槐翁鬼譚
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 ある日のことである。勤めの途中、急な腹痛をもよおした段文祥は早々に退き、帰宅した。主人の急な帰宅で家人は何事かと驚いたが、
「なに、大したことはない。大事をとって今日は休むのだ。ところで伍靖はおるか。頼みたいことがある」
 退勤する前に部下に指示していた書類を取りに行かせるつもりだった。その程度のことなら小間使いでも事足りるのだが、書類に目を通し、文書の下書きを作成するとなれば、それ相応に学問のある者でなければならない。彼が家に仕事を持ち帰る際には、伍靖の手を借りるのが常だった。
 ところがその伍靖がなかなかやってこない。所用で出かけているのか、はたまた息子文慧の授業中か。
「お待たせしました、旦那さま」
「遅かったではないか。どこかへ出ていたのか」
「はい、奥様のお言いつけで」
 答える伍靖の髷が心なし乱れている。急いで駆けつけたからだろう。
「どのような用事であったのか」
 いや、それは、と口ごもる陳伍靖。そこを強いて尋ねるとようやく、
「実は夢見が悪いとのことで、道士をお探しでございました」
「道士だと。まじない師などに何の用があるのだ」
「奥様の仰るには、夜な夜な夢にあやかしが現れ、恨めしげな目でにらむとのことです。近頃では夜になるのが恐ろしいとのことで、僭越ではありますがわたくしめが寝所の番をする次第です」
 冷や水を浴びせられた心地だった。あの幽鬼はたしかに言った。約束を果たさねば祟ると。彼がエンジュの樹を切り倒してから何年も経ち、これという災厄もなかったからいつしか気にも懸けずにいたのだが。
 伍靖の制止も聞かず、慌てて妻の部屋へ急ぐ段文祥。表情が蒼褪めていた。なるほど。彼に復讐するならば、本人に禍を向けるより、愛する妻子に厄を向けた方がずっとこたえる。狡猾な奴だ。
 訪いの声も掛けず、いきなり扉を開けたせいか、妻はたいそう驚いた様子だった。まだ昼だというのに寝台に腰掛けていた。横になって休んでいたのだろう、衣服も髪も乱れが見えた。
「伍靖から聞いた」
「……何のことでございましょう」
 うなじのほつれ髪を整える妻。十五も年若の妻は三十を越えたばかりの女盛り。若い頃は地味な顔立ちの娘だったが、年を増すごとにかえって色気も増したように見える。
「伍靖どのが――何と」
 たぶんそれは直感というより他に形容のできない感覚だった。
 妻の返事は何かかおかしい。
 彼はそう感じた。「何のことか」とは、いかにも探るような言葉である。「伍靖が何と」とは言質を取られぬよう、慎重に選んだ言葉ではないか。
「伍靖どのはどのようなことを申しましたか」
 相手の出方を待って返事を繕う構え――。
 彼には、そんなふうに聞こえた。
「何やら嫌な夢を見るそうだが」こちらも様子を窺いながら尋ねる「どんな夢だ」
「いえ、貴方にお聞かせするようなものではないのです。所詮は無学な女の意気地なさから出たことです。どうかお気になさらず」
 化け物だのあやかしだのと、教養ある男子が話題にすべきではない。それが世間の常識であるし、妻の返事もそれを受けてのことである。だがその態度がむやみと気に障った。
「伍靖には相談できて、わしには話せないというのか」
 それは、と一瞬口ごもる妻だったが、
「それは――貴方はお勤めに忙しいお身体ですから、かような些事をお耳にいれるべきではないと思ったのです。ですが伍靖どのはもう十年も我が家に仕える家宰です。事の大小に関わらず相談するのは、奥をあずかる妻としての務めです」
 驚きの目を見張る段文祥。こんなに能弁な女だっただろうか。結婚当初はさすが良家の子女だと、その物静かさを好ましく思い、しかし結婚数年を経ると物足りなさを覚えていたのも事実である。それがどうだ。今日は小賢しくもよく喋るものだ。
 女は元来お喋りな生き物であるが、もうひとつ、人が多弁になる事例がある。何かを隠そうとしたとき、人は嘘を散りばめて真実を埋没させる――。
 その日を境に、段文祥の眉間に黒い陰が宿った。
 疑心暗鬼を生むのたとえそのままに、疑い始めれば何もかもが怪しく思われだした。言葉尻ひとつとっても何か裏があるように思われる。召使いたちにそれとなく探りを入れても、彼らは何も知らぬ様子であるが、これとて考えてみれば疑わしい。彼らは皆、雇われ人、さもなくば妻の実家からやってきた女中である。役所勤めで留守がちな主人に義理立てするより、家内の実質的支配者である奥方や、内向きのこと一切を取り仕切る家宰に良い顔をしておいた方が好都合と考えるのは当然だ。
 懐疑が懊悩の種となり、懊悩が新たな疑心の花と咲く。見るもの全てに暗鬼が宿り、疑念が心に毒汁を注ぐ。そのなかでも最もつらく、認めたくないものがあった。
 文慧は俺の子か?
