槐翁鬼譚
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 段文祥は襄州の人である。幼少の頃から非常に聡明で物覚えよく、十になるやならずやで詩経を諳んじるようになっていた。周囲の者は彼を評して、神童だと褒めそやしたものである。
 学才に恵まれた男子が目指す立身出世の道程といえば、何はおいても科挙に合格し、進士となり、皇帝直属の高級官僚となることであった。学生となった彼も例に洩れず、三年に一度おこなわれる科挙の試験を目指して日夜勉学に明け暮れていた。
 だが科挙に合格するのは至難の業である。中華全土、身分家柄の区別なく、己が才を恃む男子たちがその狭き門に殺到するわけであるから、いくら地元で将来を嘱望された秀才といえど、なまなかな事では最終試験の殿試にまで漕ぎ着けるものではない。何しろ科挙合格者である進士といえば秀才中の秀才、郷から一人合格者が出れば、三代先まで郷土の誉れとされるほどなのだ。文祥といえどやすやすとその栄誉にあずかれるものではない。
 だが冠を戴いてわずか一年、十六の時に初めて臨んだ試験では、いきなり地元の選抜試験である郷試に合格して人々を瞠目させた。選抜試験とはいえ、郷試は過酷な競争を強いられる難関。百人のうち合格できるのはせいぜい一人というのが実状である。郷試を突破できずに、二十年三十年と時を費やす老学生も珍しくはない。そこにまだ髭も生え揃わない若者が名を連ねたとあらば、周囲の期待も否が応にも高まるというものである。
 小役人である父は息子の将来に己が果たせなかった希望を乗せ掛け、親類縁者は一族から偉人が輩出されることを期待した。彼に学問の手ほどきをした学堂の主は出藍の誉れを望むだけでなく、しばしば文祥を招いて食事を振る舞い、一人娘にその給仕をさせるようになった。文祥自身もまた、初回は志半ばにして頓挫したが、次回こそは一気に栄光のきざはしを駆け上ってみせると意気軒昂であった。
 だが「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」との俚諺が的を射たものかどうか、文祥のそれからは決して順風満帆とはいかなかった。選抜試験の郷試に受かった者は、終生において一次試験を免除されるものの、文祥は二次試験の会試で不合格となった。続いて挑んだ三度目でも最終試験に辿り着けず、そして四度目の試験にも落ちた今、二十八にもなって、彼はいまだ無位無冠のままである。

  月の明るい夜だった。城下の外れ、川沿いの道をほろ酔い加減の段文祥は独り歩いていた。勉学に専念するため街に出て以来、生活は実家の仕送りでやりくりをしている身の上である。普段なら酒を口にする余裕などない。だが今夜は違った。県令の主催する宴に招かれたのである。
 今の県令は尚学の志篤い人物で、半年に一度、領内の今はまだ無名の学生を招いて酒宴を開き、未来の高級官僚を励まし、見所のある者には今のうちから息をかけておくという抜け目のない人物でもある。段文祥が宴に招かれたのも今回が初めてではない。県令がこの地に赴任してからの常連だった。
「――痩せ我慢だ」
 苦々しい口調で、文祥は独り呟く。今夜同席した老学生の言葉が耳にこびりついて離れない。郭という五十男で、過去十数度も科挙に挑んだが、いまだ功ならず、もはや周囲の誰も望みを捨てているというていたらくである。そもそも前途有望な学生を招くという宴の趣旨からは大きく外れているのだが、向学心篤く、堅忍不抜の老学生を称えることは、県令の度量の広さと理解の深さを示す格好の材料でもある。
 その郭が酔いの回った口調で言ったのである。
「私は幸せ者だ。私と同年輩の者は皆、人生を費やして、あとは子や孫の行く末に望みを託すばかりである。だが私は四十年前に学問を志した頃のまま、今もなお学び続けて倦むことがない。私の半生は学問と共にあり、充実の毎日を送っているのだから、今の不遇をむしろ天に感謝したいくらいである」
 甚だしい痩せ我慢だと思う。生涯を学問に費やすとは聞こえが良いが、実状は一生を半人前のまま過ごしているだけのことではないか。
 その場に同席していた若者たちは皆、ああはなりたくないものだ、と小声で耳打ちし、薄笑いを浮かべていた。若さとは往々にして傲慢さをともなう。若者はいまだ何も成し遂げたことがない故に、自身の無力さを思い知ることもなく、自分が成功するのは半ば当然の事柄だと自惚れる。
