常世の夢
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「おかしら。ピーター・パンが新しい子供を連れてきましたぜ」
部下の報告を、ジェームズ・フック船長はソファに寝そべったままの姿勢で聞いていた。
「おかしら?」
「聞いている。続きを話せ」
左手でラム酒の瓶を鷲掴みにし、ラッパ飲みする海賊の頭目。彼の右手は過日、ピーター・パンに奪われ、義手代わりに鉤爪を嵌め込んである。
「奴が連れてきたのは三人です。女が一人と小僧が二人」
ネバーランドに女が来るのは珍しいことだった。だがそれ以上に気に懸かることがあった。
「ちょっと待て。今おまえは女と言ったのか? 女の子、ではなく、女なのか?」
イヤ、すみません、と部下。
「女の子です、まだ娘っ子です。どうやらその三人は姉弟のようでして、その娘はガキどもの姉ちゃんみたいです」
娘の年頃は、とジェームズは訊く。
「遠目なんではっきりしませんが、十三、四くらいでしょうか。なかなかの器量好しで、もう何年かすれば結構な別嬪になりそうですぜ」
言って粗野に笑う部下。海賊ごっこも二十年を越えた。初めはごっこ遊びだったにもかかわらず、いつしか芝居が板に付いてきた。何となれば彼らフック海賊団は、ただの一度も海賊行為をおこなっていないのに、だ。
「どうします、おかしら?」
略奪せよ、と唆しているのだ。彼らは一度でいいから海賊っぽいことをしてみたいのだ。七つの海を股に掛け、財宝と女を奪い尽くし、絵本で読んだとおりの悪役を演じてみたいのだ。
だがジェームズは、ふむ、とひとこと洩らしたきりだ。酒瓶をテーブルに置き、あごひげを撫で、口ひげをつまむ仕種は、彼が何事か考え込むときの癖である。
「おかしら?」
「――ビル、ちょっとおまえに頼みたいことがある。他にも人手が必要になるな。チェッコとスターキーも呼んでこい」
集まった三人の部下に、ジェームズはこれから一週間、ピーター・パンを監視せよ、と申しつけた。
「ビルはインディアンの集落へ続く草原。チェッコは人魚の湾で待機。スターキーは遊撃、持ち場は特に決めないが、奴らを発見次第尾行しろ。ただし皆、深追いはするな。奴のねぐらを突き止める必要もない。こちらからは手を出すな。各々、日が沈む前に船に戻ってくること。何か質問はあるか?」
ありません、と部下たち。瞳が輝いている。退屈極まりない毎日にうんざりしていたのだ。
「弁当はスミーに用意させておく。朝、出かける前に各自受け取るように。戻ってきたら風呂に入って、それから俺のところに報告に来い。以上」
翌朝、三人の部下は、水夫長のスミーに手渡された弁当を仲間たちに見せびらかしていた。
「どうだい、俺の弁当は」
「何だかまずそうだな。このかさかさしたのは何だ?」
「馬鹿、これはビーフジャーキーだ。それはビスケットじゃねえぞ、乾パンだ、乾パン。俺たちはな、これから岩陰に潜み、草の根元に伏して、じっと奴の動きを監視するんだ。だから食事も非常用、戦場食なんだよ。湯気の出るあったけえスープなんぞ口に出来ないのさ」
三人は、これから自分たちがいかに危険で困難な任務に就くのかを口々に自慢したあと、意気揚々と出発した。残された者は散々に羨ましがったあと、次は自分に、とジェームズに言い募る。
わかった、わかった、と宥め賺すフック船長。まるで子供だ。
いや、事実子供なのだ。背は伸び、髭は生え、獣臭い体臭を帯びるようになっても、彼らは皆、少年だった。なぜなら彼らは常世の国、ネバーランドの住人なのだ。
我々はいまだ少年のまま――。
その事実を知る者はジェームズ・フックただ一人。
それを知る彼こそが、ネバーランド唯一の大人なのである。
海賊ごっこをしよう、そう提案したのはピーターだった。別段珍しいことではない。戦争ごっこや海賊ごっこは天気の良い日の定番だ。山なら山賊、海なら海賊、草原なら兵隊に扮して、少年たちは疑似戦闘に興じるのである。
「いいよ、やろうか」
特に怪しむこともなく、ネバーランドでいちばん背の高い少年、ジェームズ・フックは承諾した。
少年たちは海賊側と英国海軍側の二手に分かれた。海賊団を率いるのはジェームズと決まり、海軍指揮官に扮するはピーター。あらかじめ勝ち負けを決めるような真似はしない。日が暮れるまでの暇潰しなのだ。その場のノリで愉しめば良い。
その日の海賊ごっこはいつにも増して盛り上がった。少年たちはそれぞれにアドリブを加え、劇的な場面を演出し、互いに殺し殺され、また生き返りながらその日のお芝居を楽しんでいた。
「貴様が頭目か」
サーベルを振りかざすピーター。