 たしかに文慧は彼に似ていない。とはいえ、まだ十にもならぬ男児である。男親に似てくるのはこの先だというのは理解できる。だがしかし、伍靖と文慧、二人きりの講義の様子を垣間見て息を呑む。なぜ誰も指摘しないのだろう。こんなにもよく似た二人。まるで年の離れた兄弟か、あるいは――。

 家を出る際に、今夜は宴に招かれているので戻らないと伝えておいた。もちろん妻を欺くための嘘である。そうしておいて、夕暮れにこっそりと帰宅し、庭の裏手から妻の寝所を見張る木立の陰に身を潜めた。
 一刻を経ずして西日が落ち、二刻を待たずして夜となる。それでも君子、段文祥はこそ泥のように木陰にうずくまり、間男のように妻の寝所を窺っている。三刻が過ぎて屋敷の灯りはほとんど消えた。妻の寝所にはうすぼんやりとした灯りが残っているが、これは夜が怖いからとの理由である。
 段文祥は自分の振る舞いを理解していなかった。妻の不貞を疑うにせよ、こんなふうに見張っていて何になるか。現場を取り押さえるまでいったい何度、こんな真似をするつもりか。実に効率の悪いことであり、そもそもが何の根拠もない疑念に過ぎないのだ。
 だが疑心に取り憑かれた彼はあくまでも大真面目である。
 長い長い闇の中、うずくまった段文祥は妄想を錬成させていく。今から思えばおかしな話だ。八年間、一度も懐妊しなかった妻が、どうしていきなり子を宿すのか。そして、以来再び孕むことがなかったのはなぜか。
 妄想は冷静な視線を容れようとしない。彼らは十五も年の離れた夫婦である。新婚当初の妻は幼さの残る十六、七の小娘。まだ身体が整っていなかったともいえる。ましてや文慧が生まれた後となれば逆に、四十を過ぎていた彼の精が勢いを失いつつあったとも考えられる。
 だが不都合な事実が妄想の天秤皿に載ることはない。その資格があるものは妄想の検閲を受け、邪念の包み紙にくるまれた、腐汁したたる“真実”のみである。
 陳伍靖。くちばしの黄色い青二才の時分から目を掛けてやっていたあの男。奴が進士となる夢を諦めたとき、俺は全くの親切心から、地方の役所に口を利いて、官吏の途を用意してやろうとした。だが伍靖はそれを断り、長年の恩義に報いたいとして留まった。その心がけをいじらしいと思った俺はずいぶんなお人好しだよ。
 加速する妄想に引きずられ、回転する想念に巻き込まれ、段文祥はしばらく気付いていなかった。いつしか妻の寝所から、くぐもった呻き声が地を這うように伝わってくる。苦悶するような、うなされるような、しかしどこか艶めかしいようなその声は、彼の妄想を更に刺激し、我知らず腰の剣を抜いていた。
 足音を忍んで窓際に近付く。帷の向こうから聞こえる声は徐々に激しさを増し、狂熱にうなされている。間違いない――。少なくとも彼は確信した。
 ついに妻は悲鳴を上げ、それを最後に呻きはやんだ。
「――ああ、伍靖どの」
 その名を聞いた瞬間、血が沸騰した。段文祥は窓の格子をぶち破り、薄絹の帷を引き裂いて、妻の寝所に躍り込んだ。
 寝台に身を起こし、硬直した視線をこちらに向ける妻。そばに寄り添う伍靖はというと、物々しくも鉢巻きまで締めて、手には六尺ばかりの棒を持っている。この格好が少なくとも情事を終えたばかりの男のものではないことくらい、冷静な目なら判断が付くだろう。
 しかし段文祥は激高の極にあった。
「姦婦がっ」
 叫んだ文祥はひと突きに妻の胸を刺し貫いた。
「旦那さま、何を」
「やかましいわ、下郎!」