 だが文祥はこの老学生を侮蔑し、他人事と割り切れるほどの無神経さを持ち合わせてはいなかった。何よりも、彼はもう決して若いとはいえない年齢になっていた。
 段文祥、当年とって二十八歳、何かを諦めるにはまだまだ早い。だがもう二十八だ。新しく何かを始めるにはいささか齢をとりすぎている。世俗に目を転じてみれば、二十八の男といえば一家を構え、子供を養い、それぞれの生業に精を出しているのである。だが翻って我が身を見れば、決して裕福とはいえない実家からの送金を心待ちにしている穀潰しにほかならない。
 落胆と失望を積み重ねた十数年は、かつての神童才子から自矜の念を奪い去るに充分な年月である。惨めな思いを押し殺し、いつかきっと、と己が栄達を思い描くも、心の透き間に寒風が差し込んでくるのはいかんともし難い。
「もう――終わりにしようか」
 誰に言うでもなく、文祥は自身に言い聞かせていた。
 来春、また試験がおこなわれる。これで駄目だったら郷里へ帰ろうか。幸い、郷試に受かった者は挙人と呼ばれ、一定の身分を保障される。挙人の肩書きがあれば役所仕事にもありつけるし、地方官吏の道もある。むしろ平素はそういう職に従事しつつも、三年に一度の試験を待ち望んでいる者の方が多いくらいだ。
「まだ――終わったわけではない」
 先ほどとは矛盾した言葉が口から洩れる。勤めながら試験を目指すという手立てもあるし、それにまだ今度の試験があるではないか。まだ終わりではない。
 春も終わりの候である。大気は温み、満月にもおぼろがかかっている。ぼんやりと夜空を見上げる文祥の目に、月がわずかに滲んで見えた。
 やはり月は冬に限る。冴え冴えとした空気の中にあってこそ、満月はその輪郭をくっきりと夜空に切り取り、漆黒の背景に異常な白さを際立たせる。だが春の月はだらしない。どこか淫蕩ですらある。その柔和さを愛する者も少なくないが、文祥は厳寒の月の、余人に交わろうとせぬ、ひりひりした佇まいの方が心に適うのである。
「 晩春の月、城下の水面に姿を映ず。
流れ、月を濯ぎて眩暈を拭う。
すくえどもすくえども、月は掌に収まらず、
波しずまれば依然として、元の姿を水面に留む――  」
 我知らず言葉がこぼれ出ていた。意匠を巧まず、誰かの賛辞をも期待せず、呟いていたという意識すらなく、彼の口から想いが転がり落ちていた。
 と、文祥の耳元に生温い風が吹き付けられる。
 ぎょっとして顔を向けると、いつからいたものか、白髪の老人がすぐそばにおり、声も出さずに笑っていた。
「――青年よ、今の言葉が詞だ」
 エンジュの樹を背に、時代がかった装束の老人が一人。
「今のが、詞だ――」
 奇怪な老人はまた言った。
 気違いか。文祥は一歩後退った。
 こんな夜更けに出歩く者などそうはいない。だが物盗りという風体ではないし、仮にそうであったとしても、枯れ木のような老いぼれ一人、恐れるようなものではない。しかし古めかしい儒者ふうの格好をし、奇妙に小首を傾げたまま薄笑いを浮かべている老人はどうにもまともな様子ではなく、やはり最初の直感通り、気のふれた人間のようにしか見えなかった。
「――失礼します」
 視線を逸らし、脇を擦り抜けようとする文祥。何者かは知らないが、あまり関わり合いにならない方が良さそうだ。
 だが、
「待たれよ、青年。まだ卿は若い。なんぞ諦めることがあろうか」
 ぎくりとして立ち止まる。
「わしの見るところ、卿は優れた学才の持ち主のようだ。あたら才を持ちながら、功を焦って栄を逸するのかね」
 氷塊を飲んだような心持ちになった。
「――ご老人は八卦見ですかな」
 なるほど占い師ならば大仰な姿格好も納得である。夜更け、何か悩みのありそうな者の前に現れ、思わせぶりな台詞を投げ掛ければ、気の弱った者ならば語りに釣り込まれるのだろう。馬鹿にしやがって。
 憮然とした口調で文祥は続ける。
「あいにく私には手持ちがございません。せっかくのお心遣いですが、それに応えるすべを持たないのであしからず」
 言い捨てて足早に立ち去ろうとする文祥だが、なおも老人は相変わらず、おかしな具合に首を曲げたままで、
「卿はいま軽侮の色も露わに“八卦見”と申したな。四書五経の第一である周易、天地の理をつまびらかにする八卦の業を、卿はなにゆえ軽んじるのか」
