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 日本司法支援センター、いわゆる法テラスからの要請によって、私がその拘置所を訪れたのは、ようやく冬らしい景色が見えはじめた十二月初旬の頃である。
「初めまして。このたび国選弁護人を任された新免と申します。ところでお身体の具合はどうですか?」
 約三ヶ月前、折れた肋骨が内臓に突き刺さるという大怪我を負ったM氏は、怪我の回復を待って取り調べを受け、その後、この拘置所に移送されたのである。
「まあぼちぼちです」
 そう答えると、M氏は私に深々と頭を下げて、
「お忙しいなか、お越し下さって恐縮です」
 挨拶に続けて、シンメンとはどういう字を書くのかと尋ねてきた。
「新しいの“新”に免許証の“免”です」
「なるほど、免罪の免ですか」
 そう言ってM氏は苦く微笑むが、その皮肉な物言いはどこか冗談めかしている。
「新免といえば昔、大当たりした吉川英治の小説に新免某とかいう剣客が出てきましたが、先生のご実家は美作地方の辺りですか」
「そうです、岡山の北部です。あの辺りには新免という姓が今でもたくさんありまして」
 そうですか、とM氏は柔和な笑みを見せる。
「姓で自分のルーツが判るのは素敵なことですね」
 かくいうM氏の祖父は第二次大戦後のどさくさで財を成した、いわゆる戦後成金の一人で、噂によればずいぶん汚いこともしたらしい。しかしその余得に与って、M氏の父は資産家として生涯を全うしたし、孫である彼もまたあくせく働くことなく、四十四歳まで悠々自適に過ごしてきたのだから、一庶民たる私としては羨ましい限りである。
 ところで先生、とM氏は真顔になって
「せっかくご足労頂いたのですが、これだけは初めに言っておかなければならないと思います」
 笑顔を引っ込めてM氏は続ける。
「私は量刑の軽減を願ったり、ましてや無罪を勝ち取ろうなどとは毛頭思っておりません」
「ほう」
 それが口先だけの言葉でないことは確かだ。M氏は充分な資産を有していながら、法テラスからの忠告を固辞し続け、あえて私選弁護士を雇おうとしなかったのだ。そのためこちらにおはちが廻ってきたわけだが、私にしてみればいい迷惑だ。
「私は自分の犯した行為について弁解などしたくありませんし、虚偽の発言で事実をねじ曲げるつもりもありません。ですから――」
 私の弁護をしたところで骨折り損になりますよ、とM氏は冷ややかに笑う。
 M氏の冷笑的な態度は弁護する立場にあっては本来不快なものなのだろう。だが私は気に入った。それどころか爽快な気分にすらなった。何の因果か弁護士などをしているが、私はそもそも罪人の肩を持つような慈善的な人間ではなく、ましてや言葉巧みに黒のものを白に塗り替える、法廷ドラマの登場人物のような野心溢れる辣腕弁護士でもない。
「まあ私は国選弁護人ですからね。上にいわれて務めを果たしに来ただけです。だから何が何でも遮二無二成果を挙げようなんて、そんな心積もりじゃありませんよ」
 つまりなるようにしかならないということですよ、そう言い返して私もにやりと笑ってやった。
 M氏は自身、ひねくれた物言いをしていたが、まさか弁護士の口からこんな投げ遣りな言葉が出るとは思ってもみなかったのだろう。しばし呆気にとられていたが、
「これは愉快だ」
 破顔し、手を拍って大笑する被告人M氏。
「実に面白い方だ。結構、あなたに万事お任せしたいと思います。先生、短い間ですが宜しくお願いいたします」
 こちらこそ、と私も会釈した。
 この日、最初の接見において、すでに私は弁護士としての良心を放棄した。そもそもはなから乗り気薄な仕事だったのだ。
 逮捕された段階で、M氏は自らの罪を糊塗する素振りなど微塵もなかった。あまりにも無邪気に供述を続け、むしろ取り調べをしていた刑事を呆れさせたほどであったし、そもそも彼の犯罪が発覚したのも、彼自身が自首したからにほかならない。つまりM氏は自身の罪を他の誰でもなく自ら、しかも誰に強要されたわけでもなく認めているのだから、弁護士がしゃしゃり出てくる余地などない。
 とはいえここが法治国家の煩わしさだ。懲役三年以上を見込まれる犯罪に対しては、問答無用に弁護士が付けられる。私選の弁護士を付けなければ法テラスの斡旋によって、誰かしらがあてがわれる。それが被告人国選弁護という制度であり、法と人権の名のもとにおいて制度化されているその都合で、今回私は致し方なく、弁護士の真似事をしにきたのである。
「それではまた――」
 再会を約した別れ際、私とM氏はまたしてもにやりと笑みを交わした。束の間の会話で我々はお互いを理解したのである。緊張感のない被告人と熱意のかけらもない弁護人。我々の共闘関係は第一審のみで終結するものであり、まかり間違っても上告しようなどとは、被告人たるM氏も思ってもいない。だからこそM氏は「短い間」と言ったのだし、私もことさらにM氏を励まして法廷闘争を長引かせる気などない。
 我々は我々に課せられた仕事を消化する。消極的に、かつ速やかに。着地点が初めから判っているだけに、それはずいぶんたやすい仕事になるはずだ。

 

(2/5)へ続く
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