「ナルホド」
 と言って、その奇怪な翁は文帝の手元を覗き込んだ。片目と片脚のないひょろひょろの爺だが、身振りに少しも不自由そうなところがなく、顔はへんに童顔 で、かかとまである銀髪はきらめいて美しい。片手に杖を持ち、浅葱色のボロを一枚身に纏っているのみだが、不潔な印象はなかった。
「やはりそうであったか。よくわかった」
 翁は満足そうにウンウンと頷いた。
「なにが、わかったというのだ」
 文帝は怜悧な無表情をくずさずに、翁の顔を横目で見て聞いた。文帝の手元にはなにかの草稿がちらばっており、両脇には資料と思われる文献が山と積まれている。
「曹丕がのう、曹丕が実は、ワシのことが大好きじゃ、ということがわかったのじゃ」
 畏れ多くも翁は文帝の姓名を呼び捨てにし、そう言ってポッと頬を赤らめた。
 文帝は瞑目した。基本的にすべてが鋭角で成り立っているような冷たい白皙の顔に、あいかわらず表情は浮かばなかったが、ぎりっと握り締めたこぶしに怒気を見て取ることができた。
「血迷ったことを言うんじゃない。誰がおまえなんかを」
 澄んだ流水のような声音だった。
「またまた、照れちゃって」
 翁はそう言って、杖の先でちょん、と文帝の額をつついた。
 その刹那、文帝は身体ごと振り向き、カッと目を見開いて、先程までとは百八十度一変した、血管がぶち切れそうな真っ赤な顔になって怒鳴った。
「ふざけるな! おまえなんか嫌いだ! だいだいだいだいだいっ嫌いだ! だいの百掛ける一億倍乗嫌いだ!」
 そして、手元にあった文鎮を翁に向かってぶんと投げ付けた。
「左慈のバカ!!」
 すると、文鎮は翁の手前で翡翠色の蛙になって、翁の肩にぴょこんと着地した。
「ケロケロ」
 ううむ、とうなって、左慈という翁は薄いしょぼしょぼの唇をぺろりと舐めた。
「いや、流石に普段押し込めているだけあって、たまに爆発した曹丕の感情は一級品じゃ。鉄人の味わいじゃ。本日のグルメ日記につけておこう」
 文帝―曹丕は、ちぇっと舌打ちして唇を歪めた。
「前々から思っていたことだが、左慈、おまえは」
「なんじゃ?」
 左慈はわくわくして瞳を輝かせ、曹丕の次の言葉を待った。
「悪趣味なジジイだ」
「そうか、わしは悪趣味な美貌のジジイか」
「美貌は余計だ」
 曹丕はふうと息をつき、火皿にたかる蛾を見やった。そして、ぱたぱたとせわしなく動くその白い羽根を、人差し指と中指の間にそっと挟んでとらえた。蛾の 表面を覆うフカフカした微細な繊毛をじっと見詰めた。自由を奪われた蛾は曹丕の指の先で、そのふくふくとした胴体と脚を前後左右に激しく動かした。
「武帝・・・・・・、父上が存命のころは、父上をからかっては余の反応をうかがって楽しんでおったろう。余がその場にいなかったときは、わざわざ余のもと にやって来て、空に虹のように映し出して見せたな。おまえが妖術でからかい、父上が慌てふためくその場面を・・・・・・。十六ミリじゃ、とかわけのわから んことを言って」
「ふっふっふ。いまはデジタルじゃ」
「わけのわからん仙界用語には聞く耳もたぬ! だいたいなぜ直接余に手を出さずに、父上を標的にした! おまえは余の感情を喰らいたいだけであったろう!」
「曹操はからかいがいがあったのじゃ」
「父上を呼び捨てにするなァ!!」
 曹丕はつまんでいた蛾をぐしゃっ、と握り潰した。
「・・・・・・」
 曹丕は再度爆発しかけた感情を、グッと押し殺して呑み込んだ。左慈は舌打ちした。
「惜しい。もうちょっとだったのに。しかし、やはり曹操のことを持ち出すのが、一定して効果が高いのう」
 曹丕はギロリ、と左慈を睨み付けたが、すぐに静かな表情になって面を伏せた。
「左慈、ひとつ聞いていいか」
 曹丕はふと思い出したように呟いた。
「なんじゃ」
「さっき、実は余は左慈のことを好きなのだ、と言っただろう。その根拠だ」
「ああ、そのことか。実に簡単な理屈じゃよ」
 左慈は、卓に落ちた潰れた蛾の屍骸にふっと息を吹きかけた。すると蛾は再び元気になり、ぱたぱたと舞い立った。それは中空で分裂して二匹になった。その 二匹がまたそれぞれ分裂して、二匹が四匹となり、四匹が八匹となり、八匹が十六匹となり、十六匹が三十二匹となり、あっという間に部屋じゅうが蛾だらけに なった。振り撒かれた毒の鱗粉が、灯火を受けて、光の粉のように煌きフルフルと震えながら、不均等にゆっくりと落ちていった。
「やめてくれ、うっとおしい」
 曹丕は微かに首を横に振りながら言った。
 すると、蛾たちはぽん、という軽やかな音とともに跡形もなく消え去った。
「それじゃよ」
 と言って左慈は卓上の草稿を顎でしゃくって指した。
「ときの皇帝の曹丕が、怪異説話集なぞ執筆しておる。おまえの父の曹操は、その手の話が大嫌いであったというのにな」
「父上と俺はちがうよ。俺は・・・・・・」
 曹丕はふと、皇帝の一人称を忘れた。
「曹丕は、不思議な話が大好きなのじゃ。例えそれが、民の恐怖がつくりだした愚かな言い伝えであっても。それどころか、自分の頭の中で嘘の話を考え出しては、悦に入っておる。誰も知らなくともワシは知っておる。そこが、曹操とおぬしの大きく異なるところじゃ」
「根拠になっていない。それがどうして、余がおぬしを好いている、ということに繋がるのだ」
 曹丕はことさらに冷淡な声を作って言った。
「ワシは不思議そのものじゃろう」
 左慈は杖を指で支えて、クルリと一回転させた。
 ズーン、と低い音が響いた。この世に存在するありとあらゆる種類の音を束ねたような、鈍い白色雑音。曹丕がそちらに顔を向けると、彼方に、頸の長い亀のような、見たことのない動物の群れがあった。それはズン、ズン、ズン、と押し寄せてきた。
「玄武」
 と曹丕は呟いた。群れは彼の間近まで迫った。その理不尽なまでの巨大さに、思考がバラバラに引き裂かれそうになるのを曹丕は感じた。羊歯のような、どこか懐かしい匂いが鼻腔をかすめた。
「やめろ・・・・・・! 幻影を見せるのは・・・・・・!」
 頭をかかえて曹丕が叫ぶと、水を含んだ冷たい風の塊が、ビョウ、と吹き抜けていった。
「ワシは不思議。不思議はワシ。曹丕は不思議が大好き。曹丕は左慈が大好き」
 左慈はケタケタと笑いながら言った。
「くだらん。屁理屈だ。おまえを好きになるくらいなら、虫瘤のなかに手をつっこんだほうがはるかにマシだ」
「ずいぶんな言われようじゃな。もう、もう、曹丕ってばイジワル。ワシを呼んだくせに」
「呼んだ・・・・・・?」
 曹丕のこめかみが、ピンとひきつった。
「そうじゃ。曹丕が呼んだから、ワシはここにおる。最初っからそうじゃった。二人が初めて出逢った運命のあの日から・・・・・・。なーんてな。ふぉっふぉっふぉっ」

