その日、祝い事があり、広間には曹操の重臣達が宴を開いていた。 時間が経ち、喧噪が大きくなってきた頃。 「元譲、ちょっといいか?」 曹操は、少し離れたところにいた夏侯惇に声をかけた。 「ん?なんだ?」 「いいから、ちょっとこい」 「おい、今日の宴の主役が、どこへ行く気だ?」 「これだけ皆できあがっていれば、主役はもういらんだろ。いいからこい」 半ば強引に曹操は、夏侯惇を宴の開かれている広間から連れだした。 「どこへ行くのだ?」 曹操の斜め後ろをついて行く夏侯惇が尋ねるが、曹操は答えない。 やれやれ、と夏侯惇は苦笑いをする。 回廊をいくつか曲がって、曹操の私室の前に来るが、それを素通りし、さらに奥に進む。 道順からして、曹操の私室へ行くとばかり思っていた夏侯惇は、不審げに眉をひそめるが、前を歩く曹操の速度は落ちない。 さらに進んでゆくと突然、曹操が振り返る。 「ここだ」 夏侯惇があたりを見渡すが、何もない。 「?」 不思議そうな夏侯惇の顔を見て、曹操は指を差す。 「あれだ」 曹操の指さした場所を見ると、何もない庭先に、ぽつんと鉢植えが置いてあった。 「なんだ?」 「憶えてないのか?もっと近くへ行って見ろよ」 促されるままに、夏侯惇はその鉢植えの近くに行く。 「そろそろだと思うのだがな」 確かに、おぼろげに、その鉢に植えられている植物の記憶がある。 「・・・これ・・・」 はっと、遙か前の記憶が夏侯惇の脳裏によみがえった。 「思い出したか?」 曹操が笑みを浮かべる。 「ああ・・・」 夏侯惇の顔にも笑み広がる。 思い出したのは、まだ、互いに字もなかった少年の頃のことだった。 「操、こっちだ」 夏侯惇に連れられるままに、曹操は自宅の広い邸内を歩いていた。 「どこまで行くのだ?惇」 今日は付き合えと言われ、二人で時間を過ごしていた。 真夜中だというのに、突然部屋の外に連れ出された。 「いいから、こっちへ来いよ」 曹操はじらされるのが好きではない。 だが、夏侯惇が何か自分を楽しませてくれるようなので、ともすれば眠気と共に不機嫌になりそうな自分をなんとか堪えていた。 「ほら、あれだ」 夏侯惇の指さす先に、視線を遣る。 広い庭の片隅に、ぽつんと置かれた鉢植えがある。 なんだ、花か、と曹操は少しがっかりした。 表情に出したつもりはないが、どうやら夏侯惇は分かってしまったようで、すこし肩を落とした。 せっかく、自分のために夏侯惇が何かを用意してくれたのに、喜んでやれなくて、悪いことをしたと思った曹操は、笑顔を作ってみせる。 「なんの花なんだ?」 「・・・・月下・・・美人・・・」 その花の名は聞いたことがあったが、実物を見るのは初めての曹操は、今度は本当の笑顔を夏侯惇にみせた。 「月下美人か。聞いたことはあるが、見るのは初めてなんだ」 「そ、そうか?もうすぐ花が咲くところがみれるんだ」 夏侯惇はほっとした表情になり、曹操の手を引いて鉢植えの側に連れて行った。 すっきりのびた茎に、白いつぼみが、二つ三つ。 「でも、夜に花は咲かないだろう?」 曹操は夏侯惇に尋ねる。 「夜に咲くから、月下美人なんだよ」 へえぇ・・・と曹操はそのつぼみに見入る。 しばらくすると、固く閉じていたつぼみが、ややふくらんだ。 並んでじっと見ている二人の目の前で、そのつぼみは大輪の花へと姿を変えた。 「あぁ・・・綺麗だな」 曹操が、ため息と共に言う。 「でも、どうしてこれを?」 問われて、夏侯惇は顔を赤くする。なぜ、この問いで夏侯惇が赤くなるのか、不思議だという目で曹操は見ていた。 「・・・誕生日・・・だろ・・・」 「え?」 彼らしからぬ、小さな声に、曹操は問い返す。 「今日・・・誕生日だろ、操の。だから・・・」 「俺の誕生日だから、これを?」 「・・・うん・・・」 自分の誕生した日など、どうでもいいと思っている曹操は、この従兄弟の心遣いが嬉しかった。 「見るのが難しい花だって・・・だから・・・」 照れくさそうにいう、その姿をとても好ましく感じた。 「惇・・・嬉しいよ」 「ほんとか?」 夏侯惇の顔が、ぱっと明るくなった。 「ああ、俺はお前には、うそは言わない。本当に嬉しいよ」 どんな高価な品物を与えられるより、苦労してこの花を手に入れ、世話をしてくれていたであろうことに、曹操は感動していた。 時間が経つと、花はまた小さなつぼみへと戻った。 「また、二人でこの花が咲くところをみたいな」 曹操が言うと、夏侯惇は嬉しそうに頷いた。 「そうか・・・憶えていたのか」 夏侯惇の目に、懐かしさがこもる。 「たまたま手にいれてな。お前と一緒に、もう一度この花が咲くところを見ようと思ったんだ。そう、約束したろ?」 そうだった。もう一度一緒に見ようと約束した。だが、次の年から曹操と夏侯惇は離れた場所に住むようになり、いつしかその約束も互いの記憶の奥深くにしまい込まれた。 「ほら、見ろよ、元譲」 いつしか、花は月の下でその姿をあでやかに変えていた。 「久しぶりに見たな・・・綺麗だ」 曹操が言っても、夏侯惇は何も反応してこない。 おや、と思って隣を見やると夏侯惇は花を見ずに、曹操を見ていた。 「元譲、花が咲いたぞ?」 「ああ、見ているさ・・・ここにある、月下美人を・・・な」 苦笑混じりに曹操がいうと、両手で曹操の顔を包み込んで、夏侯惇はそう言い、曹操にその顔を近づける。 「・・・ばか・・・恥ずかしいやつ・・・」 ゆっくりと、二つの影が重なる。 月と忘れられた美人だけがそれを見ていた。 了. |