槐翁鬼譚
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深更に及ぶ宴もお開きとなり、段文祥はようやく美酒珍味から解放された。富豪の屋敷を辞し、馬上の人となってから、襟をくつろげ、帯を緩める。
「ご馳走責めというのもつらいものだ」
ふうと小さく溜息をつき、独りごちる段文祥。接待というのはもてなす方はもちろんだが、饗応を受ける方にしてもいろいろと気苦労する。杯を勧められれば機嫌良く応じ、新しい皿が並べば、腹が膨れていても箸を付けねばなるまい。くだらない冗談にも軽快に応え、初対面の相手には愛想良く微笑み、「話の分かる男」の印象を与える必要がある。
どうせ任期が過ぎれば余所へ去ってしまうお代官だ。その間、上手くやっていきましょうや、と目配せする土地の有力者たち。彼らに睨みを利かすのは拙策である。少しくらいだらしない方が、かえって彼らは安心するし、こちらの懐具合も宜しくなる。
段文祥はこのやり方で十数年、各地の城市を赴任し、さしたる失政もなく任期を勤めてきた。そして転任を重ねるたびに雪だるま式に蓄財を増やし、地方行政官の旨味を存分に堪能してきたのである。どこの土地にも思い入れはない。ただ訪れ、そして通り過ぎていった場所というだけのことだ。
だがこのたびは例外であった。今回彼が県令として派遣されたこの城市は、かつて苦学の時代を送った土地であり、この街から羽ばたいて段文祥は進士となり、官僚としての人生を歩み始めたのである。
仰ぎ見れば春の望月である。どの土地で見ても月の形は同じはずだが、ひときわ趣深く思われるのは、彼のまつげに感興が宿っているからだろう。
「これ、伍靖」
「お呼びですか、旦那さま」
つつ、と歩みを寄せる青年。書生としていろいろな用向きをやらせている陳伍靖である。妻の遠縁にあたる彼もまた学生で、科挙合格を目指す秀才であった。
「伍靖よ、おまえはあの月を見てどう思う」
好い月です、と答える若者。
「構わぬ。思ったままに申してみよ」
「はい、旦那さま。実は私、春の月は好きませぬ。満ち足りたふうに夜空に浮かぶ春の月は、あまりに安穏としていて怠惰に見えるものですから」
伍靖の返事に満足する段文祥。若い者はそうでなくてはならない。とりわけ野心を温めている者は、充足よりも孤高を愛すべきである。かつては俺もそうだった。そういう時代があったからこそ、今こうして、春の月を素直に美しいと思えるのだ。
俺は上手くやっている。段文祥は過ぎ去った十数年を振り返る。若人よ、科挙に合格すればそれで未来が拓けると思うのは大間違いだ。同期の進士三百人の中には、上司と反りが合わずに野に下った者、学才はあるが実務に疎く冷や飯を食っている者、商人たちの甘い手づるに乗り、酒色で身を持ち崩した者など何人もいる。
だが俺は上手くやっている。ある大物の官僚に目を掛けられ、あまつさえ愛娘を嫁にもらった。十五も年下の妻は無口だが従順で、役人の妻としては申し分ない。子供ができないのが長年の悩みだったが、それも先冬、結婚八年目にしてようやく懐妊し、経過は順調だ。
全てが上手くいっている。同期にはすでに中央官庁で要職についている者もいるが、彼に焦りはなかった。出世街道をあえて外れ、ドサ回りの地方行政官を続けているのも計算ずくだ。何しろ利権や賄賂などの実入りが違う。加えて足を引っ張る相手もいない。ならば誰の目も恐れず充分に富を増やし、そして満を持して中央官庁へ入り込む。何となれば、政府高官である妻の父の発言力をもってすれば、都の真ん中で仕事をするのも難事ではない。
順風満帆だ。十余年の時を経て、俺はここまで出世した。まだ留まるものではない。更にのぼる、もっと上へ。だが全てはこの街から始まった。この街で惨めな思いを噛み締めて、ようやく掴んだ栄光の端緒。五度目の試験にしてようやく科挙に合格したこの街は、俺の揺籃の地、第二の故郷である。
だが――。
「少し酔った。風にあたっていこう」
護衛の者に言って道を変えさせる段文祥。城下の川縁をぐるりと廻って官邸に戻るという彼の指示に異を唱える者はいなかった。
あれから十余年。片時たりとも忘れたことはなかった。あの幽鬼は今でもエンジュの樹の下に佇んで、彼が首を吊りにくるのを待っているのだろうか。
「伍靖よ」
彼の隣を黙々と徒歩で進む若者に文祥は続ける。
「かつてのわしがそうであったように、そなたらもまた、科挙に合格するためならいかなる犠牲も厭わないのだろうな」
はい、と痩身の青年は答える。陳伍靖が彼の元に身を寄せてから六年、今年で二十七になる。少年時代の面影は削げ落ち、思い詰めたような眼差しが苦学の跡を物語る。
「なら進士となるためなら、そなたは幽鬼妖魔と契約することも厭わぬか」
「旦那さま、お戯れを」
馬上の文祥に、陳伍靖は顔を俯けたままで答えた。
「そのような化け物、いるはずがございませぬ」
「仮の話だ」
「仮に、化け物の力を借りねば合格できぬような者ならば、まつりごとに携わる士大夫たる資格などありませぬ」
たしかにそのとおりだ。段文祥が無学な男ならば、科挙合格などおぼつかなかったに違いない。そもそも答案は全て彼が作成したものであり、幽鬼の知恵は一切借りてないのだから、彼の学識あっての合格であったことは疑いない。
