南東北学園、五回表の死闘(2/2)

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「おつかれ」
 ふてくされた表情でマウンドを降りる関口に歩み寄り、啓一郎は自分の嵌めていたファーストミットを手渡す。啓一郎がマウンドに上がる代わりに、一塁の守備には関口が就く。どうせ素人に毛が生えた程度のチームだから、誰がどこを守ろうと大差ない。投手と捕手以外は特別な練習メニューなどなく、せいぜい外野手と内野手くらいの区別しかない。
 長時間にわたって関口が踏み荒らしたあとのマウンドに上がり、見様見真似でピッチャーズプレートの上にかぶった土を足で払い除けてみたりする。小学生の頃、草野球で投手をしたことはあるが、きちんとした舞台で投げるのは初めてだ。ちょっと緊張している自分に気付き、苦笑する。
 バッターボックスまでの距離は想像していたよりも遠く、マウンドも傍目から見るよりは案外高い。投手交代による投球練習で何球か放り、とりあえず捕手のミットに届く程度には球が投げられることを確認する。
「プレイ」
 投手交代後の第一球、捕手は外角低めの直球を要求しているが、もちろん素人投手が思った場所に球を投げられるはずもない。ましてや球種の選択など論外だ。迷うことなくストレート。どこにいくかは判らない。あとは捕手がどうにかしてくれ。
「ボール」
 自分ではストライクコースに投げたつもりだったのだが、大きく外れてボールの宣告。あらためて思うに、18メートルあまりの距離からストライクゾーン目掛けて投げ込むのはそう簡単なことではない。
「――野球が上手いからって何の自慢になるのかね」
 舌打ちし、野球部員にあるまじき負け惜しみを呟く啓一郎。更に続けて二球外れ、あっという間にノーストライク・スリーボール。いや、ホントに難しいぞ、これ。
 どうせ打者三人で交代なのだから四球で歩かせても構わないのだが、一球もストライクゾーンに入れられないのも癪だ。今度は投げ込むというよりは放り込むような感じでやってみる。打者相手の投球ではなく、キャッチボールの要領で、だ。
 山なりの軌道を描いた白球は、イライラするほどの速度で打者の手元にようやく到達する。予想以上に遅い投球にタイミングが狂ったのだろうか。バットの先っぽでこすった球は勢いを殺され、二塁手の前へ力無く転がっていく。
「よっしゃぁ!」
 思わず握り拳をつくる啓一郎。棚からぼた餅といえる幸運な打ち損じ、セカンドゴロ。打者の走力次第ではダブルプレイも可能――。
 だが振り返った啓一郎の視界に映ったものは、打球を拾い損ねてもたつく二塁手の姿。この試合、南東北学園のエラー数は17になった。
 喜びが大きかっただけに、落胆も激しく、憤りも強かった。
「ああ、くそっ!」
 思わず叫んだ苛立ちの言葉。だが、すまん、と手で謝る二塁手の仕種で平静を取り戻す。そうだ、何を熱くなっているんだ。こてんぱんの負け試合なのだ。今更一つ二つエラーが増えたからってどうって事はない。どちらにせよ、あと二人投げれば次の奴と交代なのだ。
 気を取り直して次の打者に向かう。走者満塁だから盗塁の心配はなく、打者だけに集中できる場面である。相変わらず、捕手のサインは外角低め、ストレート。
 啓一郎の視界の端で、大きくリードする三塁走者が見えた。あくまでも次の塁を狙う貪欲な姿勢。ご苦労なことだ。この期に及んで、なおも一点欲しいかね。常に全力、一所懸命。わざとらしいアピール。実に下品だ。
 鼻白みながらも打者に向き直り、セットポジションに構える啓一郎。おもむろに腕を大きく振りかぶり、続いて膝を上げ、その後、身体ごとマウンドから下りる勢いを借りて球を放る。
 ――えっ?
 視界を掠めた三塁走者の動きに驚愕する。信じられなかった。大きなリードを取っていた三塁走者は、啓一郎が投球動作に入るやいなや、突如走り出したのである。
(嘘だろ?)
 打者もバットを寝かせてバントの構えに切り替えている。
(スクイズ? この状況で?)
 だがもう止まらない。踏み出した脚、振り出した腕はその勢いのままに白球を放り出し、待ち構える打者の元に向かっていく。
 あり得ない光景だった。英語の「スクイーズ(搾り取る)」が語源とされるこの作戦は本来、アウトひとつ犠牲にしてでも一点をもぎ取るという、なりふり構わない奇襲攻撃なのだ。42点も差のついた試合で用いる作戦ではない。
 だが「西以外」はこの局面で使ってきた。全く必要のない博打を、この場面で打ってきたのである。
 啓一郎の困惑をよそに、打者は球の勢いを完全に殺し、測ったように一塁線上に落とす。小憎らしいくらいに巧いバントだ。先にスタートを切っていた三塁走者は易々と本塁に辿り着く。一点献上は仕方のないことだ。ならば、せめてその代償にアウトひとつ拾えるかどうか。
