半歩あいていた曹操との距離を、更に膝が触れ合うくらいまでに詰めた。

「以前にもお話ししましたが、いま一度申しあげます。戦は物量だけで行なうのではありません。戦とは、人なのです。袁紹と孟徳さまとでは――」

「それは……、それはわかっておる。そなたの言葉も覚えておる。あれは、嬉しかった」

　曹操が、にわかに慌てたように声を荒げる。その頬がこころなしか上気しているのは、荀彧の綺麗な顔がいきなり間近まで迫ってきたからだった。少し、気圧されたらしい。

「何度でも申しあげますよ。袁紹は表面上は寛大ですがその実猜疑心が強く、苛烈なようでいて決断力に乏しく、軍の統率もしまりがなく軍法軍令は行き渡っておりません。もっともらしい態度で知恵者のふりをし、それで名声を集めております。それに対して孟徳さまは公正にして適材適所を心がけられ、軍法軍令は明白で、それでいて臨機応変の対処がおできになります。自信は謹直節倹でありながら、功績のあった者には物惜しみなさらず、人々には仁愛をもって誠実な態度をとられ、表面だけきれいにとりつくろうことはなさりません。
　度量、計略、武力、徳義。これらどの点においても、孟徳さまは袁紹に優っておられるのです。ひとつ物量で敵わぬからといって、どうして彼に勝てぬなどということが――」

「しかし、それはただの人物評ではないか……！」

　曹操が、更に声を荒げた。荀彧ははっとして言葉を呑んだ。

「そなたの言葉は嬉しい。だが、それもただの言葉だ。戦はわしだけがするものか？　物量だけが戦ではないとおまえは言うが、人物だけが戦でもあるまい？　大切な将兵らの命を預かっておるのだぞ。これほど明確な答が出ているというに……。万に一つも勝てぬと知れておる戦など、わしにはできぬ……！」

　ひと息に言い切った直後、曹操の顔は真っ赤に激昂していた。曹操の激昂は熱い。感情が溢れすぎて、自分でも何が何だかわからなくなる。怒声もそれに比例して、大きい。歴戦の武将でも思わずひるむほどの迫力がある。

　しかし今回の場合、その激昂もほんの束の間のことであった。
　そこに浮かんでいた真っ赤な怒りは、怒鳴り終えてひと呼吸置いた時には、すでに「しまった」という何ともやるせない表情に取って替わられていた。

「……あ、……いや、……その……」

　などと口のなかで呟きながら、オズオズと上目遣いのまなざしを向けてくる。

「では、降伏なさいませ」

　驚くほどそっけなく響いた自分の声に、荀彧は最初だけ、一瞬だけ、ほんの微かにたじろいだ。しかし、たじろいだところで最早どうともならなかった。

「袁紹に降伏しておしまいなさい」

　予め用意されていた言葉が順番に押し出されるかのように、口が勝手に動いた。

「でも、それでしたら、私はもうあなたについて行くことはできません。戦わぬ孟徳さまなど、最早孟徳さまではありませんから。男として共に歩む価値もない。それに私、もう二度と袁紹なんかの下につく気はないですしね。……お別れです」

　それから、荀彧は何を思ったか、両手で曹操の肩をそっと抱き竦め、やさしい、それでいて有無を言わさぬ力加減で、自らの広い胸に押し付けるようにした。
　――そして。

　不意のことだったし、相手が荀彧だったので、曹操はその一連の行動を、まるっきりなされるがままにしてしまった。ついさっき耳にした信じがたい科白について、よく意味を咀嚼する間すら、与えられなかった。ただただ驚いて、目を見開いた。