 痛いところを突かれた。確かに知識人の必修古典である四書五経のうち、易経こそは最も崇高なものとされている。なぜならその他の書物は概して人の知識であるのに対し、易学こそは世界の形を表し、世界の仕組みを解明する宇宙の知識だからである。
 だが現実に易の実践者たる卜占の徒の社会的地位は低い。彼らは概して、当てにならない未来を適当に言いくるめる詐欺師のようなものだと目されているからである。
「実にごもっともです」
 反論の余地もなかった。占いは賎業とされてはいても、理屈でいえば易学は崇高な宇宙の英知なのである。知識人の端くれである自分がそれを失念するとは恥じ入るばかりである。
 だが気を悪くした様子もなく老人は言った。
「面を上げよ、青年。卿の態度もむべなるかな。筮を弄し、卜を生計とする者の多くは口舌の徒。所詮、人の身において天の理を掌中に収めるなど僭越に過ぎる」
 すい、と月に雲がかかる。遮られた月明かりの中、老人の囁き声が地を伝う。
「青年。卿は学生のようだが、やはり進士となることを望んでおるのか」
「もちろんでございます。およそ学問を志す男子たるもの、それを望まぬ者などありましょうや」
「一身の浮沈など一炊の夢である。さりとて卿は生者の身。富貴を望むのも致し方ないことか。ならば青年よ――」
 風に雲が払われて、老人の横顔を満月が照らす。何かがおかしいと感じる文祥だが、何が変なのか上手く説明が付かない。
「約定を結ばぬか。わしは卿が進士となり、功成り名を遂げる手助けをしよう。その代わり、卿の命をわしにくれ」
 突拍子もない申し出だった。
 やはり狂人だろうかと、文祥は探り探りに言葉を返す。
「私の命と申しますと、いまここで死ね、ということですか」
 それでは本末転倒である。生きてあればこその立身出世なのだ。死んでしまっては元も子もない。そんな分の悪い取引に応ずるはずがないというものだ。
「いやいや、そうではない。死ぬのはいつでも構わぬのだ。ただ――」
 背後のエンジュの樹を指差す老人。
「死ぬときには必ずこの樹で首を吊ってもらいたい」
「首吊りですか」
「左様。卿は知っておるか。自らの意志で首を吊った者は、その同じ樹で新たに縊死する者が出るまで、未来永劫この世に留め置かれるのだ。生きることあたわず、死ぬことも叶わぬ、中途半端な境において、生ならぬ生を送り、死ならぬ死に繋がれる永遠の虜囚と成り果てる――」
 もとはといえば自身の浅はかな振る舞いの報いである、誰をも恨むつもりはないのだが、と老人は独り言のように呟くと、最後に吐き捨てるように言った。
「もうかれこれ二百年、充分に罰は受けたはずだ」
「二百年ですと」
「左様、二百年前にも卿らと同じく学問を志し、立志の夢破れ、絶望の淵に沈む者は大勢おったのだ」
 それはそうだろう。科挙制度は隋代に始まり、その歴史は数百年にわたるのだ。二百年前にも彼と同じく、学才によって身を立てることを望み、願い叶わず失意のうちに一生を送った者もいたに違いない。
 と、不意に文祥は、先ほどから覚えている違和感の原因に気が付いた。
 この老人には影がない。およそこの世に存在する万物全てには、必ず足許に黒い影が付随する。だがこの奇怪な老人にはその影がないのである。
 幽鬼か――。
 意外なほどに恐れはなかった。むしろ彼は、どこか呆れたような気分で老人をまじまじと見つめている。
 信じ難いことではあるが、どうやらこの老人は二百年前、失望の果てに自ら命を絶った老学生の亡霊ということなのだろう。君子たるもの怪力乱心を語らずとはいうが、段文祥も世塵にまみれる身の上、死者が生者に禍福をもたらすという話は伝え聞いたことがある。とはいえまさか自分の目の前に幽鬼が現れ、あろう事か取引を持ちかけてくるなどとは夢にも思っていなかった。
「つまりあれですか――」
 おずおずと言葉を探る。
「貴方の身代わりとして私がこの樹で首を吊るなら、私の出世の手助けをしてくれる、とおっしゃるわけですか」
 さすがに話の呑み込みが早い、呵々と笑う幽鬼。笑うたびに首が不安定に揺れる。
 すっかり酔いの醒めた頭で段文祥は考える。
 この取引は損か得か。いや、それ以前に亡者の言をそのまま鵜呑みにしても良いものだろうか。何しろ相手は幽鬼なのだ。悪辣な奸計を仕掛けて、彼を人身御供にする気ではないのだろうか。
