槐翁鬼譚
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実質的な本試験といえる会試に向けて、段文祥は日々勉学に励み、それ以上に身の養生に努めた。
なぜだか解らないが、幽鬼はやたらと彼の身体具合を心配するのである。やれ、旬のもの以外は口にするなだの、肉を食うときは必ず酒を飲めだの、どんなに寝苦しくとも必ず一枚は寝具を掛けろだの、季候の良い日には運動をせよだのと、口やかましく体調管理の要を訴える。
学生にとって試験とは戦である。闘いに臨むにあたって最善の準備をするのは当然だが、あまりにも神経質な幽鬼の態度は理解に苦しむものであった。だが会試を受けるため都に赴く前夜、その理由が判った。
明日にはいよいよ出立という夜、段文祥は言われたとおりに街外れの川縁に来て、エンジュの樹の下に立った。
幽鬼は二言三言、激励の言葉をかけたあと、彼に背を向けるように指示した。
「こうですか」
言われるままに反転した文祥の背に、ぞっと悪寒が這い上る。途端に首がきしみ、肩が重くなる。両膝ががくがくと震え、尻の穴から気力が抜けるような心地がした。
「何をなさったのですか」
「卿に――取り憑いた」
しまった、謀られたか。一瞬疑念が脳裏をよぎる。むざむざと亡者の口車に乗り、隙を見せた己の浅はかさにほぞを噛む思いだったが、しかし幽鬼は否定する。
「わしはこの樹に縛られておる故に、こうでもせねばここから動けぬ。なに、心配には及ばぬ。試験が済めば再びこの場所に戻る」
「まことにございましょうな」
「卿を謀るも益のないこと。仮にこのまま取り憑いておれば、やがて卿は衰弱し、死に至ろうが、さすればわしはまたこの樹に引き戻される。それでは意味がないのだ。わしが求めるのは、わしの代わりにこの樹に繋がれる身代わりなのだ」
幽鬼の説明によれば、文祥に取り憑いたまま試験会場に赴き、二人掛かりで知恵を絞って試験にあたるというのである。仮に二人共に解けぬ設問があったとしても、人の目に見えぬ亡者であれば、他の受験生の答案を盗み見るのなど造作もない。
「しかしご老人。もし会場内に能く鬼を視る者がいて、私が不正を働いていると知れるおそれはないのですか」
すると幽鬼はひどく皮肉な笑いを頬に刻んで言った。
「では問うが、わしに出会うまで、卿は幽鬼亡霊の類を信じておったかね。話には聞けども、よもやそのようなことがあるものかと、鼻で嗤っておったのではないか」
試験官も受験生も、自らをもって知識人を任ずる者ばかりである。幽霊がそこにいるなどという言に誰が耳を貸すものか。むしろ真顔で言う者は正気を疑われ、勉強のしすぎで神経がおかしくなっていると心証を損なうのが落ちであろう。
「古来より、なにゆえ“君子、怪力乱心を語らず”といわれておるか。余人の目に認められぬものの存在を声高に主張しても詮無いからであろう。詮議の沙汰が及ばぬものに弁を尽くし、知を傾けるのは無駄なことだと知れておるから、君子たるものあえて語らぬし触れようとせぬのだよ」
幽鬼の説明はもっともである。なるほどたしかにその通りだと納得し、段文祥は老人を伴ったまま、試験を受けるべく都へ上ることにした。
幸いなことに、彼が幽鬼を連れていることに気付く者はいなかった。せいぜい犬に吠えかけられたり、小鳥や鴉に騒がれたりするくらいのものである。勘の良い者は一瞬、妙な表情を浮かべるが、彼が鬼持ちだと気付いて、むやみに騒ぎ立てるようなことはなかった。
だが幽鬼に憑かれてからというもの、文祥はひどい肩こりや悪寒に悩まされるようになった。頭は朦朧とし、足許は雲でも踏んでいるかのようにふわふわと頼りない。やけに疲れやすくなり、しかもなかなか疲れが癒えない。幽鬼に精力を吸い取られているからである。何とかならぬかと頼んでも、こればかりはどうしようもないと幽鬼は難しい顔をする。
「万物は全て陰と陽の組み合わせ、片方だけで成り立つものはないといわれておる。片方だけの存在は異常、許されるはずのない状態なのだ。生命もまた然り。魂と肉体、二つ揃ってはじめて生命といえる。魂を失った生命はつまり骸であり、程なくして朽ち果て、消え失せてしまう。肉体を失った生命はつまり“死”という事象そのものである」
