竜を狩る者
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翌朝、彼は竜退治に赴く騎士の気分で家を出た。なるほど騎士とは言い難いかもしれない。跨るのは葦毛の駿馬ではなく50ccの原付だし、荷台にくくりつけているのは聖ゲオルギウスの長槍にはほど遠い、海釣り用のカーボン竿だ。その他にも騎士に相応しからぬ道具をリュックサックに詰め込んでいるが、それは全て戦いのために必要な物、簡単にいえば釣りの道具だ。
彼は原付を駆って農道を走り、山裾をぐるりと迂回した。山の反対側から行けば、昨日のように難渋せずとも行けるとわかったからだ。
戦いの予感に打ち震える彼だが、一抹の不安もあった。昨日の出来事は夢か幻だったのではないか。何しろ彼は自分の精神が健全でないことを知っている。山中の溜め池に竜のような巨魚がいるという状況よりも、自分の頭がとうとう狂ったと考える方がまだしも現実味があるように思われたからだ。
だがようやく辿り着いた貯水池の水底に、不気味で威厳に満ち溢れた影を見た瞬間、彼の不安は一掃された。陽が落ちるまではずいぶんある。思う存分やってやろうじゃないか。
彼はリュックサックの中身を地面にぶちまけた。釣りをするのは何年振りだろうか。いや、釣りではない、狩りだ。
もたもたした手つきで釣り竿にリールを固定し、釣具屋に置いてあった最も太く丈夫な糸を通す。餌は合成樹脂で出来たカエルの疑似餌。もちろん針も普通のものでは役に立たない。カーテンフックほどもある大きな鉤針を糸にくくりつけ、カエルにぶっすり突き通した。
あれだけの大魚だ。針に懸かったとしてもそこから先が大変だろう。逆に彼が水に引きずり込まれるかもしれない。だから万一の際にはすぐに糸を切れるよう、ポケットに小刀を忍ばせる。
そして最後の仕上げに手斧の柄をジーパンの尻に差し込んだ。改築前、彼の実家には薪で焚き付ける五右衛門風呂を設えてあった。この手斧はその頃、薪を割るために使っていたものだ。何しろあの大きさではリールを巻いて釣り上げるのは不可能だ。竿は折れるし糸も切れる。第一そんな腕力はない。だからしばらく泳がせ、疲れさせたあと、ゆっくり岸辺に引き寄せる。そしてこいつで一撃を加え、息の根を止めてやるつもりだった。
さあいよいよ戦いの時だ。総身がぶるぶると震える。マス目を塗り潰すだけの毎日に訪れた一世一代の大勝負だ。あいつを引き寄せ、青光りする頭蓋骨を叩き割ってやる。その手応えは必ずや、自分を呪縛する虚無感をも打ち破ってくれるに違いない。
彼は姿を見られないよう、岸を離れた場所から糸を放った。糸を繰り出すリールがしゃらしゃらと鳴る。小さい錘を用いているので着水したときの音も小さい。さあ、食らいつくがいい、この野郎。
だが待てど暮らせど竜魚は餌に食いつかない。何をしているのかと窺い見れば、何と疑似餌を目の前にし、自分もまた作り物のようにじんわりそこに佇んでいるのだ。
他に食い物はないのだ。格好の獲物じゃないか。何で食わないのだ。彼は少し糸を引いてカエルが生きているように見せかけたが、竜魚はその後を追うものの、やはり目の前で静止する。
更に引く。更に追う。そんなことを続けているうちにとうとう岸辺までやってきていた。そしてまた金色の目玉が彼を見る。
血の気が引いた。竜魚の口元が笑ったのだ。紛い物の供物で何をするつもりなのか、と嘲っているのだ。
だが竜魚の嘲弄は彼を激高させはしなかった。むしろ彼は自分を恥じた。竜魚は長い年月を生き抜いてきたのだ。そういう手合いを前にして、彼は子供だましの道具を用い、自分は何の危険も冒さず、それで勝負などと勇ましい言葉を吐いている。いい面の皮だ。
「なるほどね」
彼はリールを巻いて疑似餌を引き揚げる。竜魚は追いもせず留まっている。
彼は釣り針から疑似餌を外すと、何か本物の餌になるものはないかと辺りを探し回った。だが都合良くカエルや野ネズミが見つかるはずもなく、ときおり空をよぎる野鳥の影を恨めしそうに眺めるばかりだった。