　気がついたら、荀彧の唇が、自分のそれに重ねられていたのだ。

「文……なに……を……」

　曹操がみじろぎすると、肩を抱く手にいっそうの力をこめられた。離れかかった唇が、もう一度強く深く押しつけられた。

「さようなら」

　それからほんとうに唇を離すと、荀彧は、絹ずれを響かせて立ちあがりつつ踵を返し、半分だけ振り向いて静かな声でそう言った。

「さようなら、孟徳さま」

「待て」
　どう考えてもおおいに慌てて然るべき状況であったが、曹操は不思議なほど取り乱さなかった。背中で扉が閉まる音を聞いて、はじめてゆっくりと立ちあがった。
　勘が働いたのだ。荀彧は、本気で自分を捨てて行ったのではない。

　勘はすぐに確信に変わった。曹操が扉を開くと、そのまま立ち去らずに扉から数歩のところで佇んでいる荀彧の後姿が目に入ったのである。曹操はほっとして、その後姿にやさしく手をかけて自分のほうを振り向かせた。

　無言で長い睫毛を伏せている荀彧の手を引き、再び部屋のなかに導き入れると、曹操は荀彧を先程と同じ席に坐らせ、自分はその横に寄り添って腰をおろした。

「すまん」
　先程扉の外でも呟いた同じ言葉をぽつりと繰り返す。詩賦ともなれば流れるように無辺の言葉を紡ぐことのできる曹操が、こうしたシリアスな場面となると存外口下手であった。そして荀彧はというと、さっきから一言も何もしゃべらない。

「いいえ。孟徳さまが詫びることはないのです。すべて私が悪かったのです。申し訳ありません。感情に負けて、つい臣下としてあるまじき、投げやりな態度を」

　曹操がかけるべき言葉をじっと探しあぐねていると、荀彧はようやく、自ら口を開いてそう答えた。

「いや……わしが甘えておったのだ。わしのほうこそ、感情が抑えられなくて、おまえに投げやりな態度を取った」

「私とて、孟徳さまを戦になどやりたくないのです。怖いのです。本当は。でも、それを考えはじめると……。いいえ。すみません。これは、あなたには言ってはならないことだ」

　出かかった言葉を、荀彧は意味深に独り言で打ち消したが、曹操は敢えて追求しなかった。

「と、ところで……だな。文若。あ、あれはどういう意味だったのだ？」

「え？　何ですって？」

　やたら口ごもりながら、話題を変えてきた（らしい）曹操に、荀彧はきょとんとした表情で訊き返した。本当に、何のことかわからなかったのである。

「あれって何のことです。対袁紹戦のお話でしたよね？」

　なお訊くと、曹操は「いや……、その……」と愈々口ごもり、どこか身の置き処がなさそうに一段と小さくなり、頬と耳たぶを薄紅に染めながら、『あれ』の意味を指し示した。
　即ち、指先で自分の口もとに軽く触れた。

（ああ……）
　ここに来てようやく、荀彧は『あれ』のことを思い出したのだった。
　そうして、またまた何を思ったのだろう、荀彧は、「孟徳さま」と彼の人の耳に小さく囁きかけ、

「これのことですか」
　もう一度、同じように曹操を抱き竦め、同じように、唇を重ねた。

「……！」

　覿面、曹操の白い肌が首まで真っ赤に染められる。乱世の奸雄が、少年の頃から幾多の美女を自分のものにしてきた百戦錬磨の恋多き男が、何といううぶな反応をするのだろう。
　そこに新鮮な驚きを覚えながら、しかし荀彧は、一種醒めた意識で先刻の自分と曹操のことを考えていた。

　あの時荀彧はどうかしていたが、そして、瞬間的には本当に感情的に曹操を捨ててやれ、と思ったのだが、それでも心のどこかでは、主君を試そうとしていたことを否めない。唇を奪ったのはその気持ちの表れだった。立場を捨て、常識や理性の束縛をも捨てた奇矯な行動に出て、それでもなお彼が追ってきてくれるかどうか、試したのだ。

　そういう意味において、あれは、つまり、賭けであった。

　そして荀彧は賭けに勝った。曹操は荀彧を見限らなかった。見限らないどころか、真面目に受け入れようとしてくれている。呆れもせず、冗談ともとらずに、戸惑いつつも、理解しようとしてくれている。曹操が何とか理解しようとしているのが、そのうぶな反応からひしひしと伝わってくる。

