常世の夢
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ネバーランドの守護者にして、全ての奇跡の源である妖精ティンカーベル。だがその絶大な力とは裏腹に、ティンカーベル自体は極めて幼稚な精神の持ち主で、自分の存在がこの島を永遠たらしめていることにすら気付いていない。そもそもが人格を持たないネバーランドの精霊から、ひとしずく、何かの冗談のようにしたたり落ちた生き物なのだ。その存在は奇跡ではあるが叡智をともなわない。
そのティンカーベルは今、ご機嫌斜めである。ロンドンから連れてきた人間の女の子に首ったけのピーター。妖精の騎士たるピーター・パンが人間の女にうつつを抜かしているのだ。面白いはずがない。
もちろん幼稚な思考回路のティンカーベルは、そこまで自身の内面を把握しているわけではない。だが大人であるジェームズ・フックはティンカーベルの苛立ちが手に取るように解った。かつてはジェームズこそが妖精の騎士であり、恋人だったのである。
ピーター・パンを倒すには、精霊の守護を引き剥がすことが絶対条件だった。しかしこれは至難の業だ。ネバーランドにある限り、妖精の恋人ピーター・パンは無敵である。
だが付け入る隙がないわけではない。
ジェームズはティンカーベルに囁いた。
――悪いのはあの娘だ。ピーターは騙されているのだ。あのままじゃピーターがダメになる。それが解っているから、君はそんなにも腹を立てているのだろう?
無垢なる妖精は、かつての恋人であり裏切り者であるジェームズの言葉にしきりと賛同する。妖精の幼い思考力では、愛憎錯綜する「嫉妬」という複雑な感情を整理できずにいたのである。
――だったらぼくがあの娘を片付けてあげるよ、ティンク。ピーターが留守の間にあの子をさらってワニの餌にしてあげる。だからピーターたちがどこに住んでいるか教えてくれないか?
愚かな妖精はジェームズの言葉を疑いもせずに、ピーター・パンの秘密のねぐらを教えてしまった。
続いてジェームズはインディアンの娘を拉致し、ピーター・パンに挑戦状を叩きつけた。娘を返して欲しければ定刻定時、指定の場所に赴いて、彼との決闘を受けて見よ、と。
否をも言うはずがなかった。ピーター・パンはみんなの英雄。敵に背を向け、人質を見殺しになど出来るはずがない。案の定、ピーター・パンはやってきた。島の裏側、入り江の奥の洞窟に。馬鹿正直にもたった一人でのご来場だ。
「ようこそ、ピーター・パン」
人質を乗せたボートに仁王立ちのジェームズは、慇懃に帽子を取って挨拶した。
「約束通り、一人で来たな」
「この悪党め。人質を取るとは卑怯だぞ」
甲高い声で叫ぶピーター・パン。その声音には絶対無敵の傲りが透けて見える。たとえどんな手傷を負ったとしても、ネバーランドにいる限り、ピーター・パンは不死身なのだ。決して負けることのない決闘だから、ピーターは常に安心してヒーロー気取りでいられるのだ。
程なくして始まった二人の決闘。激しい剣撃が繰り返される。だがピーター・パンは決して短剣で突いてこない。突きは手元が狂えばおおごとになる。だからこいつは禁じ手にしよう――。かつて二人の少年が興じたチャンバラのお約束を、そのまま律儀に踏襲している。
つまりジェームズは嬲られるままの獲物なのだ。決して息の根を止められることはなく、ひたすらにピーターの仇役を務める道化師なのだ。
「わはは、さすがだ。ピーター・パン――」
激しい攻防に息も切れ切れのジェームズ。一方のピーターは火照った顔に汗ひとつかいていない。妖精の加護を受けた者は疲れを知らないのだ。
「今日のところは俺の負けだ。娘は返してやる。だが次は必ずおまえを倒す。その首切り落として、ワニの餌にしてくれるわ」
せいぜい悪役らしい捨て台詞を吐いた後、ジェームズは人質を解放して逃亡を図る。
「待て、悪党。逃げるのかっ!」
凛然たるピーターの声。だが本気で追い掛けるつもりがないのは態度を見れば明らかだ。何となれば、空飛ぶピーターが手漕ぎボートに追いつくのなど造作もないはずなのだ。