 だが一方で、もしこれが本当なら、なかなか魅力的な申し出だというのも事実である。老人は、彼が首を吊るのはいつでもよいと言った。充分に人生を謳歌し、燃え尽き、枯れしなびた最後の残りかすのような命であっても、それで取引が成立するというのであれば、無碍にできない魅力がある。
「一晩考えさせてください」
 文祥の返事を予期していたかのように、老人は極めて軽い調子で構わぬよ、と言った。
「だが青年よ、生者の時は短い。成すべきことがあるならば、疾く疾く早う成すがよい。さりとて余生はひどく長い。まこと時の長さとは日月の移り変わりでは計れぬものよ」
 当て擦りめいた言葉にむっとした文祥だが、しかし老人は相変わらず小首を傾げて笑い、笑うたびに、頸骨の折れた首が左右に振れるのだった。

 明くる日の夜、再び城下の外れを訪れた段文祥を、声もなく笑いながら幽鬼が迎え出る。やはり夢ではなかったのだ。
「心は決まったか」
 頷く文祥。もうこれ以上道草を食ってはいられない。科挙に合格することはあくまでも現時点での目標であって、彼の目指す最終地点ではない。だが目の前の目標を超えねば、彼のこれからは何もないのである。
 思えば巧妙なたくらみだった。仮に幽鬼の申し出を断り、自力で受験して不合格となれば、彼は一生悔やみ続けることになるだろう。なぜあのとき契約を結ばなかったのか、契約していれば合格できたのではないか、そんな思いにさいなまれ、市井の暮らしに馴染むことなど到底不可能であろう。ましてやその後も試験に挑み続けるならば後悔の念は更に増す。あのとき頷きさえすればこんな苦労をせずともよかったのに、と自身の選択を恨めしく思うに違いない。
 たったひとつ、彼が独力で受験し、合格してしまえば何も問題はないのだが、もはや彼は往事の自信を喪失しつつあり、一刻も早く目に見える形の成果を手に入れたいと焦っているのである。幽鬼の甘い申し出を拒絶するのは非常に困難だった。
 だが、
「ひとつ確認させていただきたい」
 そう、これは契約なのだ。曖昧に承諾し、馬鹿を見るようなことは避けねばならない。
「貴方と取引をして、それで確実に合格できる保証はあるのですか」
「ない」
 意外な答えに驚く文祥を制し、幽鬼は続けた。
「天神地祇にあらざる、人の亡魂であるこのわしが未来を伺い知ることなどできるはずなかろう。だが青年よ。わしも人の身であったものなれば、人の理に基づいて約定を結ばねばなるまい。不合格になればもはやそれまでだ。契約は無効ということになる」
 つまりこの取引は、文祥の合格をもって初めて締結されるのだと幽鬼は念を押す。
「そして二十年後、三十年後に卿がこの枝で首を吊ってようやく、この契約は完了されるのだ。ただし、もし卿が信義にもとる振る舞いをすれば、わしは永遠の生命を費やして、卿とその一族に禍をなす所存だ」
 言い換えるなら、約束通り首を吊らねば祟るということである。
 しかし段文祥はすでに腹を括っていた。科挙に合格し、進士となる――。幼い頃に思い描き、現在に至るまで、それ以外の未来など考えもしなかった。彼にとって進士となることは、それまでの人生全てといっても差し支えなかった。
「何とぞわたくしめにお力添えを給わりますよう、宜しくお願い申し上げます」
 今更他の道など選べるものか。俺は都に出て官吏となり、知事となって各地を赴任し、ゆくゆくは博士や大臣となるのだ。それにはまず、科挙合格者たる進士の肩書きが必要になる。よもや筆を鍬に持ち替えて、朝な夕な野良仕事に出ろというのか。冗談ではない。陋巷に混じって銭を数え、畦畝に埋もれて土くれをいじるのなどまっぴら御免だ。
 彼の返事を聞いて幽鬼は満面の笑みを浮かべたが、しかし一言念を押すのを忘れなかった。
「だが青年よ。わしが力添えをするとはいえど、確実に合格する保証はどこにもないのだ。故に試験までの間、ゆめゆめ油断することなく、卿は修学に励まねばならぬ。そして、これが最も肝要なことだが、身を養い、万全の体調でもって試験に臨まねばならぬ。よいな?」
 だが幼少のみぎりより勉学に明け暮れる毎日で、それ以外の過ごし方を知らない段文祥である。いわれるまでもなく、彼はそれまで以上に学問に励み、来春おこなわれる試験に臨むことをかたく幽鬼に誓ったのであった。

(2/4)へ続く
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