だがここに、天地の大原則からこぼれ落ちた存在がひとつ。肉体を伴わない生命。本来消えてしまうはずの生命が、今もなお道理を超えてここにいる。あり得ないはずの存在がこの世にあり続けるには、どこかで無理を生じせしめる。エンジュの樹を離れたのち、老人の亡霊は生身の文祥に寄生せざるを得ない。つまり文祥の肉体は二人分の精力を費やしているのである。
「なにゆえご老人は、摂理を外れてしまったのでしょうか」
都まであと一日という旅程。宿で荷を解いたあと、文祥は訊いた。
常々疑問だった。世に自ら命を絶つ者は大勢いる。なのに幽鬼となる者は少ない。死ねば消えるという生命の原則に反して、なぜこの老人はこの世に繋ぎ留められる仕儀となったのだろうか。
未練――であろうな。老人は言った。
「たしかにわしは自ら縊れ、命を絶った。だが世に倦み、生を厭うて死んだわけではない」
わしにはやり残したことが数多あった、と幽鬼は自嘲に顔を歪める。
「名誉、栄達、富貴、悦楽――。死ぬ間際までそれらに憧れ、しかしそのいずれももはや手に入らぬと思えばこそ、絶望したのである。決して世を見限って死んだのではない。世に心を残しつつ、自らの生に耐えきれず死を選んだのだ」
未練。老人はその言葉を何度も繰り返し言った。
「この世に強い未練があるかどうか、それが幽鬼となるかならざるかの分かれ道ではなかろうか。あるいは仇に報いんとする恨みの念。あるいは報われざるままにあった叶わぬ望み。あるいはあとに遺す者への強い思慕。それらが死者の後ろ髪を引き、魂を死から引き剥がす」
故に妄執の晴れたあかつきには幽鬼は消え、怪異も収束する――。女子供が好む怪談奇譚にはその手の話がごまんとあるが、存外馬鹿にできないものだ。
「さすればご老人、何も身代わりを求めずとも良いではありませぬか。貴方の未練、妄念が晴れたなら、エンジュに繋がれた御身もきっと解き放たれるでしょうに」
「理屈ではそうであろうな。だがいかにして」
老人は逆に問う。
「いかにすればわしの妄執は晴れるのか。わしの望みは卿らと同じく、科挙に合格し、進士となり、財を築き、名を顕し、栄を極め、晩節を汚さず、あっぱれな君子として生涯を全うすることにあったのだ。だが老いた身には望むべくもなく、ましてや死んだのちには到底叶わぬ願いであろうが」
もはや如何ともし難いのだ、と苦々しげに言った。
「全てが手遅れだ。救いようのない淵に沈んだようなものだ。今はもう、この生ならぬ生の頸木から逃れることを願うばかりの身の上だ。たとい身代わりを得たところでわしの妄念は晴れぬかもしれず、依然としてこの世を彷徨う寄る辺なき身のままかもしれぬ。だが溺れる者は藁をもすがるという。身代わりがあれば無事に死ねるという、世の迷信俗説を試してみる気になったのだ」
言い募る老人の目つきに血の気が引く。いつの間にかこの奇妙な付き合いに馴染んでしまっていたが、忘れてはならない事実が目の前にあった。
「わしは幽鬼である。生者にあだなす亡霊である。卿の命を求める死神である――」
汝、ゆめゆめ忘るる事なかれ。
指差す老人の瞳は小暗く、底が見えない。死人の目とはこういうものか、段文祥はぞっとする。瞳はあれども光はなく、瞳孔の奥を覗き込めば、そこには黒い穴があるばかり。
そうだ、俺は死人と契約を結んだのだ。
今更ながらに思い出し、少しながらに後悔する。とはいえ今になって契約を反故にすれば、どんな禍を受けるか知れたものではない。
引き返すなど愚かなことだ。迷いを振り切る段文祥。
この期に及んで祟りを恐れるのは見当違いというものだ。そもそも彼は物心ついてから“野心”という名の呪いにかかっているのである。退くも留まるも凶と出るなら、あとはもう、前に進むより他に選択肢はない。
*
三年に一度催される科挙。郷試と呼ばれる地方試験を通過した秀才たちが中華全土、全国津々浦々から都に集う。その数、優に万を超える。それもそのはず。本試験である会試に臨むのは、その年の郷試を通過した者のみならず、二次突破ならずして留めおかれた過去の郷試合格者「挙人」ら、いわば浪人学生たちもまた、ここを先途と受験しに来るのである。試験会場である貢院に寄り集った受験生は雲霞の如くで、彼らだけでひとつの村邑を形成し、軍団を構成するに足る人数である。