　――接吻のことなど、自分が曹操を見捨てようとしたことからしたら、ただの悪戯、些事として流してしまってもいいようなものなのに、この人ときたら、何よりも先に、そのことを取り合ってくれている。

（何て……可愛い人なのだろう）

　その時、荀彧の胸に火がともった。それは、荀彧がはじめて曹操に出会った時から、密かに燻っていた欲望ではあった。半分無意識に、胸の一番深いところにずっと仕舞いこんできた欲望だった。

「いつからだ」
　曹操が言った。
「え？」
「いつから、わしを、そういうふうに……？」
「最初から」

　荀彧は曹操の小柄な体を両手で引き寄せ、そっと耳に息を吹きかけるようにして、囁いた。

「あなたがはじめて私を嬉しそうに受け入れて、『我が子房』と呼んでくれた、その時から」

　荀彧は曹操の細い首筋に口づけ、おもむろに着物の襟を割ると、手を差し入れ、彼の引き締まった胸から脇腹へとかけて指先をそわせた。
　触れたさきから、曹操の皮膚がゆるやかに波打つ。呼吸が感じられる。

「拒まないのですか」

　曹操は相変わらず戸惑い顔で、どうして良いかわからないといった表情の瞳で荀彧を覗きこんでいる。どこか、幼子が大人に縋ってくるに似た瞳である。

「拒まないのですね」

「――わ、わから……」

　荀彧は更に推し進め、体重をかけてゆっくりと曹操の体を床に倒した。仰向けになった彼の額に口づけ、馬乗りになってそこに強く頬を押しあてる。

「あっ……、……やっ……」

「やめませんよ」

　荀彧は器用な手つきで曹操の衣を上から丁寧に脱がしはじめた。どうやら反射的に声が出たらしいが、やはり抵抗はしない。縋るような瞳の色はいつしか消え、替わってそこには、澄んだ光が宿っている。

　この状況を楽しむような、相手の真情を知ってからかうような、或いはいたわるような、意思のある光が。

「これは、策ではあるまいな。わしを試している」

「まさか。ただの欲望ですよ。私はあなたが欲しい。孟徳さま、あなたのすべてが欲しいのです」

「なれば、狂っておるな。『我が子房』も狂ってしまってはお終いか」

「そうですよ」

　わざと意地悪な言葉でからかってくる――荀彧はそれが曹操一流のからかいであることを知っている――曹操に、荀彧は謡うような口調でこう答えた。

「彧は、本日をもって狂うことにしました」

　　　　　＊

　荀彧が衣を脱がせる間、曹操は始終されるがままになっていた。全身の力を抜き、手脚を棒のように投げ出し、顔を横に向け、一度も荀彧のほうに目をやらず、脱がされている自分の体を見ようともしなかった。

　それが恥じらいなのか、拗ねているのか、一種の拒絶なのか、荀彧にはわからない。

　わからないが、荀彧の心は逸った。まるで人形のようにぐったりと身を任せている曹操の姿は、ひどく彼をそそらせるのだ。荀彧の身の内にある欲望の核に痛いほど触れてくる。それにともない、押さえがたい衝動の熱もまた、ある種の痛みを伴って自らの最終地へと集結を早めるのを、荀彧は感じていた。

（待て、待て、まだだ――）

　その衝動を、今はなるべく遠ざけるように自分に言い聞かせる。奇跡のように与えられたこの稀有な時を、少年のような愚かさで急いて毀してしまうような事だけは、あってはならない。
　ひそかに念じつつ、荀彧は曹操を覆い隠していた最後の一枚に指をかけると、そっと慎重に、取り払った。

　その瞬間も、曹操の様子は同じだった。相変わらず、人形のような無反応を決め込んでいた。
　格子窓から斜めに射し込む陽射しのなか、何の抵抗もなく、曹操はそのすべてを荀彧の前に曝け出した。