 駆け寄って球を拾う臨時一塁手の関口。だが関口の代わりに一塁のカバーに入るべき、急造投手の啓一郎は咄嗟の事に立ち竦み、いまだマウンドの上にいた。
(スクイズ? どうして?)
 だが構わず、関口は一塁目掛けて送球する。
「アウッ!」
 二つ目のアウトを一塁審判が宣告する。呆然とする啓一郎を見て、代わりに二塁手が一塁のカバーに入っていたのだ。先ほどのエラーを帳消しにする、隠れたファインプレイである。
 二塁手の好判断に手を挙げて礼を言う啓一郎だが、硬直した思考が徐々にほぐれていくごとに、腹の中では沸々と怒りが込み上げてきた。「西以外」がスクイズを決行した理由。それに思い至り、はらわたが煮えくり返るような思いだった。
 そもそも互角に戦える相手ではない。そんなことくらい百も承知だ。ましてやこれほどまでに点差が開いているのだ。適当にあしらわれても仕方がない。だが、この期に及んでスクイズとは人を馬鹿にするにもほどがある。
 あいつらは俺たちを実験台にしたのだ。
 失敗すれば一瞬にしてアウトを二つ取られ、せっかくの好機を台無しにしてしまう、伸るか反るかの大博打スクイズ。「西以外」はいずれ訪れるであろう大舞台――それは甲子園出場を争う強豪校との決戦であるかもしれず、もしくは甲子園における全国大会の場かもしれない――の予行演習として、彼ら南東北学園相手にスクイズの実戦練習をしたのだ。仮に失敗したところで痛くも痒くもない。どうせコールドゲームになるまでの暇潰しなら、せいぜい噛ませ犬になってもらおう、とこういう腹積もりなのだ。
「ツーダウン」
 啓一郎の胸中も知らず、捕手のキャプテンは立ち上がり、ナイン全員に呼びかける。あとひとつで終わり。無事に負けられる。
「しまっていこう!」
 何がしまっていこう、だ。もう充分すぎるほど、ぐだぐだじゃねえか。すでに俺たちは対戦相手としても認められていないのだ。バッティングピッチャー以下。たぶん、肩慣らしの練習相手とすら思われていない。
 逃げ出してしまいたかった。もういやだ。ここまで辱めを受けて、何で野球なんかやらなきゃならないんだ。別に甲子園に行きたいわけじゃない。プロ野球選手になりたいわけでもない。だいたい、野球なんて、やるもんじゃなくて観るものだ。それも、才能があり、鍛錬も積んだ一流の選手たちのプレイであってこそ見応えがあるのだ。素人同然の連中が興じる不細工な球遊びなんぞ観る価値もないだろうに。
 次の打者が、お義理にヘルメットのひさしに手をやって挨拶する。くるり、くるりと二度バットを回した後、ぴたりと構える右打席。実にさまになっている。打ち取れる気がしない。
「――そりゃそうだ」
 啓一郎は自嘲の笑みを頬に刻んだ。こいつらは野球をやるために郷里を離れ、はるばる「西以外」に入学した特待生なのだ。小ずるい思惑で野球をやっている俺らとはものが違う。
 もうどうでもいい。あと一人投げて終わりにしよう。その後のことなど俺は知らない。この球場にいる誰も彼もが、もはや南東北学園の勝利など信じていない。43点差をひっくり返して勝利を収めるなんて、これっぽっちも思っていない。だいたい俺たち自身、そんなこと思っていないのだ。だったら何もくそまじめに野球をやるふりなんぞしなくてもいいじゃないか。いっそのことデッドボールでもぶつけて次の奴と交代しようか。
 だが孤独なマウンドに立つ啓一郎の鼓膜を震わせるのは、潮騒のような声援。最初は聞き間違いかと思った。だが本当のことだと解って総毛立った。
 でも信じられない。だってこんなこと、あり得ないじゃないか。
“あっとひっとり! あと一人!”
 投手を励ます歓声。しかも、よくよく耳を澄ませばその声は、啓一郎たち一塁側の応援席からだけではなく、対戦相手の応援に来た三塁側の観客からも聞こえてくるのだ。
“あっとひっとり! あと一人!”
 手拍子にのせての「あと一人」コール。
 異例である。普通、勝っているチームの応援団が、あと一人抑えたなら勝利が確定する際に送る声援なのだ。だが今は敵味方問わず、圧倒的大差で負けている南東北学園に向けられている。
 気温は摂氏35℃。まだ五回表にしてすでに三時間が経過した長丁場。もうみんなうんざりしているのだ。何でもいいから早く負けろ。だがこれは野球の試合だ。無事に負けるためにはこの回を終了させねばならない。回を終了するにはアウトを三つ取らねばならぬ。つまり残酷な野球のルールでは、小さな勝利を三つ奪うまで、敗北する権利すら与えられないのだ。
