南東北学園、五回表の死闘(1/2)
炎天下の県立球場。間の抜けたトランペットが「狙いうち」らしきメロディを垂れ流しているのを遠く聴きながら、一塁手の啓一郎は汗を拭う。
8、5、7、12、そして現在五回表、すでに6点入っている。依然ノーアウト満塁、点差は実に38点。38対0。絶望的な点差。だが野球とは残酷なスポーツだ。アウトを三つ奪うまで、この回は終了しない。
キン、と白球を跳ね返す金属バットの冷たい響き。硬式球は三塁手の頭上を越える。一気に走者が二人帰還し、スコアボードの数字が8に替わる。今更余分に点を奪ったところで大勢に影響はないのに、なぜ全力疾走するのだろうか。ご苦労なことだ。
ともあれ、ランナー一塁と三塁で、なおもノーアウト。
啓一郎の守る一塁にやってきた先ほどの打者。数字の大きな背番号で、本来なら控え選手なのだろう。身体こそ大きいがまだ幼い顔つき。たぶん一年生だ。とはいえ啓一郎も二年生、ひとつしか違わないのだが、自身は若白髪の質で、十七歳にしてすでに課長クラスの風格を持つメガネボーイだ。
夏の全国高校野球。憧れの聖地、西宮の甲子園球場を目指して四十七都道府県、全国の高校球児が白球を追い、勝利に邁進する――。
と思うのは大間違い。いま、啓一郎たちチームメイトの気持ちはただひとつ。
さっさと試合を終わらせて夏期講習に参加せねば。
県下随一の進学校として知られる南東北学園。そこに入学してくる生徒たちは程度の差こそあれ、学力によって認められた人間である。今後も学才によって自らの将来を切り拓き、それを試金石にして社会に出て、世の中の上位、あるいは中央に座を占める、エリートたらんと欲する少年少女なのだ。
ところが彼らエリートのたまごたちは、いまだかつて嘗めたことのない屈辱を味わっている。それもよりによって「西以外」の奴らに、だ。
私立南東北学院高校、通称「西以外」。バブル期に雨後の筍のように乱立した新設校の生き残りである。その後少子化が進み、今では名前が書ければ誰でも入学できるとまで言われる底辺校だ。その学力の低さを侮蔑する者は、名前の酷似した名門校と峻厳に区別して、「西以外」などと呼び慣わすようになったのだが、皮肉にも全国的には「西以外」の方が有名なのである。
資金力は豊富にあるが、歴史や実績に乏しい学校が短期間に名を上げようとすれば、スポーツによる売名が手っ取り早い。「西以外」は野球のみならず、県外から運動能力に秀でた中学生を特待生として入学させ、こと運動に関しては充分に名門校と呼ばれる実績を上げてきた。それでもなお地元の住民は「西以外」の呼び名を改めようとしない。成金じみた経営方針は鼻につくし、生徒たちはとんでもない馬鹿か余所者ばかり。外の評判はともかく、県内においては依然「西以外」、四文字以上の漢字が書けない連中と小馬鹿にしているのである。
顔を上げると投手の関口がタイムを要求している。主将で唯一の三年生、捕手の松島が駆け寄り、二言三言交わした後、今度はナイン全員を呼び寄せた。
ベンチの監督はぼんやりとマウンドを眺めているだけだ。高校野球の規約により監督はグラウンドに入る事ができないが、もし可能だとしても頼りにはならないだろう。何しろ今年就任したばかりの新米監督、指導経験は全くない。前任者が買春で捕まり解雇され、間に合わせで手の空いていた国語教師に声が掛かっただけなのだ。ちなみに野球のルールは『ドカベン』とテレビゲームで覚えたそうである。
「どうかしたのか」
啓一郎が訊くと、関口は不満もありありとした口調で、
「やってらんねえよ、もう。オレ、いつまで投げればいいんだよ」
「そんなこと言ったっておまえ、アウト三つ取らないかぎり、この回は終わんないんだぞ」
「じゃああれか? アウト三つ取れるまでオレ、永久に投げ続けなきゃいけないのかよ」
「しょうがねえだろ、ルールだから」
諦め顔で口を挟む主将に対し、関口はキレ気味に、
「そりゃ先輩はいいっすよ、座ってりゃすむんだから」
さすがは年長者、唯一の三年生にしてキャプテンである。むっとした表情は覆うべくもないが、そこはぐっとこらえて、
「おまえね、ずっと座ってるのもしんどいんだぞ。膝は痛いし足は痺れるし。それにプロテクターしてるぶんおまえらより暑いんだから、オレ一人楽してるみたいな言い方するなよ」
「でもオレ、この回だけで50球投げてんですよ。もうホント、勘弁してくださいって」
「代わりのピッチャーなんて、うちにはいないだろ。おまえが投げるしかないじゃん」
「オレだって好きでピッチャーやってるわけじゃないんですよ。誰もやらないからオレがやることになったんじゃないですか。何でオレばっかり。不公平ですよ」
ちら、と目を遣るとイライラした様子の審判。遅延行為と思われたらまずい。啓一郎のみならず、南東北学園のチームメイトは、内申書に色を付けてもらうため渋々ながらも野球部に入ったのである。遅延行為だの、ましてや試合放棄といった不名誉な行為は願い下げだ。
「じゃあ、こうしたらどうっすか、キャプテン」