　初めて見る主君のあられもない姿に、荀彧は陶然とした。怪我の治療などで一部素肌を垣間見たことはあるが、完全な裸体を目にするのは、この時が初めてだったのだ。

　衣服の上から見て想像していた通りだった。
　主君の体は、荀彧が思い描いていたままの、硬い筋肉に覆われた、余分のない、美しいかたちをしていた。
　衣の下から現れたのは、紛れもなく、鍛え上げられた武人の肉体であった。

　だが曹操の場合、それはあくまで小さく貧弱に生まれついた骨格を鎧う、ひとそろいの端整な甲冑に他ならなかった。
　実用一点張りの、使い込まれた美しい甲冑は、いつしかその中心にある本来の体を侵し蝕むほどに彼の全身を完璧に鎧い、どこか痛々しい様相を見せはじめている。

「――孟徳さま……？」

　あまりに無反応な曹操の様子に、荀彧は不意に不安を覚え、身をかがめて彼の耳に呼びかけた。なされるがままの曹操は、処女を相手にしているようでそそられるが、心がともなわないのでは、それは荀彧の本意ではない。

　彼は、ただ単純に曹操の体だけを貪りたいわけではなかった。曹操という一個の人格を、精神も肉体も、まるごと自分のものにして、愛おしみたいのである。

「孟徳さま、もしや、お辛いのでは」

　本気で心配して問いかけた。

　――と、息がかかるほど曹操に近づけた荀彧の面に、次の瞬間、鋭い痛みが走った。

「痛っ……」

　とっさに閉じた瞼を再び開いた時荀彧の目に入ったのは、彼の顎鬚を手に胸から上をもたげ、冷ややかな視線を自分に投げかけている主君の姿であった。その時になってようやく、荀彧は曹操に反撃を受けたことを理解した。ひとたび反撃に出るや、曹操の身のこなしは、それほどまでに素早かった。

「なぜおまえは脱がぬ」

　曹操が、掴んだ鬚を再度くい、と引っ張り、さも不満気な声で言う。
「おまえも脱げ」
　口調は不満そうだが、しかし、その口もとにはうっすらとした笑みが湛えられている。
　荀彧は「ははあ」と思った。

「始めは処女の如く後は脱兎の如し。――まるで孫子ですな」

「わしを処女と思ってか」

「意地悪な人だ」

　そして荀彧がすべての衣服を脱ぎ捨てると、曹操は自分から、彼の腕のなかに体を滑り込ませてきた。
　荀彧は少なからず驚いた。彼はずっと、こうした場合、自分が一方的に曹操を攻めおとすものだと思っていた。はっきりと意識に思い描いたわけではないが、彼の心のどこかには確かにそういった考え……予感が潜んでいた。

　こうした場合――つまり彼が主君に対して己が欲望をあらわにした場合、曹操は拒むだろう。あからさまに拒まないまでも、協力はしないだろう。間違っても、自ら体を開いてくることはないに違いない。――そう思っていた。

　それは、一種のみくびりだったかも知れないし、或いは、無意識の自信のなさがあらわれたものだったかも知れない。しかしいずれにせよ、予感は見当違いだったようである。

「うわ……。孟徳、さ……ま……っ」

　がむしゃらな力で抱きついてきた曹操を全身に感じ、荀彧は思わずうわずった嬌声をあげた。熱い吐息が首筋にかかる。それ以上に、密着したあの部分が、熱い。いや、痛い。体じゅうの欲望がそこに集中して、快楽の火種が身を切るような痛みに変化しているのだ。

　切なさが込みあげていた。荀彧はたまらず曹操の小ぶりな唇に吸いついた。いつも（きれいな唇だな）とひそかに思っている、すべすべとした薄桃色の唇。自然に開いたそれに舌を進入させ、粘膜を感じながら濡れた内側を軽くくすぐる。何かのはずみというふうに、曹操の舌先が荀彧の舌先に触れる。

