竜を狩る者

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 昨夜、市役所が配った土砂災害危険区域マップを眺めていて、ふと彼の視線は一点に留まった。惣田池。名前から察するに農業用の貯水池なのだろう。
 問題はその場所だった。子供の頃よく遊んでいた裏山にその記述があるのだ。だがそんな池など見た憶えがなかった。彼が郷里を離れていた十数年のあいだに新たに造成されたものだろうか。それともしょせん子供の脚、ずいぶん探険したつもりでもそこまで奥深く入っていなかっただけか――。
 やけに気になった。気になったら落ち着かなくなった。落ち着かないなら確認しに行けばいい、と早速山に分け入った。別に山歩きが好きなわけではない。職を辞し、実家に戻ってからのひと月、何もすることがなかったし、それ以上に何かしようという気も起こらなかった。そんな彼が珍しく何かに興味を惹かれたのだ。未知の池に対する関心よりもむしろ、自身の中に芽生えた好奇心が嬉しくて、彼は八月の酷暑をおして山に登ったのである。
 だがこの炎天下だ。空は梢に遮られているが、地熱がじりじりと足元から彼を苦しめる。加えて頬を打つ小枝、足に絡んでくる灌木の茂み。普段の彼ならうんざりしているだろうに、なぜか引き返すこともせず黙々と歩みを進める。ときおり地図を広げ、方位磁石を取り出し、真っ直ぐ目的地に向かっていることを確認しては、また視線を落とし、一歩一歩下生えを踏み分け、クマザサの茂みを押し通る。
 何でこんなことをしているのだろうか、我ながらおかしかった。だがよくよく思い返せば、昔の自分はこんなふうだった。普段は取り澄ましているくせに、ときおり妙に機嫌が良くなったり、奇矯な振る舞いをして周囲を驚かせる。ごく親しい友人は彼を指して、躁鬱なんじゃないか、と冗談めかして笑ったものだ。
 だがこの数年、それが途絶えていた。気持ちは沈み込むばかりで昂揚することなど全くなかった。ただただ眠く、面倒臭い。それどころか自分で何をしているのか確信が持てず、自分のこれからに何も期待できず、毎日が方眼紙のマス目を塗り潰すようにしか感じられなくなっていた。医者の見立てでは鬱ということだが、なぜそうなったのか自分でもわからない。ことさら何かに悩んでいた覚えもないのだが、気付いたらそんなふうになっていたのだ。
 物思いに耽る一方で足は機械的に動く。結構な時間歩いた気がするがまだ目的地に着かない。そのうち次第に目的意識も薄れていく。何をしにきたんだっけ俺は? そうだ、池を探しに来たんだ。
 また地図を広げる。登山口、火難除けの秋葉さまの祠、長年の風雨に土砂が洗われ巨石のみが残る山頂。そこまでは地図の通りに来た。山頂からは目的地まで、方位磁石の示す方角へ真っ直ぐ突き進んできたつもりだったが、なにぶん未整備の山中だ。迷ったのかもしれない。
 山頂まで引き返すべきだろうか。ふと不安になるが馬鹿馬鹿しくなってそのまま進んだ。なぜ迷ったのかもわからないのだ。引き返したところで元の位置に戻れる保証はない。第一、道を誤ったという意識すらないのだ。気付いたらここにいて、ここに来て初めてどうやら迷ったようだと気付いたのである。再びやり直す機会を与えられたとしても同じことの繰り返しだろう。ならばあとはどうにでもなればいいさ。張り合いのない退屈な道のりを歩むのは一回で充分だ。
 と、しばらく歩むうちに視界の端で何かが光った。遠くの木立の隙間から陽光が照り返している。慌てて方向転換し、光の方へ進んだ。行く手を阻む鬱陶しい小枝を打ち払い、どうにか藪を突破したその先に水面が見えた。
「――そりゃあそうだよなあ」
 悔し紛れの捨て台詞。心のどこかで「山中の湖水」というロマンティックなイメージに惹かれていた自分を恥じた。そんな童話めいた景色などそうそうあるものではないのだ。
 汗だらけになり、腕や頬にひっかき疵をつくってまで捜し求めた目的の池は、実に素っ気ない溜め池だった。一瞥した限り、カエルも小魚もいない。四周をコンクリートで固められた大きなプールに過ぎなかった。右岸にバルブハンドルのついた水門が見えた。農業用貯水池とはこういうものだ。
 白々しい思いをごまかしつつ池の周辺を散歩する。東側の岸に小さな祠があった。水神さまを祀っている。ということは、かつてここは天然の池沼だったのだろう。だが今となっては単なるコンクリートの水瓶だ。