「いかにも。我輩が海賊団の首領ジェームズ・フックである」
応じるジェームズ。反りの深い蛮刀を竜巻のように回して見栄を切る。
「敵ながらあっぱれ。名を聞こうか」
「私は海軍少佐ピーター。いまここに、私は決闘を申し込む。貴様も男なら一対一の勝負、よもや断るとは言うまいな」
言い放ち、サーベルの切っ先をこちらに向けるピーター。おいおい、ちょっと格好いいじゃないか。
「良かろう。士官学校出のお坊ちゃんに、戦場仕込みの我が剣技、とくと思い知らせてやろうぞ」
こちらもノリノリである。
派手に剣先をぶつけ合う二人。チャンバラで突きを使わないのは暗黙の了解だった。華やかに、大袈裟に剣を振り回す二人の姿に、少年たちから歓声が上がる。
互いに一進一退の攻防。だが次第にピーターが優勢になってきた。何だか遊びにしてはやけに気合いが入っているのだ。押されるジェームズ。崖ぎりぎりまで追い詰められて、いよいよこれはやばいと理解する。
「おいおいピーター。マジになるなよ」
鍔迫り合いになったとき、ジェームズはこっそり話し掛ける。
「危ないって。怪我するだろう?」
だが覗き込んだピーターの瞳にぞっとした。白目が血走り、瞳孔は殺気に満ちているのだ。
「ちょ、おまえ……」
絶句するジェームズに、ピーターはぼそりと呟いた。
「その手をぼくに近付けるな」
そしてピーターは恐るべき言葉をジェームズに突きつける。
「――あんたの右手は汚れている」
血の気が引いた。ピーターはジェームズの秘密を知っているのだ。
いつからだろう。自分の性器を撫でさすると奇妙な快感を得られると気付いたのは。そして行為の果てに、彼の性器から白い液体がほとばしり、その絶頂において、何もかも忘れそうな瞬間が訪れるのである。
ジェームズはそれが何なのか知らなかった。だが知らないなりに、これは罪深い行為だと直感し、決して誰にも知られてはならないと秘匿しつつも、しかしどうしても止められなかった。
秘密の快楽の虜となったジェームズ。それをピーターは知っている。のみならず、それが悪しき行為だとピーターは本能的に察知しているのだ。
棒立ちになったジェームズの眼前で、白い刀身が閃く。何が起こったのか判らなかった。かちゃり、と物音に気付き、刀を握ったままの右手が自分の足許に落ちているのを知った。
「おまえの右手、臭いんだよ」
言うと、さも汚らわしいといった表情で、ピーターは切断された右手を蹴り飛ばした。右手は海に落ち、回遊していたワニの餌食となった。
絶叫するジェームズ。だがピーターは一顧だにしない。
「ジェームズ・フックはぼくたちを裏切ったっ!」
世界に届けとばかりにピーターは言い放つ。凍り付いた少年たちはただただ無言だ。
「もうジェームズは子供じゃない。汚らわしい大人だ。その証拠に見ろ。奴はいま右手を失った。妖精の加護を失ったんだ」
ネバーランドにおいて彼らは不老不死だった。ましてやジェームズは、妖精に愛されたたった一人の少年なのだ。どんな怪我もたちどころに癒え、日の出から日没まで駆けめぐっても息ひとつ乱れないはずなのだ。
だが今や、ジェームズの右手は無惨にも切り飛ばされ、噴出する血液は止めどなく足許を濡らす。
認めざるを得なかった。島の守護者である妖精ティンカーベルは彼を見放したのだ。ティンカーベルは子供しか愛さない。そして最も勇気のある少年だけが、ティンカーベルの恋人に選ばれる。つまり手淫に耽るジェームズは、妖精の恋人たる資格を失ったのだ。
失血のため朦朧とする意識。惨めだった。こんなふうにしてぼくは死んでいくのか。背徳者として、裏切り者として死んでいくのか。でもそれは仕方のないことだ。ぼくは妖精を裏切った。のみならず大人のまま、子供のふりを続けた卑怯者なのだ――。
霞む視線の先にピーターがいた。その肩に留まるのは金色に輝くティンカーベル。なるほど、ピーターが新しい恋人というわけか。
二人は何やら小声で囁き、うずくまるジェームズに近付いた。
「ジェームズ・フック、ぼくはおまえを殺さない。ティンカーベル――ティンクも賛成してくれたよ」
退屈だったんだ、正直なところ、とピーターは続ける。
「ごっこ遊びはもうたくさん。だからね、おまえには本物の海賊になってもらう。乱暴で下品で性悪な大人。フック船長、おまえは今日から本物の悪党だ」
突っ伏したままジェームズは泣いた。今となってはどう足掻いても、それ以外の役回りは与えられないのだと理解したからだ。ティンカーベルの寵愛を失い、裏切り者の名を受けて、しかしなおこの世界に留まりたければ甘んじて悪役に徹せねばならない。それが嫌ならネバーランドを去ることだ。去って、本当の大人の世界に行くしかない。