　曹操の口腔から抜き出した舌を、荀彧はそのまま、首筋のほうへと滑らせていった。そうして、かすかににじむ塩味を味わいながら、鎖骨、肩、みぞおち、胸筋へと這わせ、まるで詳細に描かれた地図を辿るかのように、曹操の綺麗な筋肉の流れに沿って、一縷の道筋をつくっていく。

　それでも曹操の息遣いは押し殺したようにひそやかだったが、荀彧の舌先がその控え目に色づいている小さな突起に触れた直後、はじめて鋭い反応とともに、あまやかな声音を響かせた。

「あ……っん……」

　ひくん、と背筋を仰け反らせ、あきらかに不随意な、普段の曹操からは想像もつかないかすれた嬌声が、白い喉もとから漏れ出た。

「ああ、孟徳さま……」

　その声がもっと聞きたくて、荀彧は再び曹操の胸の突起を口に含むと、左右ともじゅうぶんに濡らしてから、触れるか触れないか、指先で軽くつまみ、小鳥がついばむような浅い刺激を執拗に与え続けた。

　――さあ孟徳さま、意地を張らないで。もう一度声を聞かせてください。あの可愛らしい声を。

　荀彧の声なき声に反応するかのように、曹操の瞼が閉じ、眉根に深い皺が寄せられる。彷徨い伸ばされた両腕が、荀彧を押しのける動きを見せる。

「あっ……クッ……んん……。――ぶん……」

　びくんっ、と五体を跳ね上がらせ、急に四肢の力が抜けたと思った次の瞬間、曹操は先程にも増して甘美な声音を荀彧の耳もとに響かせた。

「ぶん……何ですって？」

　それから、閉じられていた瞼が開かれ、意思の見えない小動物めいたまなざしが、荀彧の面へと静かに注がれた。
　荀彧はその瞳に口づけし、片手で頬を包みこみながら、もう一方の手では、彼の髪をほぐしはじめた。

「もっと、ちゃんと呼んでください。もう一度、文若、と」

　――ぶんじゃく。

　欲望を凌駕して、かなしみの感情が荀彧の胸に込みあげてきたのは、曹操の唇がそう動いた直後のことだった。

　一体何がかなしいのか判らないが、とにかくそれはかなしみだった。突然のことに荀彧はうろたえ、一瞬だけ自分の心の内側へと意識を向けざるを得なかった。それは、純粋なかなしみであり、同時にひどく理不尽な感情でもあるのだった。

　――愛おしさなら判る。切なさも。けれどどうしてかなしみ？

　自問するのもやるせなく、その感情を振り切るように、荀彧はそれまでにない強引さで曹操を床に押し倒した。

　乱暴に冠を取って髪をほぐしきり、関節や皮膚のやわらかい部分にきつい接吻を繰り返しながら下半身まで下りていって、既にかなり硬くなっていた曹操自身を口に含んだ。

「え……？」

　曹操が短く戸惑いの声をあげるのが聞こえたが、それを顧みることもせずに、主君の感じやすい先端を、舌と口全体とを使って激しく嬲った。同時に彼の脚を軽く持ち上げ、その引き締まった丘の間で息づいている蕾をじっくりと崩しにかかる。

「あ……あ……あ……ンッ……アッ……」

　切れ切れの喘ぎと呼吸を合わせ、快楽を繋ぐ糸を途切れさせぬよう、彼の求めるリズムで高嶺へと誘う。

「……くっ……」

　刹那、短く苦しげな喘ぎが響くとともに、口のなかで最大限硬く熱くなっていたものが、まるで独立した生きものでもあるかのように、一度きりおおきくその身を震わせた。

「――おや……。行ってしまわれたのですね。でも、私はこれからですよ」

「ん……わかってる」

　ぐったりとした曹操の返事が、どこか幼い。

　荀彧は、口の端に滴る液を拭いもせず、達して気だるそうな曹操を抱えて膝に起こすと、赤ん坊を抱くようにして、くたりと寄りかかる主君の姿をいとおしげに見詰めやった。

　そうして抱いて見詰めているだけで、かなしみの塊がゆるりと溶け出していくのが感じられた。

　ずっとこうしていようか、と、ふと荀彧は思った。
　このまま最後まで行かず、戦にもやらず、いとしい人を膝の上にのせて、ゆるゆると溶け合ったままでいること――
　ひょっとしたらそれが、自分のほんとうの望みなのかも知れないではないか。

