－あたたかい心－荀彧の想い

許都－丞相府
夕闇が迫る、春の日。

このところ、戦の気配がないので穏やかな日が続いている。丞相府の主も長くこの許都にとどまっている。
ようやくまとめ上げた書類を持って、彼は主の執務室へと向かっていた。
「失礼いたします」
流れるような優雅な所作で、礼をし部屋へと入ってゆく。
「おお、文若、良いところへ来た」
書面から顔を上げてにこやかに自分を手招きしているのは、彼が自分の主と決めた人。姓名を曹操、字を孟徳という。
「なんでしょう、孟徳さま」
文若と呼ばれた彼の姓名を荀彧、字を文若という。
「これなのだがな・・・」
と、曹操は荀彧を呼び止めるまで目を通していた書面を示す。
「どうにも腑に落ちんところがあってな」
曹操は自分の納得いかないことには妥協がない。わからないことを他人に聞くことも厭わない。

文官のなかでも荀彧は特に曹操に重用されているので、自然と彼への下問は多い。
荀彧は持っていた書類を秘書官に渡し、示された書面を読むために曹操の側に寄る。
曹操は荀彧よりほぼ頭一つ分小さい。
若くから武芸を鍛錬し、また戦乱から、戦場で長くを過ごした曹操は鍛えられた体をしている。余分な脂肪は全く付いていない。だが、どうしても身長の低さは隠しようがない。
それでも・・・と荀彧は思う。体の大きさと気宇の大きさのなんと比例しないことか・・・と。
もっと自分を飾り立てる人であれば、うわべだけ大きく見せる方法はあるのかもしれない。だが、この主は華美な装飾を嫌い、いつも身軽な服装でいる。
そんな主の性格も荀彧にとっては好ましい。必要以上に自分を飾り立てる人間は信用できないものだ、と思ってもいる。
その点、この人は外見を飾り立てて自分を大きく見せようとはしない。気宇の大きさこそが、自分の真価であると心得ているようだ。

「その件でございましたら・・」
荀彧は求められた説明を曹操に示す。すると、曹操は左手の人差し指の先をかむような仕草で、思案をめぐらせる。まるで子供のように。
その仕草で思案する癖を荀彧はよく知っている。愛らしい、と思うこともある。
不敬なことだ、とはわかっているが、やはりなんだか可愛らしい。とても、ひげを生やしたいい大人に対して言う言葉ではない。
この癖を知っているのはごく少数の者に限られている。この仕草をするときはかなり深く考えている状態だ。

「あいつはガキの頃からそうなんだ。いくつになっても癖は抜けないようだな」
そういって笑いながら教えてくれたのは、曹操を幼い頃からよく知っている男だった。
自分の知らない主を知る男。その時、少しの羨望を荀彧は禁じ得なかった。

「・・・なるほどな、よく考えたものだ」
自分の感じていた疑問に答えを見つけた曹操は、荀彧に笑顔を向ける。笑顔も美しい。と荀彧は思った。
この主の笑顔にもいろいろ種類がある。今、自分に向けられている笑顔は為政者として、方針が決まったときの笑顔だ。

荀彧自身、よく容貌を賞賛される。押しも押されもせぬ名門の家に生まれ、容姿も人並み以上に良い。
だが、と荀彧は思う。人としての魅力は自分はこの人に勝てない、と。その魅力故に多くの人材が集まるのだ。
そして、自分もまたこの人の魅力に惹かれてしまったひとりなのだ。
守りたい、と思う。むろん荀彧は文官で戦場で守ることなどできない。戦場では自分の出る幕はない。あの男が守るのだから。
なればこそ、戦場の外ではどんなことをしてでも、この人を守ろうと誓った。

「文若、仕事は片づいたか」
いくつかの書類に決裁をしたあと、曹操は荀彧にたずねた。
「はい」
と荀彧はうなずいた。
「良い酒が手に入ってな、これから元譲達とやるんだが、一緒に来ぬか」
為政者としての顔から、個人としての笑顔になっている。

非情な奴だと人はいう。冷酷な男だと、天をも畏れぬ男だと。
だが、私は知っている。この人の笑顔はこんなにも暖かい。この人はこんなにも優しい。こんなにも稚く、こんなにも愛おしい。共にあることが、こんなにも誇らしい。
荀彧は胸の真ん中が暖かくなるのを感じていた。

「はい、お供いたします」
荀彧もまた笑顔で曹操に答える。
お供いたします。どこまでも・・・最期まで付いて行きます。自分は決してあなたを裏切らない・・・たとえ行く先に何があろうとも、
いつまでも・・・どこまでも・・・。