 そのうち現実的な疑問が頭を占める。こんな場所までどうやって建設資材を運んだのだろうか、と。
 それも池を半周したところで氷解した。対岸からは見えづらいが細い山道が通っていた。舗装こそされていないが、軽トラック一台くらいは通れる幅がある。つまり彼が辿った道のりは一番不便で最も労多いルートだったのだ。
 そうと解った途端にどっと疲労が襲ってきた。岸辺に腰を下ろしうなだれる。
 意気消沈し、ぼんやりと眺める水面は干天を映してあくまでも白い。鏡のように真っ平らな水面は酷薄に過ぎ、ほんの少しの乱れも許さないように見えた。
 だからだろうか、しばらくそれが視界に入っていたはずなのに彼はその影に気付かずにいた。そしてぼんやり視線を向けているうちに違和感を覚え、認識した瞬間、息が止まりそうになった。
「何だこれ?」
 魚だった。しかし尋常の物ではない。巨魚だ。青黒い灰色の魚。それが彼のすぐそばの岸辺で、物憂く水中に停止していたのだ。
 恐る恐る身を乗り出してその魚を観察する。鯉のように見えるがはっきりとはわからない。とにかく巨大な魚だ。胴回りはひと抱えほどで、特筆すべきはその体長だ。鼻の頭から尾の先まで優に大人の背丈を超える。二メートル近くあるのではないか。金色の目玉は目覚まし時計の文字盤ほどもある。
「――すげえな、おい」
 本当に魚なのだろうか。姿形は紛れもなく魚なのだが、しかしただの魚とも思えない。巨大だからというのではない。水族館で見たアロアナやピラルクもこれに劣らず大きな魚だったが、しかししょせんは魚という印象しかなかった。
 だがこいつは違う。あまりにも堂々としていた。その威厳に満ちた重々しいイメージは魚ではなく、竜と呼ぶのが相応しいものだ。
 木陰も岩場もないコンクリートの水槽の中に化け物じみた魚が棲んでいる。実に奇跡的な光景だった。どこから入ってきたのだろうか。遡上してくるにしても水路は幅狭で、しかも普段は水門が閉まっている。ということは小さいうちにこの池に辿り着き、しかるのちここで成長したと考えるのが道理だろう。
 だが何を獲物にしてここまで大きくなったのだろうか。この池にはカエルや小魚といった食用になる生き物は見当たらない。となれば誰かが餌をやっているのだ。そう考えるよりほかに納得できなかった。それにしてもここまで大きな魚を養うのは並大抵のことではない。一回の餌の量も膨大だろうし、もし稚魚から育てたのだとしたら、いったい何年かけてここまで大きくなったのだろうか。
 何にせよ非現実的な光景だった。彼は憑かれたように魚影を眺め、視線を外すことができなかった。
 すると突然、何の前触れもなく金色の目玉がぐるりと動いた。驚き怯んだ彼は思わず目を逸らす。そしてすぐに物怖じしている自分を恥じ、盗み見るように視線を戻したが、そのときはもう魚は余所を向いていた。つまらぬ者に行き会ってしまったとでも言いたげなその背中。分不相応な場所に迷い込んだ下種を見咎め、目を離しているあいだに早く立ち去れと言わんばかりの冷淡な態度。
 馬鹿にされている、そう彼は直感した。
 頬に血がのぼる。まだ自尊心が残っていたとは我ながら意外だった。喜怒哀楽の起伏を失い、緩やかに衰退していくかと思われていた彼の感情が、劣等感を刺激された瞬間、かっと燃えた。
 巨大な魚は悠々尾鰭を動かし岸から離れていく。彼の存在など歯牙にもかけていない様子だった。
「おもしれえじゃねえかおい」
 久しく絶えていた昂揚が喉を迫り上がってくる。
 いいだろう。そっちがその気ならこちらの出方も違ってくるぞ。お前が無視したこの俺の、ひとかけらの意地という奴を見せつけてやろうじゃないか。
 もはやこうしてはいられなかった。彼は力強く立ち上がると、来た道とは反対側の細い山道を駆け下りる。驚いた野鳥が一斉に飛び立ち、梢の蝉が唄を止めた。
 つむじ風のような昂奮が彼をもみくちゃにし、知らぬ間に口から笑いが漏れていた。それはやがてゲラゲラとした哄笑に変わる。そうだ、これだよ。これを待っていたんだ。
 奇跡のように美しいあの魚。惚れ惚れするほど立派な生き物だ。そんなにも偉大な生き物と戦い、勝利し、惨殺する――。
 もしそれがかなうなら、ウサギのくそみたいなつまらない日々とも決別できるに違いない。

 

(2/2)へ続く

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