大統領の英断
(3/3)
そしてとうとうその日がやってきた。合衆国大統領ロバート・ウィリアムスのスキャンダルが発覚したのである。苦しい答弁を繰り返す大統領。自分の行為を否定するつもりはない。だが志半ばにして任を解かれるのは不本意だ。まだ目的は達していないのだ。あのこそこそと気色の悪いヘンタイどもを根絶し、笑顔と朗らかさに満ちたアメリカのエロスを世界に浸透させるまでは断じて退かぬ、退けぬのだ。
だが大統領は国民の代表である。不信任が半数を超えれば、たとえそれが国内の最も愚昧な連中の声であっても聞き入れねばならない。民主主義とはそういうものだ。
彼を取り巻く状況は絶望的だった。女性団体、宗教団体、教育団体、ありとあらゆる勢力が――悪ふざけの好きな若者と卑俗であることを誇る一部の人間を除いた全ての国民が――彼の真意を理解せぬまま彼を非難し、彼の社会的生命を抹殺しようとしていた。怒り狂う世論を無視できず与党勢力は彼を切り捨てた。ここぞとばかりに一気呵成に責め立てる野党議員。大統領の味方は誰もいない。世界で最も孤独な男、それがロバート・ウィリアムスその人だ。
大統領官邸で過ごす最後の一夜だった。明日には辞任会見が控えている。次期大統領の選出まで時間はあるが、彼は追われる身。つなぎの間は副大統領が職務を代行、彼自身は故郷のテキサスへ逼塞する羽目になったのである。
ロバート・ウィリアムスは息子の部屋をノックした。
「何か用?」
日本製のテレビゲームを前に、ファミリーサイズのポテトチップスを頬張るジョージ。むくんだ顔に埋もれる小さな瞳。肥満矯正プログラムの甲斐もなかった。
「ちょっといいかな」
ジョージは遅くにできた息子だった。上の息子とは十二も年が離れている。兄に較べて出来の悪い息子だとは思う。だがそれでもジョージを愛していたし、愛とは条件で変わるものではないのだと思う。
「ジョージ、もう知っていると思うが…。例のサイトのことだ」
ああ、それ、と気のない返事のジョージ。指に付いたコンソメパウダーを舐め取っている。
「それがどうしたの?」
「いや、その」
息子に話すことではないかと躊躇する。だがどうしても聞いておかねばならない。なぜなら全ては畢竟、煎じ詰めればジョージのためにやったことなのだから。アメリカの未来とはすなわちジョージの未来。青少年の育成とはすなわちジョージの育成。
「パパがやっていたサイト、ジョージは見たかい?」
「見たよ」
「そうか」
大統領は喉まで出かかった言葉を言い出せずにいる。たったひとこと「どうだった?」、尋ねたいのはそれだけだ。そして聞きたい言葉もたったひとこと「良かったよ」、それだけだったのだ。
押し黙る大統領。無言の雰囲気に飽きたのか、ジョージはテレビに向き直り、ゲーム機のコントローラーを手に取る。一時停止を解除すると耳障りな電子音が鳴る。コントローラーのボタンがカチカチと音を発てる。
――神さま、私を哀れと思し召すなら、たったひとことの勇気を。
「あのサイト、良かったか?」
ジョージの操る剣士は縦横無尽に戦場を駆けめぐり、押し寄せる敵をばったばったと斬り捨てていく。派手な効果音、光溢れる演出。近頃のゲームはすごい。実写映像と見紛うばかりである。声まで入っているのか。斬られた敵兵が絶叫し、女戦士が悲鳴をあげる。
「あんまり」
――なぜだ?
視界が潤んだ。なぜなのだ。なぜ解ってくれないのだジョージ?
「露骨すぎて、萎える」
膝から力が抜けた。
「どうしたの、パパ?」
「…いや、何でもない。もう遅いからおやすみ。寝る前に――寝る前の歯磨きを忘れずに」
ロバート・ウィリアムスは書斎へ続く廊下を蒼惶とした足取りで歩む。ひどい虚無感に襲われて何度も立ち止まり、壁に手をつき息を整えまた進む。
解らない。どうしても解らない。若く美しい女が裸形を晒して微笑みかけているというのに、ジョージはそれを「萎える」という。なぜだ。どうしてそこにエロスを感じないのだジョージ?
ほとんど伝い歩くような格好で大統領は書斎に戻り、馴染む間もなくお別れを告げることになった革張りの椅子に腰を落とす。
夜の静寂が心を掻き乱す。頭が狂いそうだ。逃れたくてテレビのリモコンを手に取った。
画面に映し出されたのは日本の小池首相だった。合衆国大統領のスキャンダルについてマイクを突きつけられている。
「――あってはならないこと。まことに遺憾に思う」
何だこの男は。いつも同じことしか言わないじゃないか。それにしても何と空疎な言葉だろうか。これでは答えていないのも同然だ。しかしこの首相はなぜだか妙に支持率が高いのだ。ということは日本の選挙民は、この一見無意味な言動から微細な何かを読み取っているのだろうか。
不意に思い出すフレーズ。
――モエはあまねく事象に入り込み、あらゆる事象を網羅します。
ひやりとした。そう、これは確かオタク評論家の弁だった。
そしてもうひとつ、四十年近くの時を超えて誰かの言葉がむくりと起き上がる。人間は体験したことを忘れない。ただ思い出せなくなっているだけなのだ。
――何もない姿にこそ趣があるのです。その世界では自然体でいようとする意思すらも邪念です。あくまでも無作為に、あるがままに。もしあなたが他者を消し、自己すらも消したとき、偶然に見出した一点の感動には全ての美が凝縮されているでしょう。
「くそったれが」
低く小さく毒突くと、ロバート・ウィリアムスはテレビの電源を切った。耳鳴りがひどい。
――くそったれ。
おまえらにしてみれば俺は野暮なのだろう。だが俺から言わせれば、おまえらは貧乏臭いしみったれだ。
「くそったれ」
もう一度力無く呟くロバート・ウィリアムス。
彼は明日、合衆国大統領を辞任する。
了
オンライン小説総合サイト NEWVEL に登録しています
面白いと思われた方は是非投票をお願いします
■投票ランキング用リンク http://www.newvel.jp/nt/nt.cgi?links=2008-11-1-27357
■レビュー書き込み用リンク http://www.newvel.jp/review/review.cgi?mode=write&no=27357&title=%91%e5%93%9d%97%cc%82%cc%89p%92f