　かなしみに呼応するように、そんな想いが勝手に胸の奥をかすめてゆく。

　もちろん、それはただちょっと思ってみただけの仮の考えに過ぎない。そんなことはできない。できないということを、当の荀彧が一番よくわかっている。

「孟徳さま――」

　曹操の解いた髪がさわさわと肌に触れて否が応でも欲望が高められた。荀彧は曹操の太腿の間に手をなぞらせ、先刻の崩しでだいぶ軟らかく緩んでいる彼の後孔に指を触れた。
　一本、二本、三本、……と、徐々に押し広げつつ呑み込ませていくと、時折鋭い収縮で遮られるものの、ぎりぎり挿入に耐え得る段階までは来ていることがわかった。

「――少し、腰を浮かせていただけますか」

「何？」

　と返した曹操の声がいかにも不服そうだったので、荀彧は思わずクスリと笑ってしまった。不敬であることはじゅうじゅう承知の上で、敢えて君主に『させる』態度を取っているのだ。それが理解できぬ曹操でもあるまいに――。

「さあ、孟徳さま早く。言うことを聞いていただけないと困ります」

　束の間ためらいを見せたのち、流石にここで言い返すのは野暮と悟った曹操がおもむろな動作で荀彧の言に従うと、すかさず荀彧の白い手がその腰をガチリと捕まえた。
　そして自分も腰を上げて体勢を整えると、荀彧はお預け状態ではち切れんばかりとなった自らを、いまや濡れそぼったかのように見える入口にあてがい、そのまま一気に突き上げた。

「ああ……、孟徳さま……孟徳さま……私の――」

　かなしみの塊を打ち崩すように、荀彧は何度でも曹操を突き上げた。

　　　　　＊

　気がついたら曹操が見詰めていた。一拍の空白を置いて蘇った記憶に自分でもそれとわかるほどに顔が赤らむ。それは本当にめったない光景で、彼を映す静かな瞳にも「おや？」という疑問符が浮かぶ。

「めずらしいな。文若が赤くなるなど」

「私は――」

　言いかけて身を起こすとかけられていた長衣がサラリと落ちた。露わになった素肌が先刻の情事は夢ではなかったと告げる。見れば、曹操も未だ素裸のままである。腰布さえつけていない。

「――眠っていたのですね。どのくらい？」

「たいして。ちょっと瞼が閉じたかなという程度だ。しかし、まさかおまえが本当に眠ってしまうとはな」

　曹操がどこか楽しげに言い、落ちた長衣を掴んで荀彧の上にふわりとかけてやる。同時に自分も体を滑りこませて、彼の隣に寄り添って坐る。

「こうするとあったかいな」

　と言って笑う。

　しかし荀彧は、その温もりを素直に喜ぶことができなかった。曹操の首筋に散りばめられた紅い刻印――自分がつけたのだ――が目に入ると、思わず首を背けた。嬉しいのに、ずっとそうしていたいくらいなのに、どうしても、その通りの表情を見せることができなかった。

「孟徳さま……私を……お嫌いになりましたか」

　替わりに憂いを含んだ横顔を見せた彼の口から出たのは、そんな言葉であった。

　はあ！？　と曹操が素っ頓狂な声をあげる。

「どういうことじゃ。文若、今更何を言っておる。わしが一度でも、おぬしを嫌うような素振りを見せたか……？」

「いえ、そういう訳ではないのですが」

「ならばどうして……」

　確かに曹操は一度も荀彧を拒絶しなかった。それどころか、自分から求めて来るような場面さえあった。快楽の波には上手く乗れたと思うし、曹操もまた、彼との情交をそれなりに楽しんだに違いなかった。