丸一日を要する受付作業、及び身元確認と身体検査。受験の資格ありと認められた者は次から次へと独房へ割り振られ、試験期間の七日間をここで過ごすことになる。課題は三つ。先の二つは、知識人を自認する者なら当然修めておかなければならない四書五経からの出題で、いわば教養問題。最後のひとつが古今の政治施策を俎上にする論説問題。課題を与えられた者は独房で寝起きし、課題に挑む。無論、不正防止のため、答案用紙を提出するまで、決して外部に出ることは許されない。
段文祥が会試を受けるため、初めて都に上ったのは弱冠十六の年。その余りの人数と、試験会場独特の重圧感に押し潰されそうになったものだ。郷試合格者たる挙人といえば、地元では一目置かれる知識人である。そんな「挙人どの」もここではただの受験生に過ぎず、まるで罪人のように独房に拘留され、薄暗く狭苦しい空間で七昼夜を過ごさねばならない。課題を受け取ってから提出するまでの間、食べるものといえば事前に持ち込んだ携帯食だけ。寝具とて薄っぺらい粗末な毛布一枚である。将来の高級官僚、未来の大臣博士といえど、合格するまでは部屋住みの半人前であるという事実が、神童才子ともてはやされた少年を打ちのめした。
しかしあれから十年余が過ぎた。此度で五度目の試験である。今更物怖じするものではない。
一つ目の課題、二つ目の課題。文祥は共に難なく答案を作成し、早々に提出した。さすがに会試に臨む挙人は皆、それぞれに教養のある人物であるから、それなりの解答を仕上げてくる。そこで較べられるのは「より良い正答」か「まずい正答」か。合否の差はごく些細なことによるかもしれず、たった一文字の使用に悩んで答案そのものを台無しにしてしまう者すらいる。
その点において文祥は幸運だった。彼には相談する相手がいるのだ。幽鬼は彼の答案を見て、折れた頸を縦に振った。一人ならどちらを採るべきか迷うこともあるが、他者の眼鏡に適うものであったなら、それは決してまずくはない答えだと自信が持てる。
二つの教養問題は全て文祥が解答した。幽鬼はただ目を通して、頷いただけだ。残るは三つ目の論説問題のみである。
試験に好運不運があるとすれば、それが最も顕著に出るのが論文形式の試験だろう。というのも採点する審査員の好みや思想に大きく左右されるからである。そういう不確実な要素があることは実施者の方も承知しており、科挙試験では何人かの目に晒して点数をつけることにしているが、しかし審査員個人の好みが全く影響しないわけではない。
この場において独創的な意見、画期的な論説はむしろ危険だ。絶賛されるか、忌避されるか。一か八かの博打に出るつもりは毛頭ない。何人もの審査を受けるのであればなおさらである。無難に、しかし所々で気を利かせた表現を用いて心証を稼ぐ。そして論旨自体は通説につかず離れずにまとめ上げねばならない。
答案提出の期限が近付いても、まだ文祥は迷っていた。
論文自体は上手く書けたと思う。だがこれが採点者の意に沿うものであるかどうか確証はない。いくつか案はあるのだ。なぜこちらを採択したのか。
まだ刻限まで若干の間がある。書き直すなら今しかないが、書き直した方が良いという保証もなく――。
「青年」
出し抜けに幽鬼が言った。彼にしか聞こえぬその声で。
「青年、目を閉じよ」
「何を仰るのですか」
書き直すなら一刻の猶予もならないというのに。
「青年――」
厳しい声音で重ねて言いつつ、幽鬼はその冷たい掌を文祥の両肩に置いた。
「目を閉じよ」
気圧されて言うままになる。
「わしが良いと言うまで目を開けてはならぬ」
何事か。だが従わざるを得ない迫力があった。いや、もしかしたら秘策があるのかもしれない。何しろ相手は幽鬼である。どんな妖力魔術で俺を助けてくれるのか――。
どれほどの時が経ったのか。ほんの数分のような気もするし、半刻以上も経過したような気もする。何だか頭がぼんやりする。これはいったい何の術か。
「良いぞ」
言われてまぶたを開く。
「答案をもう一度読み直してみよ」
だが目の前にある答案は、先ほどと何の違いもない。彼が書いたものと一言一句、全く同じである。
「――何も、変わっておりませぬが」
戸惑う段文祥。
しかし幽鬼は力強く応えた。
「左様。実に立派なものである。迷うな」
その瞬間、迷妄が晴れた。
彼は堂々と胸を張って答案を提出した。
挙人、段文祥の五度目の試験はこうして終わり、五度目にしてようやく会試を突破したのである。