「そなたの言はもっともだ」
言い置いたまま、あとは無言の文祥である。
月明かりに照らされて、しずしずと進む一行。よくしつけられた馬はいななきひとつ起こさない。
「あそこに何が見えるか」
指差す先は風防ぎのため、川岸に植えられたエンジュの木立である。その中にひときわ立派な古木があった。
はて、と夜目を凝らす青年。
「見るところエンジュのようですが、何かお気に懸かることでもございますか」
しかし段文祥は応えない。
彼にしか見えていないのだ。十数年前のあの夜と同じく、エンジュの傍に寄り添うようにして、老いさらばえた儒者ふうの男が独り、今もなお取り残されたように佇んでいる。
すでに二百年待ったのだ。たかが十数年など待つうちに入らぬのだろう。
「――エンジュに幽鬼が棲みついておる」
唐突な物言いに、青年は少し首を傾げる。
「面妖なことを仰る。幽鬼などいるわけがございませぬ。旦那さまとも思われぬお言葉です」
「いや伍靖よ、これは事実なのだ」
現に今、あそこにいるのは何か。十数年前に彼と契約した亡霊、二百年前に自らエンジュの枝で縊れ死んだ老学生の亡魂が、契約の果たされん日を今や遅しと待っている。
執念深く待っているのだ。いずれこの樹の下で、彼の屍が揺れるその日まで。
「なるほど」
しばらく首を捻ったあと、陳伍靖は手を拍つ。
「仰るとおり。たしかに槐には“鬼”が宿っておりますね」
文字遊びの戯れと勘違いしたようだ。
何を思うものか、段文祥の瞳は深く小暗く沈んでいた。
しばしの沈黙ののち、段文祥はくるりと馬首を廻らせる。
「少し冷えた。酔い覚ましには充分だ」
言い捨てて馬を進める段文祥。供回りたちは、気紛れな旦那だと閉口しつつも、慌てて後を追った。
翌日、新任の県令から初めての通達が下った。川沿いのエンジュのうち、老朽化が進んだものを伐採するようにとの命令である。
エンジュは総じて樹齢の長い樹ではあるが、なにぶん防風林としての役割で植えられたものであれば疲弊の度も相当ではある。万一強風に倒れ、通行人に害を加えてはならないという理由付けはもっともなことのように思われた。
日をおかずして、城下のエンジュのうち、二十八本が切り倒された。その中には当然ながら、幽鬼の宿る樹も含まれている。
全てが終わったという報告を、段文祥は執務室で聴いた。満足の体である。
俺は更に出世する。いずれは大臣、さもなくば州知事か。ともかく当代に名を残す顕官となるつもりだ。仮にもそこまで栄達した者が晩年、さしたる理由もなく首を吊って死ねるはずがなかろう。
――命を惜しむのではない。名を惜しむのだ。
段文祥はそう自分を納得させたのである。
*
任期を勤め上げ、再び都に戻った段文祥は、ついに念願の中央官庁入りを果たした。地方行政官から中央官僚への転身はあまり例のないことではあるが、思っていたほどの反発は受けなかった。先年、ついに大臣となった義父には男子がおらず、その跡を襲う者となれば娘婿の段文祥であろうとの見解は先からあった上に、義父を介して平素から主立った者に鼻薬を効かせていたのも奏功した。少々遠回りしたものの、彼の栄転は順調な滑り出しを見せ、今後の更なる出世は傍目にも疑いをいれなかった。
段文祥は知名の齢にしてようやく、自分を幸せな男だと思えるようになっていた。若かりしときの苦学の思い出も今は甘い追憶に変わった。むしろその頃の記憶は現在を育んだ誇らしい過去であり、まだ幼い息子が成長したあかつきには、語り聞かせて範としてもらいたいとさえ思うようになっていた。
遅くにできた子供が皆そうであるように、段文祥も一粒種の長子をひどく可愛がった。文慧と名付けられた息子は早々に言葉を喋りだし、これはずいぶん賢い子だ、父に似たのかあるいは祖父か、と親類縁者のお世辞も満更ではない。舅の手前、妾を持つことはしなかったので、文慧の後は子供ができなかったが、それでも彼は満足だった。たった一人の跡継ぎが身体も健康で、おつむの出来も悪くないのだから文句はない。あとはこの子の育成に万全の体制を整えるのが親としての務めであるとして、段文祥は陳伍靖を愛息の家庭教師につけた。
全く不思議なことだが、相当の学識があるにもかかわらず、陳伍靖はついに進士とは成り得なかった。試験とは無情である。合否のみが結果であり、どれだけ学才があろうとも、合格しなければ意味がない。しかし文祥は伍靖の才を惜しんだ。彼を個人秘書として召し抱え、息子の教育の他に、家内の様々な用向きの一切をも陳伍靖に任せるようになっていた。
仕事も順調、家庭も円満。外においては頼もしい舅がおり、内においては有能忠実な秘書がいる。妻は貞淑で、息子は健やかに育っている。これ以上何を望むというのか――。
だが息子文慧が長じるにつれ、喉に刺さった魚の小骨のように、小さな猜疑心が段文祥の胸につかえるようになっていた。
似ていないのである。息子の容姿は全くといってよいほど彼に似ていないのだ。息子は女親に似、娘は男親に似るとはいうものの、文慧は色の白いところを除いては母にも似ていない。
では誰に似ているのかというと、ある者は舅の幼い頃によく似ていると言う。孫が祖父母に似ることはよくあり、なるほど文慧は義父似かと、自ら納得させる彼であった。