所詮、海賊フックはピーター・パンの引き立て役。まともにやり合えば勝ち目はない。だが、まともじゃないやり方ならどうだろう? そうともピーター。大人は狡くて汚らわしい。その大人の手練手管、これからじっくり見せてやる――。
夕暮れの海を悠々帰鑑するジェームズ・フック。今頃ピーターは今日の勝利に酔いしれて、意気揚々とねぐらに戻っているところだろう。
「だがね、ピーター。大人の闘いというのはそんな単純なものではないんだよ」
子供のケンカは単純明快。強い者が勝つ。問答無用に弱肉強食だ。故にガキ大将は大威張りで、子分はびくびくと首を竦めて暮らしていく。だが大人は自分より強い者に立ち向かわねばならない場合もある。その際、強いから勝った、弱いから負けたでは済まされないのが大人の事情というものだ。
「だからね、狡くならなければならないんだよ。それが弱い大人の闘い方だ」
ネバーランドをぐるりと回り、沖合の海賊船に辿り着いたときはもう日暮れ間近だった。
「船長がお戻りだぞ!」
手下たちは大喜びだ。これから始まる決戦に、武者震いを抑えきれないでいる。
「首尾はどうだ?」
「上々です、おかしら。娘っ子は船倉に閉じ込めてあります」
彼とピーターが決闘している間、ピーター・パンのねぐらを部下たちが急襲したのである。狙いは小娘ウェンディただ一人。
本当の人質はこちらだったのである。
「よし野郎ども、帆を張れ、碇を揚げろ。全速前進。急いでネバーランドを離脱せよ」
明日、全ての片が付く。お芝居なんかじゃない。本当の闘いが始まるのだ。命を懸けた殺し合い。それが決闘というものだ。
ピーター・パン。おまえの夢は明日終わる。
あるいはジェームズ・フック。おまえの悪夢も明日終わる。
ネバーランドの沖合彼方。波は静かで風は凪ぎ。
「来ますかね、奴は」
訝しむ部下にジェームズは目もやらず、
「来るさ。きっと来る」
「もし来なかったら?」
「絶対に来る」
確信をもってジェームズは断言した。妖精の恋人たる者は、無垢にして勇敢な少年でなければならない。その期待を裏切れば、気紛れな妖精に見放される。
「来ないわけにはいかないのさ。立場上な」
程なくして見張り台から叫び声。
「来ました、奴です。ピーター・パンです!」
海上はるばる飛んできた、緑の服のピーター・パン。ネバーランドを遥か彼方に置き去りにして、単身堂々のお出ましだ。
「卑怯だぞ、ウェンディを返せ」
叫びながら船首に降り立つピーター・パン。怒りのあまり、まなじりが吊り上がっている。ああ、奴は本気だ。そうでなければ意味がない。
「みんな、さがっていろ。手を出すな」
ピーターを包囲しようとする部下たちを制止し、ジェームズ・フックは前に出た。
「やあピーター。たいそうご立腹のようだね。昨日の君とは大違いだ」
「うるさい、つべこべ言わずにウェンディを返せ」
おやおや、と殊更におどけた仕種のジェームズ。
「ウェンディを返せ? その前に尋ねることがあるんじゃないか? 彼女の安否を確認するのが先だろう」
ピーター・パンの顔色が変わった。
「貴様、ウェンディに何をした?」
「何と問われてもね。まあ、君がしたいと思ったことをしたまでだよ」
満面を朱に染めたのは、果たして怒りか、それとも羞恥か。
「決闘だっ、決闘を申し込むっ!」
金切り声を上げるピーター・パン。だがジェームズは落ち着き払ったものだった。
「ピーター。“決闘”なんて言葉、いつもの調子で使ってもらっちゃ困るんだよ。ここがどこだか解っているのかい?」
見てごらん、と遥か彼方を指差すジェームズ。
「ネバーランドはあんなにも遠くだ。これが何を意味するか、よく考えてみるんだな」
ウェンディを誘拐し、遠く離れた海上にピーターをおびき出す。これ以外に勝機はなかった。ネバーランドにいる限り、妖精の騎士を倒すことは不可能なのだ。だがここはネバーランドの圏外、妖精の加護は遠く及ばない。
「つまり君は不死身の戦士じゃないんだよ。剣で斬られれば深手を負うし、血を失えば本当に死ぬ。これでようやく我々は対等に戦えるというわけだ」
「卑怯者め」
「卑怯? それは君の方じゃないかね? 決して死なない妖精の騎士。その特権にあぐらをかいて、遊び半分に悪党どもを狩り立ててきた英雄。圧倒的に有利な立場から繰り出される拳は、果たして正義といえるのだろうか」