おもむろに彼はポケットから小刀を取り出した。鞘を払うと錆の浮き出た刃が光る。それを左耳の付け根に押し当てると、ノコギリを使うように何度か引いて、左の耳を全部切り取った。手に取ってみるとそれは自分の体の一部とは思えず、ハマグリの身のようにしか見えなかった。その断面から針を差し込み、耳の外周に沿わせるようにして針を通した。
再び糸を放る。波紋の生じた水面に向かって竜魚が動きだした。
波紋の真下で魚影が留まる。ちょこちょことつついている感触が竿に伝わる。血の臭いを嗅いで食欲がそそられている様子だ。これなら文句はあるまい、本物の肉だ。
だがそこから何も動きがない。食いついたなら激しく暴れるだろうし、興味を失ったのならその場を離れるだろう。怪訝な思いでリールに手を掛けた。ハンドルを回す。からからと音を発てるリール。糸が水面から上がるさまを目にして何かがおかしいと感じた。
信じられないことだった。糸が張りきったところからハンドルはぴくりとも動かないのだ。つまり、竜魚は針に食いついて、それでいて暴れもせずにじっとそこに静止しているのだ。
無理は承知で竿を引いてみる。竜魚の重みは想像以上でカーボン製の釣り竿が大きく撓む。だが糸は一センチたりとも引き寄せられないのだ。普段こういう場合なら、逆に糸をどんどん繰り出して魚が泳ぎ疲れるのを待つものだが、肝心の魚が動かないのだからどうしようもない。
今更ながらにとんでもない相手に挑んでいるのだと実感する。こいつは人間よりも頭が良いのだ。年老いた竜なのだ。片耳をくれてやったくらいでは満足しない化け物なのだ。
「上等だよ」
彼はリールから糸を繰り出しつつ、自ら後ずさりをして岸辺を離れる。そのまま後に進み、ようやく木立に辿り着くと、竿を持ったまま、その辺りで一番太い樹の幹を一回りし、注連縄のごとく幹を釣り糸で縛り上げた。
巨木と巨魚を繋ぐ糸はあまりにも頼りない。切れてくれるなよ、と彼は誰にともなく祈ると、やおら服を脱ぎ始める。左の肩が真っ赤に染まったシャツを脱ぎ捨て、尻に差し込んだ手斧を抜く。そのままジーパンも脱ぎ、もちろん靴も脱いだ。
下着一枚の姿になると、彼は手斧を執って岸辺に戻る。八月の水は意外に冷たかった。最後に泳いだのは何年前か。まだ身体が覚えてくれているだろうか。
すい、と身を進めると、案外苦もなく身体が浮いた。大丈夫、これならいける。彼は左脇に手斧を抱え、右腕で水を掻く。よたよたした泳ぎだが、びりびりと緊張した釣り糸が彼を導いてくれた。
至近距離まで近付いたら右手で手斧を取り直し、砲弾のような頭蓋骨に鋼の刃を打ち込んでやる。水中だから踏ん張りは利かないだろうが、そのときはそのときだ。あのでっかいえらにこいつを差し込んで呼吸器官をぶっ壊してやる。
魚影は目の前だった。この近さで見ると、やはりこいつは竜なのだと確信する。溜め息が漏れた。堂々たるものだった。上手い形容詞を探しあぐね、ようやく“神さびた”という言葉を思い出す。本来なら人間が手出しをしてはいけない存在なのだ。それを俺はいま追い詰めている。何と畏れ多いことか。
その神のごとき金の目玉が、心なしか血走っているように見えた。それを恐怖と解釈し、彼は圧倒的な快感に酔いしれる。
――畏くも偉大な水の王。あなたに敬意を表し、しかるのちにおまえを屠ろうか。
芝居がかった台詞を唇にのぼらせ、彼は手斧を大きく振り上げる。
金色の目玉がぐるりと回る。開かれた顎に白い牙が並んでいるのが見えた。
そのとき一秒はあまりに長く、永遠は寸毫のうちにあった。
そして彼は理解した。竜が何を喰らって生きてきたのかを。八月の昼下がり、惣田池はいつもと変わらぬ落ち着きを取り戻していた。コンクリートの白々しい岸辺。塗装の剥げた水門。水神さまの祠には緑青が浮き、花挿しの水も涸れている。池を騒がす生命はカエル一匹、小魚一尾たりともいない。唯一、水面に裸形の男が浮いてはいるが、彼は身じろぎもせず声を発することもしない。
山中の貯水池は今日も静かだ。
了