でも嫌だ、大人になんかなりたくない。もはや子供ではいられないが、しかし大人にもなりたくないのだ。
ジェームズはその条件をのむしかなかった。
追放されたジェームズはネバーランドの沖合に浮かぶ海賊船に住むことを許された。永遠の国の魔力はここまで届かない。時間が意味を持ち、時計が効力を発揮し、二十数年の月日が流れ、ジェームズ・フックは髭の生えた中年男になった。
依然、ピーターは少年のままだというのに。
三人の部下から報告を受け、ジェームズ・フックは独り船長室に籠もる。相変わらずラム酒のボトルをラッパ飲みだ。美味くはない。冷やしたレモネードや甘いホットチョコレートの方がずっと好きだ。だが海賊はラム酒かジンを飲むものだと相場が決まっている。
ここ数日ピーター・パンは少女――名前はウェンディという――を連れてあちこち飛び回っているらしい。その態度も露骨で、他の子供たちを放り出し、娘と二人きりで遊びに行くようだ。
当然、不満が噴出する。なぜウェンディばかりをひいきするのだ、と。それに答えるにピーター・パンは「ウェンディはみんなのママになってくれる人だから、大事にしなければならない」などと言い訳しているらしい。
その報告を聞いてジェームズは激怒した。
ママだと? あの小僧、よくも言ったものだ。他の連中は言いくるめられても、この俺を騙せるとは思うなよ。ウェンディがママか。ならパパは誰なんだ? 誤魔化すんじゃない。おまえはウェンディの夫になりたいのだろう。みんなのパパになりたいのではなく、ウェンディの夫になりたいのだ。違うか?
そもそもがおかしいと思っていたのだ。ネバーランドに少女がやってくることは今までに何度かあった。とはいえ、女の子は次第に子供でいることに飽きてくる。しばらくしないうちにこの島を去ってしまうのが常だった。だが今までやってきた少女は皆、ウェンディほどに成長してはいなかった。
しかるにウェンディは毎日髪を梳き、膝を開いて座ることもなく、独りでこっそり水浴びをする少女だった。つまり女なのだ。年は若いが紛れもなく女なのである。それをわざわざ連れてきたピーター・パンの思惑はあからさまだった。
「あの小僧、色気づきやがって」
かつて彼を汚れた大人として弾劾し、追放したピーターが、自分はのうのうと女を囲っている。
「くそったれが」
言い放ち、酒瓶を放り投げるフック船長。
たおやかな腕、柔い胸、湿った唇。それらが恋しければ人魚と乳繰り合っていればよいのだ。実際、ネバーランドの少年たちは、母恋しさを紛らわすために海岸へ行き、美しい人魚の胸にもたれ、抱き合って波間に遊び、柔らかい肌に頬を埋めることもしばしばだ。幼い者などその乳首にむしゃぶりつきさえもする。
だがピーター・パンは人魚では飽きたらず、わざわざ人間の女を連れてきた。なぜか? 人魚は左右に開く太股を持っていないからだ。
詭弁を弄し、欺瞞を貫き、しなやかな二本の脚を持つ女を連れてきたからにはピーター・パンの意図は明白だった。
「許すまじ。ピーター・パン」
ジェームズ・フックは失われた右拳を握りしめる。自慰を覚えた少年が汚れているのならば、白い太股のその付け根に分け入ろうとする行為は万死に値する。違うか、ティンカーベル?
ジェームズ・フックは本気になった。お芝居ではない。本気でピーターを殺すつもりになった。だがこれはピーター個人に対する復讐ではない。ピーターは憎いが、それだけが目的ではない。
実際、ジェームズ・フックはもううんざりしていたのだ。日が昇り、日が沈み、月が現れ、月が消える。子供たちにとっては毎日が新しい朝なのだろう。だがジェームズにとって毎日とは、昨日の次に今日が来て、今日の後には明日が来るという間断ない日常なのだ。進歩も、しかし停滞もない、ただ自分が年老いてゆくのを看過するよりほかのない終身刑なのである。
「もう終わりにしてやる」
ピーター・パンを殺し、永遠に続く子供の王国とやらを台無しにしてやるつもりだった。
――そして俺はどうしようか?
構うものか。ジェームズは冷え切った笑いを口元に刻む。
いつまでも子供のままでいられるものか。子供はいつか大人になる。当たり前のことだ。たとえどれだけつらくとも、受け容れなければならない現実だ。下手に逃げ場があればこそ、かえって意気地がなくなるのだ。帰る場所がなければ、否が応でも踏み止まるしかない。
「ネバーランドの終わりの始まりだ」
そう、俺は海賊ジェームズ・フック。子供たちの敵であり、侵略する大人の象徴であり、夏休みの終わりを告げる先触れなのだ。