啓一郎は急場しのぎのアイデアを提案した。
「とりあえず打者三人、関口には投げてもらうって事で。アウトが取れようが取れまいが、三人終わったら他の奴に代わってまた三人。それでいいだろ、な?」
最後の言葉は関口に向けたものである。
オレもか、と訊く主将に、
「いや、キャッチャーはプロテクターを外さなきゃならないから除くとして、あとは順番に背番号の並びで。これなら公平でしょう?」
背番号3の啓一郎が言うからにはたしかに公平かもしれない。ナインは相槌を打つ。1番は投手の関口、2番は捕手の主将だから、次は啓一郎の番である。つまり身をもって範を示すわけだ。
「判ったよ。三人だな? 三人終わったら交代だな?」
完全に勝負を投げた顔つきの関口は言い、試合を成立させることだけに主眼を置く啓一郎は頷く。
たとえ地方予選とはいえ高校野球は夏の風物詩。惨めな真似をしては地元の人間が興醒めするし、それ以上に「文武両道」を額に掲げるエリート校のメンツが立たない。
ああ、その通り。見栄や体裁で俺らは野球をやらされている。それ以外に理由なんかない。
主将がたった一人の補欠を呼び寄せて、マウンドでおこなわれた取り決めをベンチの監督に伝えさせた。たとえお飾りの監督でも、選手交代は監督の指示でおこなわねばならない。
南東北学園の野球部は毎年のように廃部の危機にさらされている。部員が集まらないのだ。だいたい一流大学合格を目標とする生徒たちが、何を好きこのんで野球などするものか。球遊びに興じる時間があれば、寸暇を惜しんで勉学に勤しむのがすじというものだろう。
ところが学校のメンツという奴がそれを通さない。何しろ硬式野球は高校スポーツの花形だ。県内随一の名門校が、最も有名なアマチュアスポーツの祭典に参加しないわけにはいかない。「参加することに意義がある」とは、クーベルタン男爵も罪なことを言ったものだ。
そういう事情で、南東北学園では毎年春になると、進路指導課による部員狩りがおこなわれる。ターゲットは中学時代に野球をやっていた者か、未経験者でも体育の成績が良い者。それらのうち、今ひとつ学業で伸び悩んでいる者に声を掛け、部員になるかわりに内申書を優遇し、推薦入試で有利になるよう工作してやる、と誘惑するのだ。名門・南東北学園の推薦状があれば、新入生確保に汲々としている地元の私大クラスならフリーパスだ。これはおいしい取り引きといえる。
そんなわけで野球部に入ってくるのは二年生がほとんどである。一年生なら自分の成績にそこまで不安を抱いていないし、三年生ならもう手遅れだからだ。啓一郎も二年になったばかりの春の進路指導で入部を決めたし、このまま成績が伸び悩めば、三年生になっても野球をやっているに違いない。三年まで野球部に残っているのは成績が上がらない者、そういう認識があるから、部員の誰もが主将の松島を軽んじている。
思うに、受験とは何とフェアな舞台なのだろう。勉強し、点数を取れれば合格できる。判りやすい。スポーツや芸事のような、個人生来の才能を大きく問われる分野ではない。誰でもひたむきに努力すればそこそこの結果が出る。つまり偏差値とは、個人の才能云々の前に、目の前にある課題に対してどれほど誠実に向き合ってきたかを測る目安なのだ。
「プレイ」
長すぎる五回表の攻防が再開された。本当の敵は対戦相手ではない。三つアウトを取らねばチェンジできないという、万国共通、野球の公式ルールだ。
あと三人投げれば交代できる、その思いが関口に力を与えたのか、はたまた長すぎる攻撃に相手が倦んだのか、再開一人目の打者は高めの直球を打ち損じてファールフライ。死に物狂いで捕球する三塁手。待望のワンアウトだ。あと二つのアウトで攻守交代。だが、
「ボール、フォア」
関口の投球が乱れ、次の打者は四球で一塁に進む。塁が埋まり、またもや満塁。もういい加減にしてくれ。
「ねえ、きみ」
新たに一塁にやってきた相手選手に啓一郎は囁く。
「ベンチに戻ったらさ、みんなに伝えてくれないかな。これ以上試合するのはお互いしんどいだけだろう? さっさとコールドゲームにするためにも手を抜いてくれよ」
五回の表と裏、両チームの攻撃が終わってはじめて、大量点差による試合終了、コールドゲームが成立する。
「いや、無理」
にべもない返事。
「手抜きしたら試合に出してもらえなくなる。うちには代わりの選手なんていくらでもいるんだ。ベンチに入れない補欠の補欠だっていっぱいいる。あんたらとは違うんだよ」
あからさまな軽侮の言葉にカチンとくる。おやおや、そうきたか。筋肉馬鹿か、本当の馬鹿しかいない「西以外」のくせによくも言ったものだよ。
「君たち、私語は慎むように」
一塁審判の警告で我に返る。マウンドでは3ボールの後、苦し紛れに投げたど真ん中がセンター前に弾き返されるところだった。2点追加。42対0。到底、野球の試合とは思えないスコアだ。
「タイム」
ベンチから監督が出てくる。打者三人で選手交代だ。
《南東北学園ピッチャー、関口くんに代わりまして――》
取り決めどおり、啓一郎の番が回ってきたのだ。