 袈裟切りに打ちかかる文祥の剣を、護身用に持っていた棒で防ぎつつ伍靖は寝所を飛び出して、
「みんな、起きろ。旦那さまが乱心なされた」
 あちこちから家人が駆けつけるが、抜き身を振り回す文祥を恐れてなかなか近付けない。
「奥様が、奥様が殺された」
 逃げ惑いつつ叫ぶ伍靖を背後から斬った。前のめりに倒れた伍靖の背中へ馬乗りになって、とどめを刺そうとしたそのとき、誰かが腰にすがりつく。
「邪魔だてするかっ」
 逆手に構えた剣をそのまま背後に突き入れた。柔らかい手応え。
 幼い声は喉を貫かれ、言葉にならず血を吐いた。女中の一人が悲鳴を上げた。
「お坊ちゃまっ」
 振り返れば、剣の先から幼い身体が抜け落ちていくところだった。文慧は、がぼ、と声にならない音を漏らして息絶えた。
「ああ、ああ。何ということを」
 血まみれの伍靖は、しかし自身の深手よりも、目の前で惨殺された少年の最期に自失している様子である。しかしそれは文祥とて同じだった。
「旦那さま、貴方は鬼かっ」
 急速に冷めていく血潮。叫ぶ伍靖の声も遠い。
「なぜこのようなことを――」
 なぜこのような真似をしたのか、俺が訊きたいくらいだ。
 まさに憑き物が落ちたように、文祥の中から怒りが消えていた。なのに、どうしてかは解らないが、あえて伍靖にとどめを刺した。おそらくその声がうるさかったからであろう。もしくはいったん始めたことは最後までやり遂げねば気が済まない、彼自身の生真面目な性質ゆえにだろうか。

 妻子並びに忠実な家来を、何の咎もなく殺害した段文祥は獄に繋がれた。取り調べに対して彼は、不義密通を疑ったがゆえの行為だとし、息子を殺したのはあくまでも意図したものではないとしたが、しかし彼の罪が赦されるはずがなかった。ましてや調べを進めるうちに、どうやらその密通というのも彼の誤解によるものであることがはっきりしたのだから、なにをかいわんやである。
 段文祥の行為はまさに狂人の沙汰であり、重い罰を課さねばならないというのは皆の一致した見解だったが、死罪にまでなったのは彼の舅であり、なおかつ愛娘と孫を惨殺された大臣の主張に基づくところが大きい。大臣は年来可愛がっていた娘婿の凶行に怒り狂い、断固として極刑を主張した。
 そもそもが大臣の後ろ盾あっての段文祥である。その大臣が言うのだから、わざわざ弁護してやる義理はない。この際ついでだから、省内の賄賂だの汚職だのといった膿の部分も一切合切おっかぶせて始末してしまおうではないか。何かといえば身内に甘いと指弾される役所であるが、ここで厳しい処置をすれば、庶民の目眩ましにもなるだろう。
 そういうわけで段文祥の処分は公開処刑と決まった。残酷な見せ物は庶民を畏怖させる一方、嗜虐心をも満足させる。それがお偉い「進士さま」なら尚更で、身内すらも厳しく裁く官僚制度の公平さを強調するよい機会である。
 広場に引きずり出された段文祥。二本の支柱に渡された太い梁。その中央から垂れる荒縄に頸を掛け、彼の骸は風に揺れた。梁に使われた木材はエンジュであるが、それがどこから調達されたものか、いちいち青史に留める価値もない。
 ただ事実として、段文祥はエンジュの絞首台によって縊り殺され、死後、その骸は荒馬に引き回され、最後には野良犬の餌となった。
 それだけのことである。


あとがき
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