 しかしあと一人、あとひとつアウトを取りさえすれば、晴れて正々堂々と負けることができる。だから頑張れ。これ以上試合を長引かせるな――。
 それは南東北学園のチームメイトだけではなく、双方の応援に来た観客の総意であり、長すぎる試合に立ち会うことになった審判団の本音であり、待ち惚けを食わされている次の試合の選手たちの願いでもあり、そしておそらくは対戦相手の「西以外」の選手の思いをも代弁したものであったろう。
 ――早くアウトを取ってくれ。そしてさっさと負けてくれ。
 今、この瞬間、球場はひたむきに祈る集合体となり、マウンドに立つ啓一郎は球場とひとつになる。あと一人、何とかひとつ、アウトを取ってくれ。
 この場に立ち会う全ての人間の思いを背負い、球場に集まった全員の願いを背に受け、啓一郎はセットポジションに就く。
 一方、気の毒なのは打者である。球場にいる全ての人間から無言の圧力を受け、しかし怠慢プレイなどやろうものなら人材豊富な「西以外」のこと、自らの処遇に悪影響を及ぼすに違いない。打てば悪者、打たねば背信者なのだ。
 漲る自信。溢れる闘志。打者を睨みつける啓一郎。ヘルメットの陰、相手打者の顔色は青白く、明らかにこの場の空気に呑まれている。
“あっとひっとり! あと一人!“
 打ってみろ。打てるものなら打ってみろよ。
 哀れな最終打者に向けて啓一郎は嘲りの笑みを向ける。お気の毒だが、みんなが俺の味方だ。お前だって解っているんだろう? みんながお前のアウトを願っている。俺たちの敗北には、お前の敗北が必要なんだよ。そんな状況で、お前はあえてヒットを打つのか、打てるのか。なぁ?
“あっとひっとり! あと一人!”
 球場の全ての者が、あと一つのアウトを希求している。人の祈りというものが実際に質量を伴うものだと、啓一郎は生まれて初めて知った。重いのだ、球が。ずしりとした重みはまるで砲丸の如し。生半可な打者では、皆の祈りを乗せたこの球を打ち返すことなどできはしまい。
“あっとひっとり! あと一人!“
 脚を高々と上げ、踏み込む勢いに全体重を乗せる。足首、膝、股、腰、背、肩、腕、肘、手首、そして指先へと運動エネルギーが伝達され、啓一郎は今、たった一個の白球を射出する一台のカタパルトとなる。
 さあ、打ってみろ。打てるものなら打ってみやがれ――。
 音の速さは時速1225q。だからそれは錯覚に過ぎない。たかだか高校球児の打球が、音速の壁を突破できるはずがないのだ。
 だが実感として、音より早く球が来た。気付くより先に被弾した。銀縁メガネは破片と砕け、痛みを感じる前に鼻骨を粉砕された。
 ――打っちゃったよこいつ。
 ピッチャーライナーを顔面に受け、もんどり打ってぶっ倒れる啓一郎。打球の処理などできるはずない。霞む視界に転々とする白球。誰かの脚が駆け寄ってボールを拾っているのが見えた。
 まだプレイは続行中。啓一郎を除いた彼我の選手たちがグラウンドを駆け巡り、球を遣り取りし、セーフだのアウトだのと言っているのだろう。
 だが硬式球をまともに被弾し、脳震盪を起こしている啓一郎には全て彼岸の光景だ。遠く観客席から伝わってくる、落胆の声も耳に届かない。何はともあれ、打者三人に投げた。彼の役目はもう終わりだ。それにしても――。
 そっとまぶたが落ちていく。朦朧とする意識が消えかかるなか、啓一郎は声もなく呟いた。
(スポーツマンって奴は始末に負えないな)

 五分間の中断を挟んだのちに再開された五回表、私立南東北学院高校は更に二点を追加し、ようやく長い攻撃を終了した。その裏、反撃を期した南東北学園野球部だが、健闘虚しく三者凡退。南東北学園最後の打者となった主将の松島選手はショートゴロに倒れたものの、一塁への果敢なヘッドスライディングを見せ、最後の瞬間まで勝利を諦めない姿勢を貫いた。
 五回表裏の攻防が終了した時点で10点以上の差がついていたために、高校野球地方大会の特別規約により、コールドゲームが適用されてゲームセット。46対0で私立南東北学院高校の勝利となった。
 翌日の地元紙。記録的な大敗を報じるその見出しに“不屈の闘志尽きることなく”の文字が躍り、泥だらけのユニフォーム姿で白い歯を見せる南東北学園主将、松島選手の写真が小さく掲載された。
 最後のファインプレイで松島は見事推薦入学を射止め、啓一郎は新しくあつらえたメガネで参考書と対峙する。曲がった鼻に触れるたび、啓一郎は自分の本分を思い出す。野球なんかしている暇はない。勉強しなけりゃならないのだ、と。
 彼ら南東北学園野球部の夏は、とりあえず終わった。

 

 


あとがき
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