 曹丕の脳裏に、ひとつの光景がやわらかに浮かび上がった。雨の日だ。しゅうしゅうと、霧のように細かい雨で景色がけぶっている。曹丕は、庭に面した回廊 の片隅に佇み、椿を眺めている。視線は今よりもずっと低い。そうだ、幼かった日の思い出だ。眺めている? いいや、見詰めている。椿の硬くて艶のある大きな葉の上に、結んではこわれ、結んではこわれる、雨粒を見詰めている。父は戦に出ている。母は末の弟に乳を 与えている。使用人たちが次弟と遊ぶ、明るい笑い声が切れ切れに聞こえてくる。曹丕は雨がすき。心のなかでそう呟いた。椿の葉の上の雨粒は、おもしろい動 きをする。細かな粒が少しずつあつまって、あるときポンッと大きな粒になる。大きな粒は重くてすぐに流れ落ちる。下の粒を道連れにして、のせていた葉をフ ルンと揺らす。次々と空から降ってきた新しい小さな粒が、複雑な迷路のような葉脈をじわじわとつたって、またよりあつまってくる。
 そのくりかえし。
 曹丕は小首をかしげる。なにか、しらないひとの気配がする。こっそりと。ひっそりと。あなただれ?
 特大に成長してなかなか葉からこぼれ落ちない、ひとつだけ例外的にしぶとい雨粒のなかに、へんなお爺さんの姿が見えた。浅葱色のボロを着ていて、片目と 片脚がなくて、長い銀色の髪をしていた。曹丕は目をこらしてお爺さんを覗き込み、クスクスと微笑った。見えるはずのないそのお爺さんの存在を、いともすん なり受け入れたのは・・・・・・。

「呼んでいない」
 と曹丕は言った。
「呼んだ覚えはない。いいかげんなことをぬかすな」
「ウウン、左慈ちゃん寂し」
「ふざけるのもいいかげんにしろ。嫌いだ。おまえなんか・・・・・・大嫌いだ」
 曹丕は固い無表情をきめこみ、抑揚のない声で言った。
 左慈は乾いた笑い声をたてた。
「つれないのう・・・・・・」
 その言葉の語尾が、透け入るようにスッと遠ざかった気がした。
「左慈・・・・・・?」
 曹丕は顔を上げ、不安げに辺りを見廻した。いつもの部屋。廊下に護衛と書記が数人控え(彼らは息を殺したように静かで、無関心だ)赤い灯火がちろちろと燃え、それによっていっそう深まって見える闇が、部屋の隅にうずくまり、卑屈な視線でじっとこちらをうかがっている。
「左慈・・・・・・?」
 曹丕は立ち上がった。
「・・・・・・」
 左慈の姿はもうどこにもなかった。曹丕はそのまま立ち尽くした。廊下にある側近の影が奇妙に恐ろしかった。曹丕には、それらが時とともに忘れ去られた石像のように感じられた。
「左慈、ひとりぼっちはいやだよ」
 曹丕のその小さな呟きは、誰の胸に届くこともなく、砂上に垂らした一滴の水のように、部屋に澱む暗闇の中に頼りなく吸い込まれていった。





了.
イラスト/白牡丹



この作品は、雄大さまの三国志考証研究会に寄稿しました。



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