黙れ黙れ、と気違いのように喚き立てるピーター・パン。肯んぜない駄々っ子そのものだ。
「――ピーター。私がその気になれば、部下に命令して、よってたかって君を襲わせることも出来るのだ。あるいはウェンディを盾にとって無抵抗の君を切り刻むこともね」
蒼褪めるピーター・パン。妖精の恋人に選ばれてから、初めて見せる怯懦の横顔。
「だがやらない。私は大人だ。メンツもある、プライドもある。君のような小僧とは違うのだ」
言いつつ、ジェームズ・フックは腰に左手を伸ばす。
「さあ、決闘の時刻だ。剣を抜きたまえ、ピーター・パン」
鞘から抜き払われた刃は白銀の輝き。幾度となく繰り返された一騎打ち。だが今回ばかりは特別だ。遊び半分のチャンバラでは済まない。文字通り、命懸けで闘わねばならないのだと、ようやくピーター・パンも理解した。
冷たい剣先に気圧されて、ピーターは二歩、三歩と後ずさりする。舷側に背中をぶつけて、ようやく後がないと気が付いた。
「――そんなにぼくが憎いのか、フック」
「ああ、憎いね。だが右手の恨みではないよ。追放されたのも、元はといえば私の罪だ、仕方のないことだと納得している。私が許せないのは――」
一足飛びに間合いを詰める。繰り出した突きがピーターの滑らかな顎の手前で静止する。
「私を裁いたその剣を、なぜ自分自身には向けないのだ。君こそ卑怯者だ。身勝手で甘ったれのわがまま小僧め」
「何のことだかぼくには……」
「とぼけるなピーター」
他の者には聞こえぬよう、ジェームズ・フックは囁いた。
「――スカートの奥に何があるのか、君だって知りたいと思っているんだろう?」
ピーターの耳たぶまでもが真っ赤になった。
後ろに飛びすさり、再び間合いを開けたジェームズ。鉤爪の右手で手招きする。
「さあ、一切合切終わりにしよう」
意を決したピーターも半身に構える。短剣を握った右手を胸元に引き寄せ、防御の姿勢をとっている。
先に仕掛けたのはジェームズだった。腕の長さと剣の長さ、それを活かした突きを入れる。危うく外したピーターは懐に潜り込もうとするが、それより先にジェームズが下がる。追えないピーター。当然だ。いつものような遊びではなく、命を懸けた決闘とならば、恐怖心が先に立つ。脚はすくみ、手は強張る。間合いを詰めるだけでも勇気がいる。常に有利な立場で狩りを楽しんでいたピーターには、真剣勝負の経験がないのである。
「どうした? らしくないぞ、ピーター・パン」
挑発し、ジェームズ・フックはせせら笑う。怒りに任せて突っ込んでくればこっちのものだ。何しろピーターは若い。身軽で機敏だ。片やジェームズ・フックは中年男。機動力、持続力では分が悪い。ならば腕力と体格差で押し切るしかない。
だがピーターはすい、と宙に浮き上がったかと思うと、あっという間に帆柱のてっぺんに避難する。空を飛べないジェームズ・フックは見上げて歯噛みをするばかり――。
とピーターは考えたのだろうが、それは先だって想定済みなのだ。
「娘を連れてこい」
手下に命じるフック船長。船倉から水色のワンピースを着た少女が連れ出される。栗色の髪をした美しい少女だ。ピーターが夢中になるのも無理はない。
「おいピーター、降りてこい」
ピーター・パンのみならず、ティンカーベルの鱗粉をまとった者は縦横無尽に空を飛ぶことが出来る。ただし例外者がいる。ジェームズ・フックとその一味だ。妖精の恋人ピーター・パンの仇役である彼らに、妖精が空飛ぶ力を与えてくれるはずがない。となれば、苦境に陥ったピーター・パンは当然空に逃げるはずである。そんなことは判りきっていた。
「この娘がどうなってもいいのか」
追えないならば、奴を地べたに引きずり戻してやる。
「卑怯だぞ、嘘つきめ。ウェンディを放せ」
「いいから降りてこい。君は何のためにここまでやってきたんだ。 この子を救い出すためじゃないのか? 約束しよう。勝とうが負けようが、決闘が終われば娘は無事に返す。だが君が決闘を拒むのなら話は別だ」
うるさい、うるさい、とピーター・パン。
「おまえの言葉なんか信用できるか、悪党め」
「聞き分けのない奴だな。なら仕方ない。お嬢さん、失礼するよ――」