　――にも関わらず、荀彧には先刻の情交が、どこか一方的だったように思えてならないのだ。曹操の体は彼が誘うがままの反応を見せたが、曹操の心は、始終そっぽを向いていたような気がしてならないのである。

（もしもあの時に湧き起こったかなしみが、そのせいだったとしたら――それこそ、男としてかなしすぎる事態ではないか――）

「ふん……。狂うことにした、などと豪語したわりには、随分と弱腰ではないか。のう、荀尚書令？」

「どうやら私という男は、完全に狂いきれるほど強くはないようです」

「なるほどな。ところで、ひとつ訊きたいことがあるのだが……文若いいか？」

「何でしょう？」

　と意気消沈顔の荀彧が、それでも精一杯涼やかな声音で訊ね返す。
　意気消沈しても、思わずうっとりと目を細めたくなるほどの美貌である。

「うん……ちょっと気になってな。……怖いと言ったな。おまえ、わしを戦になどやるのは嫌だ、本当は怖いのだ……と」

　そこで一度言葉を詰まらせてから、曹操は改めて真っ直ぐに荀彧を見据えて続けた。

「――あの時はおまえが言いたくなさそうだったから敢えて訊かなかったが、今は訊きたい……。――知りたいと思う。教えてくれ。おまえはあの時、本当は何を言いたかったのだ……？」

「……言葉の通りですよ。私もまた、怖いのです」

　存外あっさりと答えた荀彧に、曹操が唇を歪める。

「しかし言うておくが、わしは別に袁紹を怖れてなどおらぬぞ。わしはただ、勝てぬとわかっている戦はせぬと……」

「いいえ孟徳さま。私が怖れているのは、――」

　曹操を失うことを怖れる。曹操が戦に行ったきり、二度と帰ってこなくなることを怖れる。このいとしい人の笑顔が永遠に潰えてしまうこと、ただそれだけを、自分は怖れているのだ。けれどそれを言っては何もかもお終いのような気がして――

「……孟徳さま……？」

　抱きしめられていた。あまりに不意の抱擁だった。

　曹操のことは自分が一番良く理解していると自負する荀彧も、流石にこの時は彼の意図がわからずうろたえた。誘ってもいないのになぜ？　と首をかしげ、終いには、（自分は何か主君の気に障る失言でもしただろうか）と頓珍漢な粗探しをはじめてしまう。

「孟徳さま、あなたは必ず袁紹に勝てます。私にはわかっているんです。根拠はあります。袁紹陣営に内部工作をかけていることは御存知ですよね。今目をつけた複数の人士とその家族に揺さぶりをかけています。いずれも軍の中枢を担う参謀ばかりです。参謀たちを競わせてまとまりに欠ける袁紹軍の弱みを突きます。いくら大軍といえど、いいえ大軍なればこそ、そうやって内部から切り崩してやれば――」

「文若もういい。もうわかった」

　言葉が止まらなくなった荀彧の唇を曹操が己が唇でそっと塞ぐ。もういいとはどういうことだろう。納得して戦う気になったのだろうか。それとも、おまえの言葉などもういらないということか。それにしても、この唇――

「おまえが何を怖れているかはもう訊くまい。だがわしはわかったよ。おまえも戦っているんだとな。おまえは許都、わしは戦場と遠く離れて、それでもわしらは一緒だ。共に戦っている。実はおまえにも怖いものがあると知って少し安心した。それで不安が増すどころか、逆に本当に勝てる気がしてきたよ。……わしは勝つ。勝って、必ずおまえのもとに帰って来る」

「――御意……」

　胸に巣食ったかなしみが、音を立てて解け消えていく。

　荀彧はひとつ頷いていとしい人の背中に腕を回すと、力の限りぎゅっと、抱きしめた。

おわり