言い置いて、ジェームズは躊躇なく、ウェンディのスカートを捲り上げた。露わになる白い太股。少女の悲鳴を海賊たちの歓声が掻き消した。
「どうだピーター。スカートめくりをしてやったぞ。君がまだぐずぐず言うのなら、もっとひどいことをしてやろうか」
「助けて、ピーター!」
「ほら、彼女もこう言っている。まさか、こんなに可愛いお嬢さんを見殺しにする気じゃあるまいね」
しかしピーターは怒りに震えながらも降りてこようとしない。 腰抜け、腑抜け、と口汚く罵る海賊たちにも応じない。
ならば、とジェームズは、
「意気地なしのピーター・パン。君はそこで指をくわえて眺めているがいいさ」
言うと少女を引き寄せ、耳の後ろに軽く接吻する。
「どうだ。君がやりたいと思っていることを、何ならここで全部やって見せようか」
その言葉に手下の海賊たちは一斉に色めき立った。おかしらはいったい何をやらかすつもりなのか。とんでもなくエッチなことをするんじゃないか。さすがはおかしら、悪党の中の悪党だぜ――。
しかし当の本人、ジェームズ・フックは内心焦っていた。これだけ挑発してもピーターは乗ってこない。これは計算外だった。ウェンディを助けるためなら遮二無二かかってくると思っていたのに、しかしピーターは怒りと恥辱に顔を真っ赤にしながらも、一向に降りてくる様子がない。正真正銘、命の遣り取りに怖じ気づいてしまっているのだ。
だが今日を逃せば好機は再びと巡ってはこないだろう。今回の件でピーターはひどく警戒するに違いない。ネバーランドから引きずり出すという奸計が二度通用するとは思えなかった。
つまり、どうあっても今日決着をつけるよりほかはないのだ。
仕方あるまい。ジェームズは腹をくくった。
「――おい、スミー」
水夫長のスミーを呼び寄せる。
「もし俺が死んでも、あの娘は解放してやれ」
「船長、何をおっしゃるんですか」
「いいから俺の言うことを聞け。今後の身の振り方はおまえらの好きなようにしろ。家に戻るも良し、ネバーランドに留まるのも良し。あるいは本物の海賊になるのも良いだろう。だが娘は解放しろ。これはメンツの問題だ」
言い捨てるやジェームズ・フックは剣を口にくわえ、帆柱をよじ登り始めた。隻腕の彼には骨の折れる行為である。
なぜ俺はこうまでしてピーター・パンを葬り去りたいのか。思わず自嘲して、くわえた剣を落としそうになる。
「――ピーター」
難渋の末に帆柱を登り切ったジェームズ。水平に伸びる丸太の帆桁に乗り移る。索を右腕に巻き付けた後、剣を取り直して言葉を続けた。
「思っていたよりも薄情なんだな。あの子が辱められても平気なのか」
ピーターに返事はない。
まあいいさ、ジェームズ・フックは肩を竦める。
「全ては私の都合で始めたことだ。君を責める筋合いじゃないな」
「――何で」
強張った唇をピーターが開く。
「何でこんなことを始めたんだ、ジェームズ。悪役が嫌になったのか?」
そうじゃないよ、ピーター。
「そろそろ大人になりたくなったんだ」
「なら勝手になればいいじゃないか。さっさとこの島から出ていけよ」
全くその通りだ。ジェームズ・フックは首肯する。
「ピーター、やはり君の言うとおり、私は意気地なしの卑怯者なんだろう」
もし苦境に立たされたとき、いつでも逃げ帰れる場所があったなら――。
おそらく自分は泣きべそをかきながら、きっと逃げ戻るに違いない。飢えも病の苦しみもなく、日の出から夕暮れまで遊び回っていられる桃源郷。明日のことなど憂いもせず、終わらない今日を繰り返す永遠の夏休みの国、ネバーランドに。
「存在しちゃいけないんだよ、ネバーランドは。そして永遠の少年、ピーター・パンもね。なぜなら――」
そう呟いた後、ジェームズ・フックは口ごもる。みっともない話だが、本当だから仕方がない。
「なぜなら君の生き方は、私の決意を鈍らせる」
勝手な言い種なのは百も承知だ。それでもあえて我が儘を通す。これからぼくは大人になる。子供じみた我が儘は、これをもって最後とするのだ。
「私のために死んでくれ。それがいやなら私を殺せ」
言い放って、ジェームズ・フックは突き掛かる。これ以上話すことなどなかった。